でも今ここでその話をするわナこよ、、 。し ( し力ないごめんなさい」 「そんなこといいよーとあゆみは言った。「なんかしつこく詮索するみたいで、気を悪くしてな 「ちっとも」と青豆は言った。 スープが運ばれてきて、二人はそれを静かに飲んだ。会話はそのあいだ中断した。二人がスプ ーンを置き、ウェイターがそれを下げたあとで会話が再開した。 「でもさ、青豆さんは怖くないのかな ? 」 「たとえばどんなことが ? 」 「だってさ、その人にひょっとして永遠に巡り合えないかもしれないじゃない。もちろん偶然の 再会みたいなのはあるかもしれない。そうなればいいと私も思う。ほんとにそう願うよ。でも現 実問題として、再会できないまま終るという可能性だって、大いにあるわけでしよ。それにもし 再会できたとしても、彼はもうほかの人と結婚してるかもしれない。子供も二人くらいいるかも しれない。そうよね ? もしそうなったら、青豆さんはおそらく、一人ばっちでそのあとの人生 を生きていくわけじゃない この世の中でただ一人好きな人と結ばれることもなく。そう考える と布くならない ? 青豆はグラスの中の赤いワインを眺めた。「怖いかもしれない。でも少なくとも私には好きな 人がいるー 「向こうがたとえ青豆さんのことを好きじゃなかったとしても ? 」 「一人でも、 しいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人 342
こそが彼の求めていたものだったのかもしれないけれど 「そのホンはおもしろい」とふかえりは尋ねた。 「僕は面白く読んだよ。実務的な数字や統計が数多く書き連ねられていて、さっきも言ったよう に文学的な色彩はあまりない。チェーホフの科学者としての側面が色濃く出ている。でも僕はそ ういうところに、チェ 1 ホフという人の潔い決意のようなものを読み取ることができる。そして そういう実務的な記述に混じって、ところどころに顔を見せる人物観察や風景描写がとても印象 的なんだ。とはいっても、事実だけを並べた実務的な文章だって悪くない。場合によってはなか なか素敵なんだ。たとえばギリヤ 1 ク人について書かれた章なんかね」 「ギリャークじん」とふかえりは言った。 「ギリャークというのは、ロシア人たちが植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた先住 民なんだ。もともとは南の方に住んでいたんだけど、北海道からやってきたアイヌ人に押し出さ れるようなかっこうで、中央部に住むようになった。アイヌ人も和人に押されて、北海道から移 ってきたわけだけどね。チェーホフはサハリンのロシア化によって急速に失われていくギリャー ク人たちの生活文化を間近に観察し、少しでも正確に書き残そうと努めた」 天吾はギリャーク人について書かれた章を開いて読んだ。聞き手が理解しやすいように、場合 によっては文章を適当に省略し、変更しながら読んだ。 ギリヤ 1 ク人はすんぐりした、たくましい体格で、中背というよりはむしろ小柄な方である もし背が高かったら、密林で窮屈な思いをすることだろう。骨太で、筋肉の密着している末端 463 第 2 ( ) 章 ( 天吾 ) 気の毒なギリャーク人
だろ、つ。 「ねえ、私はそっちの方にはほとんど興味ないから、心配しなくていいよ」と女は小さな声で打 ち明けるように言った。「もしそういうのを警戒しているのならだけど。私も男を相手にしてい る方かいし あなたと同じで」 「私と同じ ? 」 「だって一人でここに来たのは、良さそうな男を探すためでしょ ? 」 「そう見える ? 」 相手は軽く目を細めた。「それくらいわかるよ。ここはそういうことをするための場所だもの。 それにお互いプロじゃないみたいだし」 「もちろん」と青豆は言った。 「ねえ、よかったら二人でチームを組まない ? 男の人って、一人でいる女より、二人連れの方 が声をかけやすいみたい。