「私は何度か深田の農場を訪れて、彼と話をした」と先生は言った。「彼は新しい環境を得て、 そこで新しい可能性を試みることで、とても生き生きとして見えた。そのあたりが深田にとって はいちばん平穏で希望に満ちた時代だったかもしれない。家族も新しい生活に馴染んだように見 えた。 『さきがけ』農場の評判を耳にし、そこに加わりたいと希望してやってくる人々も増えてきた。 通販を通じて、その名前は徐々に世間に知られていったし、コミューンの成功例としてメディア に取り上げられもした。金銭や情報に追いまくられる現実の世界を逃れ、自然の中で額に汗して 働きたいという人間が世間には少なからすいたし、『さきがけ』はそういう層を引き寄せていっ た。希望者がやってくれは面接をして審査をし、役に立ちそうであればメンバ ( 1 こ加えた。来る ものは誰でも受け入れたわけじゃない。メンバーの質とモラルは高く保たれなくてはならなかっ た。農業技術を身につけた人や、厳しい肉体労働に耐えられる健康な人々が求められた。男女の の化学薬品を使わす、有機肥料だけで野菜を栽培するようにした。そして都会の富裕層を対象に して食材の通信販売を始めた。その方が単価が高くとれるからだ。いわゆるエコロジ 1 農業の走 りだった。目のつけ所がよかった。メンバーの多くは都会育ちだったから、都会の人間がどんな ものを求めているかをよく知っていた。汚染のない、新鮮でうまい野菜のためなら、都会人は進 んで高い金を払う。彼らは配送業者と契約を結び、流通を簡略化し、都会に迅速に食品を送る独 自のシステムを作り上げた。『土のついた不揃いな野菜』を逆に売り物にしたのも彼らが走りだ った」 226
「おおよそのところは」と天吾は言った。「コミューンのような組織で、完全な共同生活を営み、 農業で生計を立てている。酪農にも力を入れ、規模は全国的です。私有財産は一切認められず、 持ち物はすべて共有になる」 「そのとおりだ。深田はそういうタカシマのシステムにユートピアを求めたということになって いる」と先生はむずかしい顔をして言った。「しかし一一「ロうまでもないことだが、ユートピアなん ていうものは、どこの世界にも存在しない。錬金術や永久運動がどこにもないのと同じだよ。タ カシマのやっていることは、私に言わせればだが、何も考えないロポットを作り出すことだ。人 の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ・オ 1 ウエルが小説に書いた のと同じような世界だよ。しかし君もおそらく知ってのとおり、そういう脳死的な状況を進んで 求める連中も、世間には少なからずいる。その方がなんといっても楽だからね。ややこしいこと は何も考えなくていいし、黙って上から言われたとおりにやっていればいい。 食いつばぐれはな その手の環境を求める人々にとっては、たしかにタカシマ塾はユートピアかもしれん。 しかし深田はそういう人間ではない。徹底して自分の頭でものを考えようとする人間だ。それ を専門的職業として生きてきた男だ。だから彼がタカシマみたいなところで満足できるわけはな かった。もちろん深田だってそれくらいは最初から承知していた。大学を追われ、頭でつかちの 学生たちを引き連れて、ほかに行き場所もなく、とりあえずの退避場所としてそこを選んだとい 可より 、つことだ。更にいえば彼が求めていたのは、タカシマとい、つシステムのノウハウだった。イ もます、彼らは農業技術を覚えなくてはならなかった。深田も学生たちもみんな都会育ちで、農 業のやり方については何ひとっ知らなかった。私がロケット工学について何ひとっ知らないとい 222
ん。大昔から同じような詐欺行為が、世界の至る所で繰り返されてきました。手口はいつだって 同じです。それでも、そのようなあさましいインチキは衰えることを知りません。世間の大多数 の人々は真実を信じるのではなく、真実であってもらいたいと望んでいることを進んで信じるか らです。そういう人々は、両目をいくらしつかり大きく開けていたところで、実はなにひとつ見 てはいません。そのような人々を相手に詐欺を働くのは、赤子の手をひねるようなものです」 「さきがけ」と青豆はロに出してみた。なんだか特急列車の名前みたいだ、と彼女は思った。宗 教団体の名前には思えない 「さきがけーという名前を耳にして、そこに秘められたとくべつな響きに反応したように、つば さが一瞬目を伏せた。