工 「大一一郎が治子に話したらしいからなあ。治夫のことについては、大一一郎はおまえの味方だ 綾が遺言状のことに踏み込もうとホゾを固めたのはこのときだ。 「あなた、治夫が実子だという証拠をお願いよ」 綾もさすがに杉野を正視できなかった。 綾がそっと面を上げると、杉野は案に殞理して、厭な顔をしていなかった。 「おまえがここへ来る前にちょっと考えたんだが、文子の喪が明ける一年後ぐらいに、おま えを入籍したらどうかと思ってなあ。俺もホテル暮しは飽きたよ。おまえと浜田山で暮らす のがいいんじゃないかと思ってるんだ」 思いがけない杉野の言葉に、綾はしばし放心状態になった。 杉野がグラスをって、じれったそうに訊いた。 「おまえの考えはどうなんだ」 「あなたから、そんな言葉を聞けるなんて、夢にも思わなかったわ。嬉しくて涙がこばれそ うよ」 事実、綾の大きな眼が潤んでいる。 一杉野も感きわまって、涙声になった。 「おまえは俺のパートナ 1 として、今日までよく尽くしてくれた。俺が今日あるのも、半分 はおまえのお陰だ。おまえをに直すのは当然だろうが」
たしかに、それは一一一口える。スギリヨーファンはゴマンといるのだからーーそう思うと、金 釘流が芸術作品に見えてくるから不思議だった。 杉野はビールを飲みながら、会席料理をがつがっと片つばしからたいらげてゆく。そのス ピードは神業としか言いようがない。一一時間かけて賞味すべきところを三十分で片づけてし ま一つ。 ホテル側も心得たもので、杉野に合せて料理を出す。 綾は焦るが、どんなに急いでも一時間は要する。 杉野は超人的な胃袋の持ち主なのだ。もう少しゆっくり食べれば、もっと美味しいはずな のに、といつもながら綾は思う。せつかくの料理が泣くが、杉野の早めしは、財界でも有名 ヾ , 」っ一」 0 それを咎め立てできる者は誰一人いない。綾は一度だけ遠回しに注意したことがある。 「あなたのスピードについてゆける人がいるかしら」 じろっとした眼をくれて、杉野は言い放った。 「めしをのろのろ食ってる奴は、仕事も愚図助で、ダメな奴だ」 さすがの綾も言い返せなかった。 杉野は年越し蕎麦もつるつるっとあっという間に胃へ流し込んだ。 綾は半分以上もざる蕎麦を食べ残した。 「勿体ないな。よこせ」
りようじ 体八会社産業経済社社長・隔週刊経済誌「帝都経済」主幹の杉野良治の妻、文子が肺癌 ( 幽明驪にしたのは、平成七 ( 一九九五 ) 年十一一月一一十九日正午一一十分過ぎのことだ。 杉野は午後一一時過ぎに都内を走行中の専用車リムジンの中で妻の訃報を聞いた。 電話をかけてきたのは秘書役の左である。綾は四十六隲の肩書は秘書役だが、 産業経済社のナンバー 2 で、財務・経理部門を一手に握っていた。 会「文子さんが亡くなったそうよ。たったいま、治子さんから電話があったわ」 狎れが出ているのは仕方がないが、いつになく緊張気味で声がかすれていた。 一「ふうーん。治子から : : : 」 「そうよ。治子さんよ。わたしが直接電話に出たから間違いないわ。治子さんも、わたし とわかったみたい。よそよそしいっていうか、つんつんした感じの電話だったわ。『一応 5 第章再 第一章再会 ふみこ
ろ 40 「発起人に多則を連ねた財界人は、最低一一一十万円。五十万円包む人もいるでしよう。五百 人平均で一一十五万円とすれば一億一一千五百万円です。欠席者の三百人は一人十万円として 三千万円。〆て一億五千五百万円になるわけです」 一方、宴会のコストはどうか。二万五千円の特製のフランス料理が用意されるらしい が、会場費や引出物など一切合財で三千万円以下に収まることは間違いなさそうだ。差し 引き一億一一千五百万円。 一時間半のセレモニーで、なんとポロイ儲けではないか。どっちにしても我ら庶民には 気の遠くなるような話ではある。 「都心の書店にある『週刊真相』を買い占めろ ! 」 杉野は「週刊真相」を一読するや、阿修羅の形相でいた。 ホテルオーヤマとの折衝は瀬川が当たった。 「正味一時間半だから、ビールだけでいいぞ。四銘柄均等に出すようにしたらいいな。 りを三樽、武井君が贈ってくれると武井君の秘書が連絡してきたから、乾杯用の振舞い酒は それでいいわけだ。シャンパンもワインも要らないからな」 こも、
