江戸 - みる会図書館


検索対象: 風塵抄 2
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1. 風塵抄 2

独創 ( 一八六五 ~ 一九四一 l) だった。かれは、 「日本人に独創性があるか」 というゆゅしい疑問をみずからに問うた。 それをしらべるために、前時代 ( 江戸時代 ) の古本を片つばしから買って読んオ むろん自費であった。この負担のためもあって、生涯妻子をもたなかった。 狩野は秋田藩士の出で、明治の初期、東京帝大の理科大学で数学を専攻し、文科大学で 哲学を学んオ 京大創設の前は一高校長だった。 「もし日本人に独創性がなければ、あらたに大学などを興してもむだだ」 と、思いつめていた。 あつめた本のほとんどは、筆写本であった。 しよ、フえき 六一 l) を発見した。 いわばゴミの山のような古本のなかから、安藤昌益 ( 一七〇三 ? ~ はちのヘ しんえいどう 陸奥の八戸の町医で、『自然真営道』をあらわした人物である。 昌益は、一切の世の階層・職業はウソ・マヤカシであることを論証し、徹底した平等思 、よ ) 0 13 7

2. 風塵抄 2

ったわけではなく、ひとびとは慣習としてーーー感情と倫理の処理法とし下ーー自死したの である。 な 近代に近づくにつれ、人は哭かなくなる。むろん人間の悲しみに古今があるわけでない。 ただ近世も現代も悲しみ方が、多様になった。 誇大な表現も、通用しなくなった。 たとえば、江戸時代、俳句が興った。詩でありながら、水は水のように、 に、その本質を表現しようとした。 さかんな商品経済が、人間を、近世・近現代人に変えたのである。 「この酒は、まずい」 と、江戸落語の登場人物が言う。江戸は、地の酒がまずかった。ときに登場人物が、 「旦那、もも 、酒ですね」 にしのみやみなと たるかいせん とほめるのは、はるかに摂津の西宮湊から樽廻船で運ばれてきた灘の酒だった。万人が、 ごく自然に商品のめききになっていた。 じ なだ ここん 石は石のよう 226

3. 風塵抄 2

家という、三つの聖職のうけもちになる。滑稽なことだが、この三つの職業は、人によっ てはしばしば虚喝におち入りやすい いっそ、自分の冶金は自分自身でやるのがいちばんいい。 もしこれを怠れば、実直はしばしば単にお人好しになる。 むろん虚喝漢の食いものにもなる。たとえば黒澤明の「七人の侍」の前半の農民たちの ようにである。 江戸時代、日本の都市的なしごとは、農村からきた次男坊以下によってささえられた。 そのころ、田地を相続できないかれらは、江戸や大坂の商家に奉公して商売を身につけ 、鍛冶、鋳物、織物、陶磁焼きなどの るか、大工左官、屋根ふき、金属細工、船具づくり 職仕事の徒弟に入り、″手に職〃をつけて、商品生産をになった。 「職人は金を貯めるな、宵越しの金はもつな」 と、とくに江戸の大工や左官の親方は、弟子たちにいっこ。、、 ついてくる、ということを教えたのである。 も腕をもてば金は自然に 106

4. 風塵抄 2

持 江戸幕府の徳川家康は、江戸に政府をひらくについて、息子の秀忠やその臣僚にまかせ、 すんぶ 自分は駿府 ( 静岡市 ) に退き、基本方針として、 組織は、三河の風のとおりにせよ。 と、指示した。家康がまだ三河の小大名だったころから、行政上の評議機関として数人 ろうじゅう の老中を置き、その下に何人かの若年寄を置いて執行させた。 老中筆頭が、こんにちの首相にあたる。総体に、なまぬるい制度だった。 明治になってからの内閣制度も、首相一人に英雄的な大権限をもたせるというふうでは なく、そのあたり、江戸時代に似ていなくもない。 ″持衰〃の気分になってみると、そのなまぬるさがよくわかる。 首脳に英雄になれとは″持衰〃はおもわない。ただ古来の風土としての誠実さだけをひ たすらに期待するのである。 欧米からみると、制度としての日本は毛が三本足りない。 が、″持衰〃という古代人にな「てみると、その足りなさを狂おしく指摘するよりも、 269

5. 風塵抄 2

江戸時代、初等教科書のことを、「往来物」とい「た。 その種の古本は、どんな貧しい家にも、二冊や三冊はころがっていたらしい 新井白石 ( 一六五七 ~ 一七二五 ) は、、 もうまでもなく江戸時代きっての学者で、独創的 思想家であった。白石は貧窮のなかに育ったから、 たぐい 「ただ往来物の類などをよみならふのみなりき」 おり と、その自叙伝『折たく柴の記』にある。 往来物は、寺子屋でつかわれた。 の義論 ( ディベイト ) 2