しかしすぐに目を上げ、前と同じ表情のない顔に戻った。彼女の中で小さ な渦のようなものが突然巻き起こり、そしてすぐに静まったように見えた。 「その『さきがけ』という教団の教祖が、つばさちゃんをレイプしたのです」と老婦人は言った。 「霊的な覚醒を賦与するというロ実をつけ、それを強要しました。初潮を迎える前に、その儀式 を終えなくてはならないというのが、両親に告げられたことです。そのようなまだ汚れのない少 女にしか、純粋な霊的覚醒を与えることはできない。そこに生じる激しい痛みは、ひとつ上の段 階に上がるための、避けて通れない関門なのだと。両親はそれをそのまま信じました。人間がど こまで愚かしくなれるか、実に驚くばかりです。つばさちゃんのケ 1 スだけではありません。 我々が得た情報によれば、教団内のほかの少女たちに対しても同様のことが行われてきました。 教祖は歪んだ性的嗜好をもった変質者です。疑いの余地なく。教団や教義は、そんな個人的欲望 を隠すための便宜的な衣装に過ぎません」 437 第 19 章 ( 青豆 ) 秘密を分かち合う女たち
にされると具合の悪い種類のことをね。だからただ深田を外に放り出すだけでは済まなかった。 深田はもともとの共同体の設立者として、長い歳月にわたって実質的な指導者の役を果たして いた。そこでこれまでどんなことが行われてきたか、残らず目にしてきたはずだ。あるいは知り すぎた人間になっていたのかもしれない。そして深田は世間的にかなり名を知られてもいる。深 田保という名前はあの時代に現象的に結びついていたし、今でも一部の場所ではカリスマ性をも って機能している。深田が『さきがけ』の外に出て行けば、その発言や行動はいやでも人々の耳 目を引くことになるだろう。となれば、深田夫妻が仮に離脱を望んだとしても、『さきがけ』と しては簡単に二人を手放すわけにはいか 「だから深田保の娘であるエリさんを作家としてセンセーショナルにデビューさせ、『空気さな こ、っちゃく ぎ』をベストセラーにすることによって世間の関心をかきたて、その膠着状態に側面から揺さぶ りをかけよ、つとしている」 「七年はすいぶん長い歳月だ。そしてそのあいだ何をしてもうまくいかなかった。今ここで思い 切った手段を講じなければ、謎は解けないまま終わってしまうかもしれない 「エリさんを餌がわりに、大きな虎を藪の中からおびき出そうとしている」 「何が出てくるかは誰にもわからない。なにも虎と決まったわけではないだろう」 「しかし話の成り行きからして、先生は何かしら暴力的なものを念頭に置かれているように見え ますー 「その可能性はあるだろう」と先生は考え深げに言った。「君もおそらく知っているはずだ。密 閉された同質的な集団の中では、あらゆることが起こり得る」 420
りを餌にして世間に騒ぎを起こし、それを梃子に「さきがけ」と彼女の両親との関係を明らかに し、彼らの居場所を探り当てること。もしそうだとしたら、先生の計画は今のところ予想通りの 展開を見せていることになる。しかしそこにどれほどの危険性が含まれているのか、先生には把 握できているだろうか ? たぶんそれくらいはわかっているはずだ。戎野先生は無考えな人間で はない。そもそも深く考えることが彼の仕事なのだ。そしてふかえりを巡る状況には、天吾が知 らされていない重要な事実がまだいくつもありそうだった。天吾は言うなれば、揃っていないピ 1 スを渡されて、ジグソー ・パズルを組み立てているようなものだ。知恵のある人間は最初から そんな面倒には関わり合いにならない。 「彼女の行き先について、天吾くんに何か心当たりはないか ? 「今のところはありません」 「そうか」と小松は言った。その声には疲労の気配がうかがえた。小松が弱みを表に出すのはあ まりないことだった。「夜中に起こして悪かったね 小松が謝罪の言葉を口にするのもかなり珍しいことだ。 「いいですよ、事情が事情だから」と天吾は言った。 「俺としちゃ、できればこういう現実的なごたごたには天吾くんを巻き込みたくなかった。君の 役目はあくまで文章を書くことであって、その勤めはしつかり果たしてくれたわけだからな。し かし世の習いとして、ものごとはなかなかすんなりとは収まらない。そしていっかも言ったよう 俺たちはひとつのボートに乗って急流を流されている」 「一蓮托生ーと天吾は機械的に言葉を添えた。 505 第 22 章 ( 天吾 ) 時間がいびつなかたちをとって進み得ること
