「そう言っていただくのは光栄ですが、僕はまだ小説家にはなっていません。小説を書こうと試 みているだけです」 「試みている」 「つまりいろいろ試行錯誤をしているということです 「なるほど」と先生は言った。そして部屋の冷ややかさに初めて気づいたように両手を軽くこす りあわせた。「そして私が聞き知ったところによれば、エリが書いた小説に君が手を入れて、よ り完成された作品にし、文芸誌の新人賞をとらせようとしている。この子を作家として世間に売 り出そうとしている。そういう解釈でよろしいかな ? 」 天吾は慎重に言葉を選んだ。「基本的にはおっしやるとおりです。小松という編集者が立案し ました。そんな計画が実際にうまく運ぶものかどうか、僕にはわかりません。それが道義的に正 しいことなのかどうかも。この話の中で僕が関わっているのは、『空気さなぎ』という作品の文 章を実際に書き直すという部分だけです。いわばただの技術者です。あとの部分についてはその 小松という人物が責任を持っていますー 先生はしばらく集中して何かを考えていた。静まりかえった部屋の中では、彼の頭が回転して いる音が聞こえそうだった。それから先生は言った。「その小松という編集者がこの計画を考え つき、君が技術的な側面からそれに協力している」 「そのとおりですー 「私はもともとが学者であって、正直なところ小説の類はあまり熱心には読まない。だから小説 の世界のしきたりはよくわからないんだが、君たちのやろうとしていることは、私には一種の詐 214
る療養所に入っている。天吾は筑波大学の「第一学群自然学類数学主専攻ーという奇妙な名前の ついた学科を卒業し、代々木にある予備校の数学講師をしながら小説を書いている。卒業したと き地元の県立高校に教師として就職する道もあったのだが、勤務時間が比較的自由な塾の講師に なることを選んだ。高円寺の小さなアパートに一人で暮らしている。 職業的小説家になることを自分が本当に求めているのかどうか、それは本人にもわからない 小説を書く才能があるのかどうか、それもよくわからない。わかっているのは、自分は日々小説 を書かずにはいられないという事実だけだった。文章を書くことは、彼にとって呼吸をするのと 同じようなものだった。小松はとくに感想を言うでもなく、天吾の話をじっと聞いていた。 なぜかはわからないが小松は、天吾を個人的に気に入ったようだった。天吾は身体が大きく ( 中学校から大学までずっと柔道部の中心選手だった ) 、早起きの農夫のような目をしていた。髪 を短く刈り、いつも日焼けしたような肌色で、耳はカリフラワーみたいに丸くくしやくしやで、 文学青年にも数学の教師にも見えなかった。そんなところも小松の好みにあったらしい。天吾は 新しい小説を書き上げると、小松のところに持っていった。小松は読んで感想を述べた。天吾は その忠告に従って改稿した。書き直したものを持っていくと 、ト松はそれに対してまた新しい指 示を与えた。コーチが少しすっバーの高さを上げていくように。「君の場合は時間がかかるかも しれない と小松は言った、「でも急ぐことはない。腹を据えて毎日休みなく書き続けるんだな。 書いたものはなるたけ捨てすにとっておくといいあとで役に立つかもしれないからー。そ、つし ます、と天吾は言った。 小松はまた、天吾に細かい文筆の仕事をまわしてくれた。小松の出版社が出している女性誌の
世界の終りと ードボイルド・ ワンダ 1 ランド 村上舂樹の長編小説 静寂な幻想世界、 そして波乱万丈の冒険劇、 異なる二つの物語が織り成す、 パラレル・ドラマ 村上春樹年代の 記念碑的長編小説の新装版 ! 挿画・落田洋子