治子は、母と兄家族が住んでいる三田のマンションには大手を振って出入りしていた。 杉野と文子は別居して久しく、事実上夫婦の体をなしていなかったのである。 文子の遺体が病室から移された霊安室で、文彦が右手の甲で涙をぬぐいながら言った。 「お母さんの遺体は三田のマンションに運びたいと思う。喪主は僕がなる。親父には知ら ( なくていいんじゃないか」 普段ロ数の少ない文彦の毅然としたロ吻に治子はたじたじとなりながらも、言い返した。 「それはどうかしら。父の体面も考えてあげないと」 「いや、母の気持ちを考えると、その方が自然だと思う。親父は一度も、この病院にあら」 れなかった。あんな親父に喪主の資格はないよ。母の死までもカネ儲けの材料にしかね〈 僕が会社でどれほど恥ずかしい思いをしてるか、おまえにはわかってもらえないだろ , ( が、僕はこの機会に親父と義絶してもいいと思ってるんだ」 霊安室はまだ一一人だけだった。 「そろそろ、田宮が駆けつけてくると思うの。田宮の意見も聞いてあげて」 文彦はどっちつかずうなずいたが、決意の強さがひき結んだ口一兀に出ていた。 章 一治子が吐息を洩らした。 文彦の言ってることは正論だし、感情論としても理解できる。しかし : : : と治子は思う (
車を出してくれ」 リムジンがまるそう本部に着く前に、杉野はもう一度、運転手に電話をかけさせた。 「つながりました」 「主幹だが、話し中だったなあ。いまどこにいるんだ」 「間もなく病院に着きます。大手の葬儀社の幹部と話してたんですが、火葬場の関係で、一 月四日までは毘に付すことはできないそうです。一応一月四日午後一時から三時まで新宿 の大成寺を押えておきました。仏式に限らず、神式の葬儀も可能ということでしたので 「それでいい。今夜は仮通夜ということになるな。通夜は仏式でいいだろう」 「新聞社はどうしましようか。死亡記事を載せてくれると思いますが」 「そんな必要はない。全社員を動員して、手分けして電話をかけまくれ」 「その手配は済んでます」 「そうか。主幹は午後五時までスケジュールが詰まってるから、そのつもりでな。仮通夜の 手配も瀬川にまかせるから、よしなに頼む」 「承知しました」 涙はとっくに乾いていた。杉野の涙腺は緩急が自由自在で、都合よく出来ている。 いま、杉野の頭の中は香典をどれだけ集められるかで一杯だった。 ″取り屋〃の面目躍如たるものがあった。″鬼のスギリヨー〃と称されるゆえんでもある。
す。つまりハンバーガーを食べながら、インのプレーも続けるわけです」 「おもしろいじゃないですか。わたしに異論はないですよ」 ハンバーガーを食べながら、ゴルフプレイをしたのは初めての経験だが、杉野は悪くない と思った。ハンバーガーもジャンポサイズなら、オレンジジュ 1 スの量も半端じゃなかっ ? 」 0 ートナーにも恵まれて、たのしいゴ 「大変おもしろいゴルフを経験させてもらいました。パ ルフでしたよ」 十八番のミドルホールをホ 1 ルアウトしたとき、杉野は満足そうに、のたまわった。 「杉野先生とラウンドできて光栄です。一生の思い出になりますよ」 えしやく ~ = 関口は調子がよかったが、沢崎は「どうも」と、無愛想な会釈をしただけだ。 こも 歩 三日目、杉野は早朝の散歩以外は終日スウィートルームに籠って、原稿を書いた。 で シスコでは観光をたのしむつもりだったが、治子と斎藤がモントレーに出かけたことで、 ス ロ杉野の考えが変った。 章「帝都経済」の主幹として、掲載記事の三分の一は杉野自身が書かなければならない。 第観光にかまけている場合ではない、と思ったのだ。 インタビュー レポート、コラム、書くことはいくらでもあった。 治子たちがタ刻六則にホテルに戻ったので関口に電話でその旨を連絡して、杉野がリム