6. 風塵抄 2

新井白石は江戸中期の思想家で、儒学という古い学問の徒でありながら、独創的な人文 科学的思考をする人でもあり、古代史、一一 = 〕語学の学者でもあ「た。周知のとおり、政治家 でもある。 その自伝『折たく柴の記』は卓越した和文で書かれている。しかも秤で物をはかるよう に、自己が客観的に計量され、江戸時代に住みながら近代人だ「たことがわかる。 「父にておはせし人」 という語法が、その冒頭にある。″私の父は〃といえばすむところをこのように持「て 世界の主題 はかり 23 )

7. 風塵抄 2

内容は″世の中早わかり〃とい「たようなもので、歴史や地理も書かれていれば、産業 や経済のことも出ている。江戸時代、印刷本だけで数百種もあった。 はんもの 寺子屋の師匠によっては板物をきらい、みずから書きおろしたりした。そんな手書き本 までふくめると、江戸末期の大坂だけで数千種近くもあったらしい 科挙という官吏登用試験は中国・朝鮮史をつらぬく大きな特徴であった。合格すれば ″一代貴族〃になれた。 が、一面、神の子ほどの賢さにうまれつかないかぎり、文字を学ぶことはむだという風 いまなお、四割ほど もうまれた。そのせいかどうか、中国はむかしから無字の人が多く、 が無字だという。 べ 日本の江戸期の場合、寺子屋は庶民の子のための塾であった。 デ 庶民の子は、どうせ丁稚奉公にゆく。文字を識らねば帳簿がつけられず、ゆくゆく番 論頭・手代にもなれない。船乗りになっても、船頭にはなれなかった。 たかが醤油屋の番頭や荷船の船頭になるつもりで学問をしたのである。近代以前の中国 議 のように聖賢の書を読むか、でなければ無字ですごすかというはげしい選択はなかった。 かきょ でっち

8. 風塵抄 2

「はい、次男はとなりの町の信用金庫につとめさせて頂いております」 と、べつに裏口入社でもないのに、そんな語法が近江では多用されてきた。 それが、江戸末期あたりに大阪の船場に移植されたのではないか、と私は思っている。 江戸・明治の大阪の有力な商人は、近江人が多かった。たとえば高島郡の人が大阪に出 て呉服屋として成功し、やがて百貨店高島屋へ発展する。 船場の番頭・手代には近江人が多かったから、自然″近江門徒〃ふうの語法が、頻用さ れたのではないか。 「では、あの品物は当方にひきとらせて頂きます」 となると、さきの空からすこし離れ、相手への奉仕を誓う語法になる。しかも品物を介 在して売り手と買い手が、すっきりと平等になる。 政治家が、国民から負託されて政治を代行していることは、、 商業における品物である。 両者のあいだには上下はなく、そこに機能のちがいしかない。 しうまでもない。政治は、 766

9. 風塵抄 2

飼いならし れているのをみると、そう思わざるをえない。 「あなたの宗教は ? 」 と、前稿で、アラブ圏で日本人がよく質問される例を引いた。無宗教です、ともし答え たとしたら、「私は飼育されていない野生の人です。野馬みたいに」というにひとしい という意味のことをのべた。 世界じゅうが、日本について無知である。 もし質問者のなかに日本通がいて、さらにはその人が、大思想の効用は人間を飼いなら してよき社会的動物にするためにあるという機微まで心得た人であるとしたら、たとえそ の日本人が″無宗教〃と答えても、よく理解してくれるはずである。 「なにしろ、あなた方は、江戸時代というものを経ているからな」 江戸時代二百七十年というのは、世界史でも、社会の精緻さにおいてとびぬけていた。 ただし、仏教はその存在を政府 ( 幕府 ) に保証されすぎていて怠惰にな「ていた。たと四 えば僧侶の品行については本来なら宗門内部で検断されるべきであるのに、幕府の寺社方

10. 風塵抄 2

おそらく江戸の盲人救済の思想的根底に″ひとごとではない〃 という仏教渡来以来の感 覚が息づいていたのに相違ない。 ″因縁が一つちがえば自分もそうた〃という ″他生の縁〃の感覚は、江戸時代人にとって 日常のものだったことを思えばい、。 中国や朝鮮の儒教は、先祖代々無数の固有名詞の連鎖の最後の一環として自分があると した。韓国には、幼時に、何百という先祖の名を暗誦させられた、という人もある。 これが、古代では文明思想だった。 「野蛮人は、四代前の先祖の名を知らない。華 ( 文明 ) とのちがいである」 と、中国古典は、紀元前の匈奴の風についてそういう。 匈奴は、遊牧民であった。 題 まつばらまさたけ 主文化人類学者で遊牧にあかるい国立民族学博物館教授の松原正毅氏によると、現在のト 界ル「の遊牧の現場では、自分の羊のむれと他人の羊たちとを、時と場所をきめて集団でか けあわせるという。優生学的な配慮である。 きようど