るためである。すでに二十数回をかさねた。 くどいようだが、自分や仲間たちの経験を絶対化するなど、壺の中の仙人のようなもの だとい、つことはわかっている。 ひちょうばう 暑気しのぎに、壺の中という寓話を紹介しておく。『漢書』のなかの「費長房伝」での はなしである。 費長房は、後漢の道士であった。 かれがまだ道士になっていないころ、ある日、楼上から市をながめていると、老翁が薬 を売っていた。老翁のかたわらには、壺が置かれている。市がおわると、老翁はひょいと 壺の中に入ってしまう。 いち 市の人達はたれも気づかず、費長房だけが、楼上からそれを見てしまった。 あとでかれは老翁に頼みこみ、二人して壺の中に入った。 なかはひろびろとした金殿玉楼だった。ご馳走がふんだんにあって、費長房は大いに飲 み食いした。 費長房はさらに老翁にたのみ、仙術を学ぶべく山に入った。 ごかん かんじよ いち
費長房の好き日々は、みじかかった かれは仙人からもらった符のおかげで諸人の病いをなおし金持にな「たが、のちその符 を失うことによって、鬼にとり殺された。 万能の符を持っためにほろんだのである。 昭和陸軍もまた明治憲法の″統帥権。という符を持ち、それによ「て日本を″壺中の 天〃に閉じこめ、自他の国民に深刻な害をあたえた。 費長房と同様、国家もろともにほろんだ。 右の壺中の天と、私どもの戦友会という小さな″壺中の天〃とは、じかに関係はない。 会員のほとんどが私よりすこし年上である。 りちぎ この会の元軍曹や元上等兵は、戦中も戦後も律義に生きた。その会ではいまだに、カン ヅメを十個ばかりごまかした准尉の件が、大事件として語られるのである。 以上、昭和史における小さな証言として。 ( 一九九二〈平成四〉年八月三日 )
なにしろ外貨準備高が世界一という土地なのである。街をゆく若い女性や中年婦人の服 装がさりげなく贅沢で、思わずわが女房の質素な旅行着をふりかえったほどだった。 台湾資本の百貨店は上等な商品であふれている。家庭用電気器具のフロアーをみると、 日本製、ドイツ製、フランス製の商品が、それぞれ機能の工夫を競いあっていた。イタリ アにいたっては、中華料理用の大きな包丁までつくって売っているのである。 ただ美国 ( アメリカ ) 製がすくないのをみて、アメリカ経済が、こういうこまごまとし た商品の開発努力を怠っていることを、台湾という、 世界の商品が自由に入る市場にきて、 あらためて思い知らされた。 夜、産経の吉田信行特派員と、歩道を歩いた。『産経新聞』は『日本工業新聞』ととも に日本ではただ二社だけここに支局を置いている。 歩道に段差が多く、あやうく転びそうにな「た。歩道は公道なのだが、どの商店も、自 分の店の前だけは適当に高くしている。高さに高低がある。 「″私〃がのさばっていますな」 と、冗談をいった。中国文明は偉大だが、古来、″私〃の文化でありつづけてきた。皇 120
著者略歴 一九二三 ( 大正十一 l) 年、大阪に生まれる。 四三年、国立大阪外国語学校蒙古語科を仮卒 業、学徒出陣。四五年、戦車第一連隊士官と して栃木県で敗戦を迎える。四八年、産経新 聞社に入社。六〇年、『梟の城』により第四十 一一回直木賞を受賞。六一年、産経新聞社退社。 七六年、『空海の風景』など一連の歴史小説に より第三十二回芸術院恩賜賞、八三年、「歴史 小説の革新」により朝日賞のほか、数々の賞 を受ける。九一年、文化功労者に顕彰される。 日本芸術院会員。九三年、文化勲章受章。一 九九六 ( 平成八 ) 年二月十二日死去。 主著、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『峠』『翔 ぶが如く』『ひとびとの跫音』『菜の花の沖』 『韃靼疾風録』ほか、『街道をゆく』シリ など多数。 ふうじんしよ、つ 風塵抄二 ⑥一九九六検印廃止 一九九六年四月三〇日初版印刷 一九九六年五月一〇日初版発行 しばりよ、ったろ、フ 著者司馬遼太郎 発行者嶋中鵬二 本文印刷 精興社 表紙・カ・ ( ー印刷大日本印刷・ 製本 小泉製本 発行所中央公論社 〒東京都中央区京橋二ー八ー七 販売部 ( 03 ) 3563 ー 1431 電話 編集部 ( 03 ) 3563 ー 3666 振替〇〇一二〇ー四ー三四 定価はカ・ハーに表示してあります。 落丁本・乱丁本はお手数ですが小 社販売部宛お送り下さい。送料小 社負担にてお取り替えいたします。
「風塵抄」一一 『産経新聞』一九九一年十月 ~ 一九九五年一 月、三月 ~ 七月、九月 ~ 一九九六年二月に基 本的に月一回、朝刊掲載。掲載年月日は各篇 末に表記
