「彩野良治夫妻を励ます会〃なら文句はないだろうや。一億円は集めてみせるからな」 どうやら結婚は本気らしい、と綾は思った。 「なるほど〃励ます会〃ねえ。″囲む会〃でもいいわけでしよ。主旨は、はっきりしてるわ けだから」 杉野がおせち料理をがつがっ食べながら、訊いた。 「おまえはどんな夢みたんだ」 「あなたが、東亜銀行の鈴枩ム長と握手をしてる夢は覚えてるわ。昨夜の話でいちばん印象 に残ってたのかしら」 「ふうーん。そう言えば鈴木君が、藤田相談役が勲章を欲しがってるようなことを言ってた なあ。藤田相談役は東亜銀行一筋の人で、全銀連の会長職の経験もないから、瑞一は無理だ クろうが、瑞一一ぐらいなら、なんとかしてやれるが」 ジ藤田俊一は東亜銀行の中興の祖と言われた人物で、昨年古希を迎えたが、いまなお隠然た プる影響力をしていた。 鈴木は大学の後輩であり、鈴木を後継者に引き上げたのも藤田である。 ゴルフ好きの藤田は、杉野のゴルフ仲間でもあった。 章 一一全銀連とは全国銀行連合会の略称である。 杉野の一一 = ロう瑞一は、勲一等瑞宝章、瑞一一は勲一一等瑞宝章のことだ。 財界人が経済連など経済四団体の会長や副会長の要職に就きたがるのは、勲章欲しさから ずいいち
催は、関西で新聞、放送局を経営しているオーナー社長だが、広域暴力団との関係も深 、藤岡の親分格で、イトセン事件の主役と目されていた。藤岡をイトセンに送り込むこと によるイトセン倒産劇のシナリオは、催によって書かれたと見る向きが少なくなかった。 杉野に催を紹介したのは藤岡だが、杉野は何故か「帝都経済ーで催を採り上げたことはな かった。 ビールの大瓶を三本あけたあと、催はコップ酒になった。 催がグラブのようなごっい手でコップに銚子を傾け、水でも飲むようにぐぐっとあけた。 藤岡と杉野はローヤルサルートの水割りを飲んでいた。 「高促が株式を七月か八月に店頭公開するそうやが、杉野先生は知っとりますか」 「竹村君は何年も前から公開したいと言ってたが、アイドルに先を越されて、相当カリカリ してたようだな」 アイドルは、消費金融大手で、富福のライバルだ。 縁「徳永が大蔵省と話をつけて、やっとお墨付きをもらったそうやないですか」 腐「徳永君も動いたらしいが、わたしが武井君に話してやったんだ」 章徳永三郎は、一兀大蔵省銀行局長で、大蔵のポスの一人として知られていた。 ル「武井が絡んどるんですか。なら話が早い。おまえ、武井に電話せんか」 催は、右手の人差し指を藤岡の胸もとに突き付けた。 「自宅におらんかったら、議員会館に電話をかけろ」
のスギリヨー。の威力は凄まじい。彼らはロでこそ「スギリヨー」と呼び捨てにしている が、面と向かえば足がすくみ、膝頭をふるわせながら「杉野先生」とこめつきバッタに変身 する。 杉野は妻の最期を看取ることはしなかった。 文子がお茶の水にある大学病院に入院したのは平成六年九月末だが、すでに手遅れだっ 杉野が入院中の文子を見舞ったことは一度もなかった。 しかし、特別室の病室は、杉野とっきあいのある企業から贈り届けられる花でいつもいっ ばいだった。多額の見舞い金を平河町のオフィスビルの十階にある産業経済社に届けてきた 企業も十数社に及ぶ。 文子の最期を看取ったのは、長男の文彦と長女の田宮治子の一一人だ。文彦は三十四歳、治 子は三十一一隲治子は、杉野が自著で産業経済社から上梓した『信仰は勁し』の中で、″産 業経済社の守護神〃〃究極の宗教〃とまで崇めている〃聖真霊の教〃に入信しないことなど を理由に、勘当されたが、文子の入院以降、なしくずしになりそうな雲行きだった。 もっとも、治子にとって、父の勘当など痛痒も感じなかった。 つよ
ろろ 8 少なくなかった。しかし、遠藤を除いて辞退は認められなかった。 彩野良治・綾ご夫妻に咸館する会〃の反響は小さくなかった。 一月下旬に発売された「週刊真相」がすつば抜いたが、記事を掲載した「週刊真相」が発 売一日で完売したことも話題を呼んだ。 産業経済社のオーナーで、経済誌「帝都経済」主幹の杉野良治氏 ( 六十七歳 ) といえ ば、こわもてで聞こえているが、昨年十一一月に愛妻の文子さんに先立たれたことは記憶に 新しい。その杉野氏がこのほど秘書役の ~ ・ロさん ( 四十七歳 ) と再婚することを明らか にした。 曽根田弘人一兀総理、大山一一一郎コスモ銀行名誉会長は杉野氏の応援団長を自他共に認めて いるが、この一一人を発起人代表に、杉野氏と懇意にしている五十人もの政財界人を発起人 とする杉野良治・綾ご夫妻に感謝する会〃が二月七日東京のホテルオーヤマ「平和の 間」で開催されることになった。 〃案内状〃を紹介したあと、記事は次のように続く。