266 理事長は杉野に一礼して、鈴木のほうへ眼を向けた。 「鈴木会長、よろしかったら、帰りに理事長室にお寄りください」 「ありがとうございます。きようは時間がありませんので、後日ゆっくりお眼にかかりまし よ , つ」 亀谷兄弟は綾に椅子をすすめられたが、挨拶だけで引き取った。 綾が緑茶を運んできた。特別室に番茶が備えてあったが、用意してきた玉露を海れた。 ちゅうぼう 急須、湯呑みと茶托が五組、特別室の厨房に置いてあった。 ジャーや冷蔵庫も備えてある。 「主幹、鈴枩ム長からお見舞いを頂戴しました」 綾が秘書から渡された斗袋を杉野に示した。 気を避っていただいて恐縮です」 「なに、ほんの気持ちですよ。わたしもこの特別室に三日間入院しましたが、太平洋を眺め ていると、一兀気が出てきますねえ」 鈴木は椅子から立って、窓のほうへ歩いて行った。 「あの本ちの遯りに、日の出が見えるんですよねえ」 鈴木が指差した百メートルほど先に松の杢ちが望見できた。 鈴木が杉野の前に戻ってきた。 「わたしは今年の秋に検査入院しますが、杉野先生もこれからは最低一年に一回検査入院さ
和とは難しいと思います」 杉野が息も絶え絶えに言い返した。 「そんなつれないことを一言わないで、切り取って : ・ 「部長を呼んでください」 若い医師が看護婦に命じた。 中年の医師が駆けつけ、モニターを見て結論を下した。 「飛び散るな。出血も多くて危険だ。ガン化してる可能性も高い マーキングして組織も取 るよ一つに」 杉野は五月一一十九日の夕方には退院するつもりだったが、とりあえずもう一日退院を延ば すようにドクターストップがかかった。 杉野は午後一一時過ぎに産業経済社に電話をかけた。入院以来、 , 古、瀬川と何度も連絡 を取りあっていたし、病院からß4<<>•< で送稿もした。 綾が電話に出てきた。 「今夜は帰れないからな。ポリ 1 プが大きくなってて、内視鏡では取れんのだ。医者にガン 化の可能性もあると威されたが、病理の結果があしたわかるから、その結果をみて、再入院 するかこのまま入院を続けて、手術をするか決めることになると思う」 「まさか、ガンなんていうことはないんでしよう」 「主幹もそう思うが、ポリープの組織を取ったのも、念のためだろう。ただどっちみち手術 おど
太陽が海面に反射して、きらきらまぶしい 杉野は思わずテープルを離れて、窓の前に立った。 「日の出をめるな」 まぶた 杉野は瞼をこすりながら、ひとりごちた。 朝食は八時からだが、ナ 1 スセンターに近い病室から配膳されるので、最も遠い特別室の 杉野は八時一一十分過ぎまで待たされた。 食事を運んできたのは眼鏡をかけた細面のすらっとした看護婦だった。 「婦長の山崎です。昨夜は申し訳ございませんでした。事務連絡の手違いで、落度は病院に あります。幾重にもお詫び致します」 「きのうの看護婦の態度はよくないな。無礼千万じゃないか」 院「仕事はきちっとやりますし、頭もいいのですが、勝気なところがちょっとあるんでしよう 合か。よく注意しておきます。本日の検査の予定はこのようになっております。看護婦がお迎 えに上がりますので、よろしくお願いします」 亀婦長が退出した。 章特別食にはコースとコースがあるが、コ 1 スのメニューは、病院食とは思えないほ ど盛り沢山で、味付けも悪くなかった。 たまねぎと菜っ葉の味噌汁、ロールキャベッとにんじん、コーンとかばちゃのスープ、冷 やっこ ( 豆腐四分の一 ) 、トマトといり卵、あつあげとしいたけの煮もの、うめばし、海苔、