日本に明日をつくるために 、れよ、、ゝ 力に兇悍のひとたちも、すこしは自省したにちがいなく、すくなくともそれが終 息したいま、過去を検断するよすがになったにちがいない。 住専の問題がおこっている。 日本国にもはや明日がないようなこの事態に、せめて公的資金でそれを始末するのは当 然なことである。 その始末の痛みを通じて、土地を無用にさわることがいかに悪であったかをーーー思想書 を持たぬままながらーー国民の一人一人が感じねばならない。でなければ、日本国に明日 ( 一九九六〈平成八〉年二月十二日 ) きようかん 317
物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和四十年に 一坪四百五十万円だったものが、わずか二十二年後の昭和六十二年には、一億五千万円に 高騰していた。 坪一億五千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはず がないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰り、売る。 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産の ために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。 がその大原則のもとで、いわば資本主義はその大原則をまもってつねに筋肉質でなければ ならず、でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させ る てしま、つ。 っ を 日 明 こういう予兆があって、やがてバブルの時代がきた。 本日本経済はーーとくに金融界がーー気がくるったように土地投機にむかった。 どの政党も、この奔馬に対して、行手で大手をひろげて立ちはだかろうとはしなかった。 あが 引 )
このひとは、法的に農地から宅地に転用されるまでのあいだ、青ネギを植えているので ある。 宅地に転用されれば、坪八万円になるという。 法的には、体裁として栽培している。あるいは、擬態として。さらにいえば半段の農地 が大金を生みだすための時間待ちとして、一本五円ほどの青ネギをうえているのである。 日本史上、はじめて現出したこの珍事象には、、 しままでの農業経済論も通用せず、労働 の価値論もあてはまらない。 労働のよろこびもなく、農民の誇りもない。 いかにえらい経済学者でも、この現象を、経済学的に説明することは、不可能にちがい ートになり、そのこ 青ネギが成長するころ、その農地は大願成就して、木造二階建ア。ハ ろには、坪数十万円ぐらいになっていた。いかなる荒唐無稽な神話や民話でも、この現象 の荒唐性には、およばない。 これをもって経済現象といえるだろうか。 日本じゅうが、そのようになっていた。 引 4
日本人の自然に対する畏敬がそのまま凝って神道にな「たといえる。従って、教祖も教 義もない。強いていえば、清浄というだけのことである。任意の場所を浄めてきよらかに 斎きさえすれば、そこに神が生れる。 伊勢神宮は二十年ごとに建てかえられるが、式年遷宮早々の檜の木肌のわかわかしさは、 乙女の肌の血潮をおもわせるようで、若さの神聖とはこのことかと思ったりする。 正月にま、、、 尸ことに若松をたてる。 水も、若くなっている。とくに元旦に最初に汲んだ水は、年のはじめの水であるために ことは 特別に若く、であるために神聖で、いかなる利害の意味もつけずに、ただ尊いがために寿 いで飲む。 一方で若さを寿ぎ、一方で古き仏たちの古寂びを尊ぶという二つの感情は、論理として 統一されることがなく、たれのなかにも同居している。その無統一が、根源として日本人 の活力をつくっていると考えていい。 ( 一九九六〈平成八〉年一月八日 ) 312
正月だから、古来の日本人の感受性についてふれたい。 日本における老若の神聖感のことである。 おわ なにが老いているとい「ても、奈良盆地のあちこちに在す仏たちほど、老い寂びている ものはない。天平のむかしは金色燦然としていたり、極彩色であ「たりしたものが、千年 の風霜を ~ て剥落し、寂びのきわみのまま堂塔のなかにおわす。 それを塗りなおすことは、決してしない。剥落に風化の美しさを見出しているのである。 多弁にいえば、極彩色のころのなまなましい具象性よりも、風化したあとの象徴性のほう 9 に日本人は神聖感を感じている。 若さと老いと てんびよう