「じゃあ、ほんとのことを話してやる。できることなら、言いたくなかったが、きみがしつ こいから、しようがないよ。山下明夫と童泉ホテルで朝まで話してたんだ」 どこを押したら、こんなでたらめが言えるんだろう、と田宮はわれながら呆れ返った。 「山下は僕の勤め先を吉田修平から聞いて、電話をかけてきたんだ。きみに会いたくて上京 したわけじゃないけどね」 治子は途端に威勢が悪くなった。 「産業経済社に復職したいんだってさ。『帝都経済』を名実共に一流経済誌にするのが夢だ とか言ってたよ。あいつは根っからのロマンチストなんだな」 田宮は治子が唇を噛んだのを見逃さなかった。 「なんなら山下に電話をかけて確かめてみるか。僕はきみの電話で動転なんかした覚えはな でいよ。妙な暗合にドキッとしたことはたしかだけど」 「山下の復帰にあなたは賛成なの」 あ の「反対する理由はないと思うけど」 情「父がするはずないじゃない」 章「さあねえ。山下が仕事ができることは主幹はよくわかってるから、必ずしもそうとは言い 第切れないよ。とにかく事実関係はそういうことだ」 山下明夫の名前を出されて、治子は動揺していた。攻守所を変えた具合いだが、田宮はよ 川くもこんな口から出まかせが言えたものだと自分に呆れていたし、自己嫌悪に陥ってもい
とって最大の業務になっていた。 支局は取材網、情報網としても機能しているが、それ以上に産業経済社の集金システムと して機能していた。平成七年から従来の年間五十万円の会費が一挙に百万円に倍額値上げさ れた。 倍額値上げを杉野に進言したのは瀬川である。 「『産業経済クラブ』の会費は平成三年に五十万円になって以来、もう四年間も据え置かれ てきましたが、そろそろ値上げしてもよろしいんじゃないでしようか」 「うん。一一割値上げするのは主幹も賛成だ」 「いや、倍にして百万円にしましよう。年に一度主幹の名講演が只で聴けて、フォーラムで はめったに聞けない中央政界のホットな極秘情報にも接することができる。しかも去年から 始めた″歩こう会〃がすこぶる好評です。一一倍の百万円に値上げしても会員が減ることはな いと思いますけど」 「そう一 = ロえば平成三年のときは年会費を従来の十五万円から五十万円に値上げしたんだった な。会員が激減するんじゃないかと心配したが、まったく減らなかったなあ」 「そのとおりです」 = 「産業経済クラブ」の会員はすべて企業である。 ふところ 個人の懐が痛むわけでもないので、値上げにアレルギーが少ないことはたしかだった。 もっとも平成三年のとき、値上げを機に中小企業で退会を申し入れたところがあるにはあ
よなあ」 「尻込みもくそもないだろう。産業経済社に復帰したがってる奴のせりふとも思えないよ」 「俺が産業経済社に復帰したがってるって、どういうことた」 「上京して、瀬川さんと話したんじゃないのか」 「示へはここ数年、行ってないが : : : 」 「瀬川さんに会ったのは事実か」 「それは事実だ。一一月の中旬に仙台で会ったよ。『産業経済クラブ』で、仙台で主幹が講演 したとか話してたなあ。″歩こう会〃のことも聞いたよ。瀬川さんは昼休みに学校へ電話を かけてきた。夜、会いたいって言われて、ホテルでめしを食ったが、復帰って言えば、田宮 がカムバックしたいと主幹に頭を下げてきたようなことを言ってたぞ。俺に戻る気はないか でって、しつこく一一一一口うから、つゆほども考えていない、と答えた。瀬川さんがおまえに対し て、俺が復帰したがってると話したとしたら、なにかよからぬことを企んでるとしか思えん あ のなあ」 情瀬川は、杉野が俺に執心していることを快く思っていないのだろうか。杉野と亠・ロとの 章再婚、そして俺が復職すれば、瀬川の存在感が相対的に低下するかもしれない。それへの危 第機感から、山下へのアプローチになったと考えて考えられないこともなかった。 山下なら、瀬川を脅かすほどの存在にはならない。思い過ごし、思いあがりだろうか。 策謀家の瀬川が考えそうなことだが、俺のカムバックはあり得ないのに、危機感を持つの
