一民族やその社会で共有される文化を、仮りに狭義の文化とする。 私どもが外国から日本に帰「てくるだけで、釣られた魚が、ふたたび海にもどされたほ四 どの安らぎを覚える。 「文化とは、それにくるまれて安らぐもの。あるいは楽しいもの」 と、考えたい。 以下の広義の文化も、定義にかわりはない。 国が富めば、世界一の交響楽団がやってくる。聴くと、楽しさにつつまれる。印象派の 華麗な作品群にかこまれて展覧会場ですわっている場合も同じである。広義の文化は、む が高められ、しばしば元気が出る。 以上のような趣旨は、かって書いたことがある。 ごく最近、四、五人の人と同席して、記者会見を受けるはめになった。 ″文化と国家は関係がない。国家が文化に対してこれを顕彰するなど余計なことではない
文化 という意味の質問があった。 その翌日だったが、 民放のニュース番組のなかで、文化についての″特集〃が組まれて いた。右の席上での私の談話が、内容を削られて、出ていた。″ 特集〃だから私に著作権 や肖像権があるはずだが、無断だった。 「文化と国家は関係がある」 とのみ、画面の私は、前後を切られたまま答えている。つぎの瞬間には伝達主役の顔が うつって、不服らしい表情を作り、しかも無一言のままだった。 この欄で答えておく。 以下、事例だけをあげる。 てんびよう 八世紀の天平文化 ( 奈良朝文化 ) といえば、、 もまも奈良にゆけば見ることができる。 当時の日本は貧しかったが、国家が唐風の技術を導入し、平城京を現出させた。 「当時は、たいていが掘立小屋にすんでたよ」 あおに といっても、理解の足しにはならない。『万葉集』に「青丹よし」の歌があるように、 当時のひとびとも新来の文化をよろこんだし、後世の私どもも″天平文化〃という一言葉を キャスタ 191
世界は、せまくな「た。日本文化や日本史が共有される時代になったのである。 ( 一九九三〈平成五〉年三月二日 ) 144
明治維新という革命は、このままでは日本は亡びるという、危機意識からおこされた。 ぎよくせき そのあと、玉石ともに砕く欧化主義がとられた。「ザンギリ頭をたたいてみれば、文明 開化の音がする」というように、痴呆的なまでにその勢いがすすんオ 明治二十年代になって、このまま欧化がすすめば日本も日本人そのものまでなくな「て しまう、というあたらしい危機感がおこ「た。国民文化を中心に自己を再構築せよ、とい う運動だった。むろん国粋主義でも右傾化でもなかった。 くがかつなん 運動を始めた人達には、西欧の学問を十分にやった陸羯南のような人が多か「た。 皿文化の再構築 、よ ) 0 220
恥の文化 という内的規制の共有によ「て、千年以上も社会が保たれてきた。 れまい 「で、岩崎弥太郎の借金証文は ? 」 と、私はきいた。 「すばらしいものでした。貸したのは旧大名家ですが、当の岩崎さんは証文のなかにいっ とあるのみなんで つに返済する、と書き、もしこのことに違えば、お笑いください というのは、明治以前の証文の一つの型だ「た。その型が、明治以後、 お笑い下さい 日本に近代資本主義を興した弥太郎のなかにも、ひきつがれていたことが、おもしろさの 第一である。 もまの日本のことである。唯一の民族資産である恥の文化がどれ おもしろさの第二は、、 ほど薄れてきたかについては、読者のほうが知っている。 ( 一九九五〈平成七〉年七月三日 ) たが 289