が鳴り出すことだろう。小松には時間の観念というものがほとんどない。通常の生活を送ってい る人間に対する思いやりの気持ちなんてさらさらない。それなら今電話に出た方がまだましだ。 「よう天吾くん、もう寝てたか ? と小松は例によってのんびりした声で切り出した。 「寝かけていたところですーと天吾は言った。 「それは悪かったな」と小松はあまり悪くなさそうに言った。「『空気さなぎ』の売れ行きがずい ぶん好調だと、ひとこと言いたくてね」 「それはなによりですー 「ホットケーキみたいに作るそばからどんどん売れている。作るのが追いっかなくて、気の毒に 製本所は徹夜で仕事をしている。まあ、かなりの部数が売れるだろうってことは前もって予想は していたよ、もちろん。十七歳の美少女の書いた小説だ。話題にもなっている。売れる要素は揃 っている」 「三十歳の、熊みたいな予備校講師の書いた小説とはわけが違いますからー 「そういうことだ。とはいえ、娯楽性に富んだ内容の小説とは言い難い。セックス・シーンもな いし、涙を流すような感動の場面もない。だからここまで派手に売れるとはさすがの俺も想像し なかった」 小松は天吾の反応を見るようにそこで間を置いた。天吾が何も言わないので、彼はそのまま話 を続けた。 「それに、ただ単に数が売れているというだけじゃないんだ。評判だって素晴らしい。そのへん の若いのが思いっきひとつで書いた、話題性だけのちゃらちゃら小説とはものが違う。なんとい ラ 01 第 22 章 ( 天吾 ) 時間がいびつなかたちをとって進み得ること
れば、そして状況さえうまく選べば、決して不可能なことではない。ふかえりが「信濃町のマン ションには帰らない方がいしー と言ったとき、彼女はそのような気配を感じとっていたのかもし れない リトル・ピ 1 プルも空気さなぎも実在する、とふかえりは天吾に言った。彳 皮 . 女は「さきがけ というコミュ 1 ンの中で盲目の山羊を誤って死なせ、その懲罰を受けているときに、リトル・ピ 1 プルと知り合った。彳 皮らと共に夜ごと空気さなぎをつくった。そしてその結果彼女の身に何か 大きな意味を持っことが起こった。彼女はその出来事を物語のかたちにした。天吾がその物語を 小説のかたちに整えた。言い換えれば商品のかたちに変えたわけだ。そしてその商品は ( 小松の 得 表現を借りるなら ) ホットケーキのように作るそばから売れている。「さきがけにとって、そ進 て れは都合の悪いことであったのかもしれない リトル・ピープルと空気さなぎの物語は、外部に ち 明かしてはならない重大な秘密であったのかもしれない。だから彼らは秘密のこれ以上の漏洩を 阻止するためにふかえりを誘拐し、そのロを塞がなくてはならなかった。もし彼女の失踪が世間 っ び の疑惑を呼ぶことになったとしても、それだけのリスクを冒しても、実力行使に及ばないわけに はいかなかったのだ。 時 しかしそれももちろん、天吾の立てた仮説に過ぎない。差し出せるような根拠はないし、証明 天 することも不可能だ。声を大にして「リトル・ピ 1 プルと空気さなぎは実在しますーなんて人々 章 だいいちそれらが「実在 に告げたところで、どこの誰がそんな話に取り合ってくれるだろう ? 第 する」というのが具体的にどんなことを意味しているのか、天吾自身にだってよくわからないの
これまでのところ、天吾にとってものごとはおおむね順調に運んできたと言える。彼はあらゆ る責務から身をかわし続けてきた。大学にも残らす、正式の就職もせず、結婚もせず、比較的自 由のきく職業に就き、満足のできる ( そして要求の少ない ) 性的パートナーを見つけ、潤沢な余 暇を利用して小説を書いた。小松という文学上のメンターに巡り合い、彼のおかげで文筆の仕事 も定期的に回ってくるようになった。書いた小説はまだ日の目を見ないけれど、今のところ生活 これま に不自由があるわけではない。