私たちだって、一人よりは二人でいた方が楽だし、なんとなく安心で きるでしよ。私はどっちかとい、つと見かけは女つほい方だし、あなたはきりつとしてポーイッシ ュな感じだし、組み合わせとしちゃ悪くないと思うんだ」 ボーイッシュ、と青豆は思った。誰かにそんなことを言われたのは初めてだ。 「でもチームを組むといっても、それぞれに男の好みが違うかもしれないじゃない。うまくいく かしら」 ええとそれで、 相手は軽く唇を曲げた。「そう言われれば、たしかにそうだな。好みか : あなたはどんなタイプの男が好みなの ? 」
老婦人は迷ったように、少し沈黙を挟んでから質問した。「立ち入ったことを訊くようだけど、 あなたには好きな人はいるのかしら ? 」 「好きな人はいます」と青豆は言った。 「それはよかった」 「しかし残念ながら、その人は私のことが好きではありません」 「いささか妙な質間かもしれませんが」と老婦人は言った。「どうしてその相手はあなたのこと を好きにならないのかしら ? 客観的に見て、あなたはとても魅力的な若い女性だと思うのだけ れど 「その人は私が存在していることさえ知らないからです」 老婦人は青豆が言ったことについてしばらく考えをめぐらせていた。 「あなたが存在している事実を相手に伝えようという気持ちは、あなたの側にはないのです者 被 の 「今のところありません」と青豆は言った。 れ 「何か事情があるのかしら ? あなたが自分の方からは接近できないという」 生 「事情もいくらかあります。でもほとんどは私自身の気持ちの問題です」 豆 老婦人は感心したように青豆の顔を見た。「私はこれまでいろんな風変わりな人に会ってきた 章 けれど、あなたもそのうちの一人かもしれない」 第 青豆は口元をわずかに緩めた。「私にはとくに変わったところなんてありません。自分の気持 ちに率直なだけです
生き延びてこられたのだ。私は日々丁寧に新聞を読んできたし、「丁寧に新聞を読むーと私が言 うとき、それはいささかなりとも意味のある情報は何ひとつ見逃さない、 もちろんその本栖湖事件は何日にもわたって新聞紙面で大きく扱われていた。自衛隊と県警は 逃走した十人の過激派メンバーを追って大がかりな山狩りをおこない、三人を射殺し、二人に重 傷を負わせ、四人 ( そのうちの一人は女性 ) を逮捕した。一人は行方不明のままだった。新聞全 体がその事件の報道で埋めつくされていた。おかげでの集金人が板橋区で大学生を刺した 事件の続報なんて、どこかに吹き飛んでしまった。 。もしそんな大事件 もちろん顔には出さないがーー胸をなで下ろしたに違いない かなかったら、マスコミは z の集金システムについて、あるいは Z という組織のあり方 わ そのものに対して、ここを先途と大きな声で疑義を呈していたに違いないから。その年の初めに、 変 ロッキ 1 ド汚職事件を特集したの番組に自民党が文句をつけ、内容を改変させるという事 件があった。は何人かの与党政治家にその放送前の番組内容をこと細かに説明し、「こう うやうや わ いうものを放送していいでしようかーと恭しくお伺いを立てていたのだ。それは驚くべきことに、 変 日常的に行われているプロセスだった。の予算は国会の承認を受ける必要があり、与党や 政府の機嫌を損ねたらどんな報復を受けるかしれないという怯えがの上層部にはある。ま た与党内には、は自分たちの広報機関にすぎないという考えがある。そのような内幕が暴 露されたことで、国民の多くは当然のことながら番組の自立性と政治的公正さに対して不 信感を抱き始めていた。そして受信料の不払い運動も勢いをつけていた。 その本栖湖の事件と、の集金人の事件を別にすれば、青豆はその時期に起こったほかの せんど