「なんだかんだ言ってものおが外れっ放しで、現世利益が得られなくなったので、 主幹のほうから神様を見限ったんですよ。三年ほど前でしたかねえ。朝礼で突然『〃聖真霊 の教〃とはきよう限りで縁を切る。お山に行く必要はない。山本はなはインチキ教祖だ』と 宣言したんですけど、社員は全員をあげたんじゃないですか」 「あんなに霊験あらたかだと言ってた瀬川さんもか」 「もちろんですよ。瀬川さんにとって、神様は山本はななんかじゃなくて、主幹なんでし 山本はなは〃聖真霊の教〃の女教祖だが、大スポンサーを失って、教団が被った経済的な 打撃は小さくなかった。 「主幹がいちばんこたえたのは、イバラギゴルフクラブの会員権を何万枚も乱売したケン・ エンタープライズ社長の木野健が逮捕されたことだろう」 「そう思います。主幹は木野健を″お屮にかくまってたんですが、神様のお告げが外れ て、警察に逮捕されちゃったんだから、がつくりきますよ。木野健から一億円ふんだくっ て、木野健の言い分、言い訳を『帝都経済』に五ページも書いてたけど、あれで主幹も完全 にキレちゃいましたね。そう言えばイトセンが潰れたときもお告げは外れました : ・ 「うん。イトセン事件では検察の冒頭陳述で産業経済社と主幹の則をあげられた。監理料 だかの名目で一一億円もイトセンから得ていたとかなんとか。むろん事実だろう」 ″イトセン事件〃とは、住之江銀行系の中堅商社、イトセンが闇の世界に浸食され、絵画取
ろ 08 「産業経済社は人材不足で、僕に復帰を求めてくるほどなんですけど、あなたが入社するの 力いいと思うんです」 「もしもし : ・ 「はい。 あんな会社に入って、わたしにできることがありますかねえ」 「いくらでもありますよ。たとえば経理の勉強をして、経理部門を担当するとか、主幹の秘 書をするとか、いろいろあるんじゃないですか。あなたがその気なら、僕から主幹に話して もいいと思ってるんですけど」 文彦は再び沈黙した。 田宮がいらだたしげに呼びかけた。 「もしもし」 「はい」 「どうですか」 「少し考えさせてください。あまり気が進みません」 「あなたが自力で再就職先を探せるんなら、僕の出る幕はないが、僕も治子も、あなたが産 業経済社に入るのがいいと考えてるんですけどねえ。あした主幹に会うつもりなんだが、打 診だけでもしてみましよう」 「父はいい顔しないんじゃないでしようか」
「来年は書道展を開催するぞ。主幹はいまやプロの境地に到達してると書道の大家の御墨付 きをもらった」 杉野は瀬川ら側近に吹聴していたが、「大家の御墨付き」は口から出まかせの虚言である。 本人は勝手に大書道家になったと思い込んでいるが、並の書家でも首を左右に振る低レベ ルであることは間違いなかった。 西伊豆高原クラブは、産業経済社が一口三千八百万円から七千万円の高額法人記名会員権 を大企業から中小企業のオーナーに至るまで押しつけ販売をしたリゾートゴルフコースとし て、財界で知られている。産業経済社が取得したコミッションフィは十億円を軽く超えた。 バブル経済崩壊後の平成三年から四年にかけてのことだから、ほとんど嘘みたいな話だ が、大山三郎を代表理事に担ぎ出して、財界著名人で理事会を構成したことがセールスポイ ントになった。 倒産寸前の西伊豆高原クラブがよみがえったのは杉野のお陰である。杉野はリース業界最 大手のパシフィックリース社長の笹本弘から百一一十億円の融資を引き出すことにも成功し 西伊豆高原クラブ社長の持丸龍介が、大恩人の杉野を厚くもてなすのは当然で、ロイヤル スウィートに何日宿泊しようが、何度コースに出ようが、一。毋 ~ 〕贍ロハである。 杉野は、時に瀬川や川本ら幹部を西伊豆高原クラブに呼びつけることもあるが、ドンチャ ン騒ぎをやられても、クラブ側は料金を請求できるはずがなかった。