インドでは、いまはすたれたが、ヨーガをすることで解脱をめざす派があった。 オウム真理教は、そのへんを悪しくとり入れた。 日本の新興宗教で解脱をめざすなどはめずらしかった。昆虫学者が珍種の昆虫をよろこ 、ト、、つこ、 二の宗教学者が関心を示したのも、むりはない。 ナマ身の人間が解脱できるなど、あり得ることではない。 だが、幻覚はある。 禅やヨーガの修行をするうちに、にわかに光明を見たり、爽快な気分になったりする。 それは悟り ( 解脱 ) ではなく、禅では魔境とされてきた。それを錯覚させないように禅 宗各派には、お師家さんという練達の指導者がいるのである。 オウムの凶悪なところは、古来いわれてきたこの魔境を利用したところにある。人間が 脱やる悪として、これほどの悪はない。 、ユま 健康な歯を抜けば、その歯はふたたびもとに戻せない。オウムの出家者たちは、職をす 297
じゃくめつ スの数字も入っている。生命がうまれ ( プラス ) 、寂減する ( マイナス ) という間断なき働 きこそ、ゼロから出ているのだと考え、そう考えることが楽しい ( 為楽 ) とした。たとえ四 みちゅき ば、浄瑠璃の『曾根崎心中』のなかで、心中への道行の途中、鐘が鳴る。「じゃくめつゐ らくとひびくなり」と近松門左衛門が書くように、日本の江戸後期には慣用句にまでなっ ていたことがわかる。 阿弥陀如来も大日如来も、ゼロの象徴なのである。つまり、われわれはゼロを信じてき 「信心」 というのは、四、五世紀以来、大乗仏教によってはじまるが、それまでの仏教は、解脱 だった。解脱は、常人にはなしがたい。おそらく伝説の釈迦以外、解脱をなしとげた人は いないのではないか。 「わが身がそのままゼロになる」 という境地をめざすのが、解脱への修行である。 十三世紀以来の日本の禅もそうである。 げだっ
人が、後ろめたさなどかけらもない善人の顔として登場する。 この集団では、しきりに救済といった。 救済の思想は釈迦当時の仏教にはな、。 大乗仏教になって、その基本思想の一つになった。煩悩が生命である以上、人は、解脱 。カ子 / も 大乗仏教では、それでも仏の側が救済してくれるという。その救済の仏の側のシンポル がたとえば観音さまや阿弥陀如来である。救済は大乗仏教の至高の観念といっていも ″オウム〃は小乗的解脱を言いつつ、大乗的な救済もいう。ただしこの集団では、救済と う術語は、しばしば無差別殺人のことをさす。 具 つまりは、人間は業の果てとして存在している。その業を、個体個体を殺すことによっ 。、かにも、なま解脱である。なま解脱による幻 のて、親切にも切断してやるのだ、という 想、もしくは無感動的感覚が、このような始末になる。 ウ オ ″オウム〃が製造したのは、電気器具的人間である。 283
なま解脱 でなければ、たとえば、深夜、他人の家に忍びこみ、若くて幸福そうな夫婦を殺し、そ の小さな息子まで扼殺するということが、出来るものではない。 しかもかれらは、異常性格者ではなく、どこからみても常人で、この奇妙な心理操作の 団体にさえ入らなければ、この世を大過なく送れたはずの人達なのである。 オウムではなま解脱が個々にまかせていては追っつかないために、薬物をつかって幻覚 を見させた。いわば大量になま解脱を製造した。それぞれの自我は、損壊された。そのあ と、かれらは、一命のもと、社会への犯罪に打って出た。 その後の凄惨さにはことばもない。 ( 一九九五〈平成七〉年十月二日 ) 299