「ねえ、青豆さんに質問があるんだけど」とあゆみは言った。「もし答えたくなかったら答えな くていい。でもちょっと聞いてみたかったんだ。怒ったりしないよね ? 」 「怒らないよ」 「変なことを質問したとしても、私には悪意はないの。それはわかってね。ただ好奇心が強いだ け。でもそういうことでときどきすごく腹を立てる人がいるから 「大丈夫よ。私は腹を立てない」 「ほんとに ? みんなそう言いながらちゃんと腹を立てるんだけど 「私はとくべつ。だから大丈夫ー 「ねえ、小さな子供の頃に男の人に変なことされた経験ってある ? 」 青豆は首を振った。「ないと思う。どうして ? 」 「ただちょっと訊いただけ。なければいいんだ」とあゆみは言った。それから話を換えた。「ね え、これまで恋人を作ったことはある ? つまり真剣につき合った人ってことだけど」 「ない 「一人も ? 」 「ただの一人も」と青豆は言った。そしてちょっと迷ってから言った。「実を言えば、私は二十 六になるまで処女だったの あゆみは少しのあいだ一言葉を失っていた。ナイフとフォ 1 クを下に置き、ナプキンで口元を拭 、それから目を細めて青豆の顔をしばらくじっと見た。 「青豆さんみたいな素敵な人が ? 信じられないな」 339 第 15 章 ( 青豆 ) 気球に碇をつけるみたいにしつかりと
せるわけがない 「アザミは、君が話すことをそのまま文章にするの ? 」と天吾は尋ねた。 「はなすとおりに」とふかえりは答えた。 「君は話し、彼女がそれを書くーと天吾は尋ねた。 「でもちいさなコェではなさなくてはならない 「どうして小さな声で話さなくてはならないんだろ、つ ? 」 ふかえりは車内を見まわした。ほとんど乗客はいなかった。母親と小さな二人の子供が、向か いの座席の少し離れたところに座っているだけだ。三人はどこか楽しいところに出かける途中の ように見えた。世の中にはそういう幸福な人々も存在するのだ。 「あのひとたちにきかれないように」とふかえりは小さな声で言った。 「あの人たち ? ーと天吾は言った。彼女の焦点が定まらない目を見れば、それがその母子の三人 連れを指しているのでないことは明らかだった。ここにはいない、彼女のよく知っているーーーーそ して天吾の知らないーー具体的な誰かのことをふかえりは話しているのだ。 「あの人たちって誰のこと ? と天吾は尋ねた。彼の声もいくらか小さくなっていた。 ふかえりは何も言わす、眉のあいだに小さなしわを寄せた。唇は堅く結ばれていた。 「リトル・ピープルのこと ? と天吾は質問した。 やはり返事はない。 「君の言うあの人たちは、もし物語が活字になって世間に公表され、話題になったりしたら、そ のことで腹を立てるのかな ? 」 183 第 8 章 ( 天吾 ) 知らないところに行って知らない誰かに会う
滅し、思考の階段が足元で崩れ落ちていく。 青豆と環は同じべッドの中にいる。二人は十七歳で、与えられた自由を満喫している。それは 彼女たちにとって最初の、友だち同士ででかける旅行だ。そのことが二人を興奮させる。彼女た ちは温泉に入り、冷蔵庫の缶ビ 1 ルを半分ずつ分けて飲み、それから明かりを消してべッドに潜 り込む。最初のうち二人はただふざけている。面白半分にお互いの身体をつつきあっている。で も環がある時点で手を伸ばして、寝間着がわりの薄いシャツの上から、青豆の乳首をそっとっ まむ。青豆の身体の中に電流のようなものが走る。二人はやがてシャツを脱ぎ、下着をとって裸 になる。夏の夜だ。どこを旅行したんだっけ ? 思い出せない。どこでもいい彼女たちはどち らから言い出すともなく、お互いの身体を細かく点検してみる。眺め、さわり、撫で、キスし、 舌でなめる。半ば冗談で、そして半ば真剣に。環は小柄で、どちらかといえばほっちやりとして いる。乳房も大きい。青豆はどちらかといえば背が高く痩せている。筋肉質で乳房はあまり大き くない。環はいつもダイエットをしなくちゃと言っている。でもこのままでじゅうぶん素敵なの にと青豆は思う 環の肌はやわらかく、きめが細かい。乳首は美しい楕円形に膨らんでいる。それはオリ 1 プの 実を思わせる。陰毛は薄く細く、繊細な柳のようだ。青豆のそれはごわごわとして硬い。二人は その違いに笑い合う。二人はそれぞれの身体の細かいところをさわりあい、どこの部分がいちば ん感じるか、情報を交換し合う。一致するところもあるし、しないところもある。それから二人 は指をのばして、お互いのクリトリスをさわり合う。どちらも自慰の経験はある。たくさんある。 自分のとはずいぶんさわり心地が違うものだ、とお互いが思う。風がボヘミアの緑の草原をわた