いっても、そのうちに「何かおかしいと人々は考え始めるに決まっている。もしそこで事実が 露見したら、関係者全員がきれいに首を揃えて破滅することになるだろう。天吾の小説家として のキャリアもまたそこで。・・・・ーまだろくすつほ始まってもいないうちからーー・・あっさり命脈を断 たれてしまう。 だいたいこんな欠陥だらけの計画がうまく運ぶわけがないのだ。最初から薄氷を踏むようなも のだと思っていたが、今となってはそんな表現だって生やさし過ぎる。足を乗せる前から既に氷 はみしみしと音を立てている。うちに帰ったら小松に電話をかけて、「すみません、小松さん、 この件から僕は手を引きます。あまりにも危険すぎる」と言うしかない。それがまっとうな神経 を持ち合わせた人間のやることだ。 しかし『空気さなぎ』という作品について考え出すと、天吾の心は激しく混乱し、分裂した。 小松の立てた計画がどれほど危なっかしいものであれ、『空気さなぎ』の改稿をここでやめてし まうことは、天吾にはできそうになかった。書き直しに入る前であれば、あるいはできたかもし れない。しかしもう無理だ。彼は今ではその作品に首まではまり込んでいた。その世界の空気を 呼吸し、その世界の重力に同化していた。その物語のエキスは彼の内臓の壁にまで染み込んでい た。その物語は天吾の手による改変を切実に求めていたし、彼はその求めをひしひしと感じ取る ことができた。それは天吾にしかできないことであり、やるだけの価値のあることであり、やら なくてはならないことだった。 天吾は座席の上で目を閉じ、このような状况に自分がどう対処すればいいのかとりあえすの結 論を出そうと試みた。しかし結論は出なかった。混乱し分裂した人間に筋の通った結論なんて出 182
りきたりの現実生活には飽き足らす、新しい精神世界を求めてタカシマに入ったというものもい た。独身者もいれば、深田のような家族連れもいた。寄り合い所帯というか、雑多な顔ぶれだ。 深田が彼らのリーダ 1 をつとめた。彼は生まれつきのリーダーだった。イスラエル人を率いるモ ーゼのように。頭が切れて、弁も立ち、判断力に優れている。カリスマ的な要素も具わっていた。 身体も大きい。そうだな、ちょうど君くらいの体格だ。人々は当然のことのように彼をグループ の中心に据え、彼の判断に従った」 先生は両手を広げて、その男の身体の大きさを示した。ふかえりはその両手の幅を眺め、それ から天吾の身体を眺めた。でも何も言わなかった。 「深田と私とでは性格も見かけもまったく違っている。彼は生来の指導者で、私は生来の一匹狼 だ。彼は政治的な人間で、私はどこまでも非政治的な人間だ。彼は大男で、私はちびだ。彼はハ ンサムで押し出しがよく、私は妙なかっこうの頭を持ったしがない学者だ。しかしそれでもなお かっ、我々は仲の良い友人同士だった。お互いを認め合、 し信用していた。誇張ではなく、 に一人の友だちだった」 深田保の率いるグループは山梨県の山中に、目的にあった過疎の村をひとつ見つけた。農業の 後継者が見つからず、あとに残された老人たちだけでは畑仕事ができなくて、ほとんど廃村にな ヒニール りかけている村だ。そこにある耕地や家をただ同然の価格で手に入れることができた。。 ハウスもついていた。役場も、既存の農地をそのまま引き継いで農業を続けるという条件で補助 金を出した。少なくとも最初の何年かは、税金の優遇措置も受けられることになった。それに加 224
ころかよく知らなかったが、定収入のある仕事ならなんでもよかった。役人が紹介状を書き、保 証人にまでなってくれた。おかげで父親は簡単にの集金人になることができた。講習を受 ナ、制服を与えられ、ノルマを与えられた。人々はようやく敗戦のショックから立ち直り、困窮 生活の中で娯楽を求めていた。ラジオが与えてくれる音楽や笑いやスポーツがもっとも身近で安 価な娯楽となり、ラジオは戦前とは比べものにならないほど広く普及していった。は聴取 料を集めて回る現場の人間を大量に必要としていた。 天吾の父親は職務をきわめて熱心に果たした。彼の強みは身体が丈夫なこと、我慢強いことだ った。なにしろ生まれてこの方、腹一杯食事をしたことがろくにないのだ。そんな人間にとって、 の集金業務はさして辛い仕事ではなかった。