を買、つ。 ことである。煩悩が生命そのもの 解脱とは一般に、生きて煩悩から脱するーー悟る であるだけに、そこから解脱し、かっ他への慈悲をもち得た人は、伝説上の釈迦以外なか ったとさえいえる。 近似値に近い悟りーーー自分だけの悟りーーを持「た人は歴史上すくなからずいた。それ でも至難のことで、まして本物の悟りなど、不可能に近い 禅もそうだ でありながら、″オウム〃ではわずかな修行で、おおぜいが悟ったという。 が、ヨーガにもある段階で幻覚がおこる。この初期体験が、よき師をもたないと、修行者 を狂わせる。冷酷な感覚が宿る。 ど一 具古来の禅もまた解脱のための体系である。そのぶん毒があるといってい 器 の ただ禅は、鎌倉以来、層々と文化を築いてきた。 道元の思想文学や、臨済五山の詩、室町時代の数寄屋普請、世界でもユニークな庭園、 オ利休の茶道など、すべては禅的な理想境の表現なのである。文化にな「たぶんだけ、なま 解脱による毒がうすれる。だから、禅はいいともいえる。 281
て、財産を献上し、抜歯された歯のようになって施設にいる。そのことじたいが、人とし て異常である。 入信の動機は、仮想の世界減亡を信じ、自分だけまぬがれるためだ「たという。帰るべ き社会を捨てているために、修行しかない。 こ、つこっ 当然、魔境に早く達する。そういう魔境では自我が薄れ、恍惚だけがある。マインドコ ントロールされやすい なま解脱のために俗心は濃く残っている。 「えらい位階を与える」 といわれれば、気勢いたってしまう。 「人を殺せ」 そくいん といわれればやる。なま解脱では、万人がもっとされる惻隠の情 , ーーー他者への思いやり が、こそげおとされる。 なま解脱の魔境では、世界は空で他人のいのちも空だ、と思いこむ。酷薄になり、残忍 になる。 きお 298
なま悟りの幻覚的な解脱は、異様としか言いようのない虚無感をうむ。他者がごみのよ 、つに見える。 あるいは他者が眼前で苦しみ死のうとも無感動で、すべてが流転のなかの影絵のように みえる。いわば、小悪魔のような段階がある。 ″オウム〃でいう解脱はそうだったらしい この集団では、電気洗濯機をまわすように、 にんにく つぎは、忍辱である。″オウム〃ではこの仏教用語を多用した。 人は、少年期から生涯他からの侮辱をうけつづける。忍辱とは、そのことに耐え、怒ら ないことである。 このなしがたい徳目が、″オウム〃にあっては術語化され、技術化され、自己催眠のよ うに機能化された。いわば電気製品のスイッチを転ずるように″忍辱〃をやる。 たとえばテレビカメラの前では善人の顔になる。大量殺人を指揮しつづけてきたらしい この種のなま解脱を大量生産しようとした。
解脱、忍辱、救済のどれかの、ボタンを押すと、手軽に構成員が反応する。洗濯機がまわ って、″解脱〃する。 しかもそれらの洗濯機たちは、″空飛ぶ洗濯機〃になることも願望しているのである。 その願望が信徒としてのエネルギーになり、共有され、思わぬことに洗濯機が、窃盗も し、拉致もする。 「救済しよう」 と、元兇がいえば、大量に″救済〃をした。それが、大量殺人だった。 元兇のおぞましさについては、書く気もおこらない。 ( 一九九五〈平成七〉年六月五日 ) 284
Ⅲ日本語の最近 二人の市長 戦前の日本人 市民の尊厳 渡辺銀行 持衰 エスノセントリズム 自集団中心主義 自我の確立 恥の文化 2 自由という日本語 なま解脱 ″オウム〃の器具ども 29 ) 290 28 ) 280 2 乃 2 刀 266 267 2 ) 6 2 ) 1 246 241
″オウム〃は、まず観念として人を大量に殺す。その上で、現実化する。 おそろしいことに、無差別である。理由らしい理由もない。 人類の歴史で、これほど人間に対して冷やかな感情を共有して人を殺戮した集団はなか った。しかも、たれもが本来、常人だった。教祖をのぞいてだが。 その教義は、電気器具に似ている。 店先で商品でも買うように、 「解脱」 げだっ 119 ″オウム〃の器具ども 280