「そのへんはまかせといてちょうだい。如才なく話を作るのは、私のもっとも得意とするところ だから」 「まかせる」と青豆は言った。 「ところで、私たちの真後ろのテープルに中年つほい二人連れがいて、さっきから物欲しそうな 目であちこちを見ているんだけどとあゆみが言った。「さりげなく振り向いて、チェックして みてくれる」 青豆は言われたとおりさりげなく後ろを振り向いた。ひとつあいだを置いたテープル席に、中 マンというふ 年の男が二人座っていた。どちらもいかにも仕事を終えて一息ついているサラリー うで、スーツにネクタイを結んでいる。スーツはくたびれていないし、ネクタイの好みも悪くな 一人はおそらく四十代後半、一人は四十前に見えた。 かった。少なくとも不潔な感じはしない 年上の方は痩せて面長で、額の生え際が後退している。若い方には、昔は大学のラグビー部で活 躍したが、 最近は運動不足で肉がっき始めたという雰囲気があった。青年の顔立ちを残しつつも、 顎のまわりがそろそろ分厚くなりかけている。二人はウイスキーの水割りを飲みながら談笑して いたが、視線はたしかに店内をそれとなく物色していた。 あゆみがその二人組を分析した。「見たところ、こういう場所にはあまり慣れてないみたい。 遊びに来たんだけど、女の子にうまく声がかけられない。それに二人ともたぶん妻帯者だね。 くぶん後ろめたそ、つな雰囲気もあるー 青豆は相手の的確な観察眼に感心した。話をしながらいつの間にそれだけのことを読み取った のだろう。警察官一家というだけのことはあるのかもしれない 254
集金人の名前は芥川真之介といった。立派な名前だ。文豪みたいだ。写真は載っていなかった。 刺された田川明さん ( 幻歳 ) の写真が載っているだけだ。田川さんは日本大学法学部の三年生で 剣道二段だった。竹刀を持っていれば簡単には刺されなかったのだろうが、普通の人間は竹刀を 片手にの集金人と話をしたりはしない。また普通のの集金人は、鞄に出刃包丁を入 れて持ち歩いたりはしない。青豆はその後数日ぶんの報道を注意して追ってみたが、その刺され た学生が死んだという記事は見あたらなかった。たぶん一命をとりとめたのだろう。 十月十六日には北海道タ張の炭坑で大きな事故が起こった。地下千メートルの採掘現場で火災 が発生し、作業をしていた五十人以上の人々が窒息死した。火災は地上近くに燃え広がり、更に 十人がそこで命を落とした。会社は延焼を防ぐため、残りの作業員の生死を確認しないまま、ポ ンプを使って坑道を水没させた。死者の合計は九十三人に達した。胸の痛む事件だった。石炭は 「汚い、エネルギ 1 源であり、それを採掘するのは危険な作業だ。採掘会社は設備投資を渋り、 労働条件は劣悪だった。事故は多く、肺が確実にやられた。しかしそれが安価である故に、石炭 を必要とする人々や企業が存在する。青豆はその事故のことをよく記憶していた。 青豆の探していた事件は、タ張炭坑の事故の余波がまだ続いている十月十九日に起こっていた。 そんな事件があったことをーーー数時間前にタマルから聞かされるまではということだがーーー青豆 はまったく知らなかった。いくらなんでも、それはあり得ないことだ。その事件の見出しは朝刊 の一面に、見逃しようもない大きな活字で印刷されていたからだ。 山梨山中で過激派と銃撃戦警官三人死亡 191 第 9 章 ( 青豆 ) 風景が変わり、ルールが変わった