雑誌に、伊藤文吉氏が語り手として登場している。 伊藤文吉氏は、新潟市の東郊にある豪農の末裔にうまれた。 といいつつも、 終戦直後に同家を訪ねた若い進駐軍将校が、日本の封建制はよくない、 「それにしても、あまりに日本の文化は素晴らしい」 といったそうである。そのことから、伊藤さんの行動がはじまった。この人は自分の屋 敷を所蔵の美術品とともに美術館として保存することにした。財団法人 ( 北方文化博物館 ) の認可は終戦の翌年の二月で、戦後最初の私立美術館だった。 この四十余年のあいだに、多くの見学者が訪ねてきてくれた。そのなかに若いころドイ ひがしやまかいい ツに留学した東山魁夷画伯がいた。画伯は、 「ドイツの田舎に″古い家のない町は思い出のない人間と同じである〃という諺がありま 構 再という言葉をのこしてくれた。 またイギリス人のローター 丿ークラブの会長は、自分は日本にきて近代的なホテルに泊ま 3 文 2 り、石油コンビナートや自動車のロポット工場を見せられてきたが、この″伊藤家〃にき
ナ ナ ふぜい いさぎよくもある、というので、日本の戦国時代、 その破れた風情が勇ましくもあり、 はたさしもの 武者たちの旗指物のデザインとして愛された。この旗指物をはためかせて馬上疾駆すると ふしやくしんみよう いかにも不惜身命のいさぎよさを感じさせた。芭蕉葉にこういう美的思想をもたせた のは日本文化だけではあるまいか。 伊賀の国に上野城があり、城主藤堂家の嗣子に仕えた松尾という若い武士が、おなじく 年若な主人の死に遭い、出奔して江戸に出た。 年を経て、深川六間堀に住み、小庭に芭蕉をうえた。塀ごしに葉がさかえ、遠目にもよ くみえたので、ひとびとは芭蕉庵とよび、自分でもそれを俳号にした。 芭蕉翁はむろん芭蕉の仏教語としての意味をよく知っていたはずである。 日本人の精神生活を活気づけてきたのは、草や木であった。 俳句以前から、日本文化は草や木の名をじつによく知っていて、名まで風情のうちとし て楽しんできた。 「日本人から草の名をきかれると、じつにこまります」 としわか しつく
てやっと、 「自分の考えていた日本に会えた」 、つ、一 0 伊藤さんは、その写真をみると、思想的な風貌をもち、県の日米協会の副会長もっとめ ている。いわば世界にむか「て″日本文化の残存〃の一片を守「ている。 読後、明治の羯南は、いまの時代ではこのような思想的実行者として存在してもいるの かと思った。 ( 一九九四〈平成六〉年七月四日 ) 224
外国人にして、日本文化の研究と紹介にすぐれた業績を示した人に賞をもらっていただ ことしは第十一回目で、受賞者はアメリカ合衆国のプリンストン大学名誉教授マリウ ス・・ジャンセン博士である。贈呈式は、三月二十九日。 話を、龍馬にもどす。 明治維新を招来させたひとびとのなかで、坂本龍馬だけが卓越した先見性と開明性をも っていた。いわば、山片蟠桃を実践家にしたような人物だった。 私事だが、私は『産経新聞』に昭和三十七年 ( 一九六一 l) から四年間『竜馬がゆく』を 連載した。 当時、不遶にも龍馬の右の本質に気づいたのは自分だけかもしれないとおもっていた。 賞ところが連載中、たまたま故大岡昇平氏が、丸善で買「た右のジャンセン教授の坂本龍 いちじっちょう 馬についての著作を送ってきてくださった。読んで、教授のほうが私より一日の長がある 3 ことを知った。
エスノセントリズムは、そのように、個人にとっても民族にとっても哺育器の効用をも っている。 が、個人や社会が成熟すると、不要なものになる。 たとえば、個人の場合、青年になって家族を離れ、大学や職業社会に入ると、異文化を 摂取しなければならない。社会の場合、明治の日本のように、国家ぐるみで異文化をとり 入れる場合、エスノセントリ ズムは、しの底に押しこまれる。 それでも、エスノセントリ ズムは潜在的には息づいている。 たとえば、私は兵営という特殊な経験をした。 軍隊は、軍隊であるというただ一種類の原理で動いている。 義 住でありながら、三カ月もたっと、自分の属する班に対し、特殊な、いわばエスニック 中 ( 民族 ) に似た感情をもつようにな「たことを憶えている。自分の班が善良で、他の班が 集異民族のようにみえてくるのである。 ( 人間というのは、こういうものか ) 273