どれほど激しく罵声を浴びせかけられても、 そんなものは知れたことだ。そしてたとえ末端であるとはいえ、巨大な組織に自分が属している ことに彼は大きな満足を感じた。出来高払いの、身分保障のない委託集金人として一年ばかり働 いたが、成績と勤務態度が優秀だったので、そのままの正規集金職員として採用された。 それはの慣例からすれば異例の抜擢だった。とりわけ集金難度の高い地域で優れた成績を あげたということもあるが、そこにはもちろん保証人である逓信省の役人の威光が働いていた。 基本賃金が定められ、そこに諸手当がついた。社宅に入り、健康保険に加入することもできた。 ほとんど使い捨てに近い一般の委託集金人の待遇とは雲泥の差がある。それは彼がその人生にお いて巡り合った最大の幸運だった。何はともあれ、ようやくトーテムボールの最下段に位置を定 めることができたわけだ。 それが父親からいやというほど聞かされた話だった。父親は子守歌も歌わなかったし、枕元で 171 第 8 章 ( 天吾 ) 知らないところに行って知らない誰かに会う
とがあり、煙草の火を押しつけられたような数多くのやけどがあった。両方の手首にはきつく縛 られたあとが残っていた。縄を使うことがこの男の好みであったようだ。乳首が変形していた。 夫が警察に呼ばれ、事情を聴取された。夫は暴力を振るっていたことをある程度認めたが、それ はあくまで性行為の一部として合意の上で行われたことであり、むしろ妻がそれを好んでいたと 主張した。 結局、環のときと同じように、警察は夫に対して法的な責任を問うことはできなかった。妻か ら警察に訴えが起こされたわけではないし、彼女は既に死んでいた。夫には社会的な地位があり、 有能な刑事弁護士がついていた。また死因が自殺であることに疑いの余地はなかった。 「あなたはその男を殺したのですか ? 」と青豆は思い切って尋ねた。 いえ、その男を殺したわけではありません」と老婦人は言った。 青豆は話の筋が見えないまま、黙して老婦人を見つめていた。 老婦人は言った。「娘のかっての夫は、その卑劣な男は、まだこの世界に生きています。毎朝 べッドの上で目を覚まし、自分の両足で通りを歩いています。私にはその男を殺したりするつも りはありません」 老婦人は少し間を置いた。自分の言ったことが青豆の頭に収まるのを待った。 「そのかっての娘婿に対して私がやったのは、世間的に破滅させることでした。それも完膚無き までに破滅させることです。私はたまたまそういう力を持っています。その男は弱い人間でした。 頭はそれなりに働くし、弁も立っし、世間的にはある程度認められてもいるのですが、根本は弱 くて下劣な男です。家庭内で妻や子供たちに激しい暴力を振るうのは、決まって弱い人格を持っ
「なるほどーと先生は言った。そして何か酸つばいものを間違えて口に含んだような顔をした。 「なるほど。君の気持ちはおおむね理解できたような気がする。それでは小松という人物の目的 はなんだろう ? 金か、それとも名声か ? 」 「小松さんの気持ちは正直言って、僕にもよくわかりません」と天吾は言った。「でも金銭や名 声よりは、もっと大きいものが彼の動機になっているんじゃないかという気がします」 「たとえば ? 」 「本人はおそらくそんなことは認めないでしようが、小松さんも文学に憑かれた人間の一人です。 しし , 刀、ら そういう人たちの求めていることは、ただひとつです。一生のうちにたったひとつでも、 間違いのない本物を見つけることです。それを盆に乗せて世間に差し出すことです 先生はしばらく天吾の顔を眺めていた。それから言った。「つまり君たちにはそれぞれに違う 動機がある。金銭でも名声でもない動機がー 「そ、ついうことになると思います」 「しかし動機の性質がどうであれ、君自身が言うように、ずいぶん危なっかしい計画だ。もしど こかの段階で事実が露見したら、これは間違いなくスキャンダルになるし、世間の非難を受ける のは君たち二人だけに留まらないだろう。エリの人生は十七歳にして致命的な傷を負うことにな るかもしれない。それがこの件に関して私がもっとも憂慮していることだ」 「心配なさるのは当然ですーと天吾は肯いて言った。「おっしやるとおりです 黒々として豊かな一対の眉毛の間隔が一センチばかり縮まった。「にもかかわらず、たとえ結 果的にエリを危険にさらすことになっても、君は『空気さなぎ』を自分の手で改筆したいと望ん 216