親しい友人もいないし、約東を待っている恋人もいない でに十人ばかりの女性たちとっきあって、性的な関係を持ったが、誰とも長続きはしなかった。 しかし少なくとも彼は自由だった。 ところがふかえりの『空気さなぎ』の原稿を手にしたとき以来、彼のそのような平穏な生活に もいくつかのほころびが見えてきた。ます彼は小松の立てた危険な計画に、ほとんど無理やりに ひきすり込まれた。その美しい少女は個人的に、彼の心を不思議な角度から揺さぶった。そして 『空気さなぎ』を書き直したことによって、天吾の中で何らかの内的な変化が生じたようだ。お かげで彼は、自分の小説を書きたいという強い意欲に駆られるようになった。それはもちろん良 き変化だった。しかしそれと同時に、彼がこれまで維持してきたほとんど完璧なまでの、自己充 足的な生活サイクルが、何かしらの変更を迫られていることも事実だった。 いずれにせよ、明日は金曜日だ。ガールフレンドがやってくる。それまでにふかえりをどこか にやらなくてはならない。 ふかえりが起きてきたのは午前二時過ぎだった。彼女はパジャマ姿のままドアを開けて台所に 452
記者会見のもようは翌日の夕刊に掲載された。天吾は予備校の仕事の帰りに、駅の売店で四紙 の夕刊を買い、うちに帰って読み比べてみた。どの新聞もだいたい似たような内容だった。それ ほど長い言事ではなかったが、 文芸誌の新人賞の報道としては破格の扱いだった ( ほとんどの場 合、それらは五行以内で処理される ) 。小松の予想どおり、十七歳の少女が受賞したということ で、メディアが飛びついてきたのだ。記事には、四人の選考委員は全員一致で彼女の『空気さな ぎ』を受賞作に選んだと書かれていた。論議のようなものは一切なく、選考会は十五分で終了し た。それはきわめて珍しいことだった。我の強い現役作家が四人集まって、全員の意見がびたり と一致するなど、ますあり得ないことだ。その作品は既に業界でちょっとした評判になっていた。 授賞式のあったホテルの一室で小規模の記者会見が開かれ、彼女が記者たちの質問に対して「に こやかに明瞭に」答えた。 「これからも小説を書き続けたいですか ? 」という質問に対して彼女は「小説は考えをあらわす ためのひとつのかたちにすぎません。今回それはたまたま小説というかたちをとったけれど、次 にどんなかたちをとるのか、それはわからない」と答えていた。ふかえりが本当にそんなに長い センテンスを一度にまとめてしゃべったとは考えがたい。おそらく記者が彼女の細切れのセンテ ンスをうまくつなぎ合わせ、抜けた部分を適当に埋め、ひとつにまとめたのだろう。しかし実際 にこんな風に長くまとめてしゃべったのかもしれない。ふかえりについて確実に言えることなん て何ひとつないということだ。 「好きな作品は ? という質問に対しては、彼女はもちろん『平家物語』と答えた。『平家物語』 407 第 18 章 ( 天吾 ) もうピッグ・プラザーの出てくる幕はない
められて顔を赤らめ、そのまま言葉を呑み込んだ。たいしたものだ、と天吾はあらためて思った。 天吾はシーフードのリングイーネを注文した。それから相手にあわせて、白ワインのグラスをと った。 「センセイでショウセッを書いている」とふかえりは言った。どうやら天吾に向かって質問して いるようだった。疑問符をつけすに質問をするのが、彼女の語法の特徴のひとつであるらしい 「今のところは」と天吾は言った。 「どちらにもみえない」 と天吾は言った。微笑もうと思ったがうまくできなかった。「教師の資格 「そうかもしれない は持っているし、予備校の講師もやってるけど、正式には先生とは一言えないし、小説は書いてい るけど、活字になったわけじゃないから、まだ小説家でもない」 「なんでもないー 天吾は肯いた。「そのとおり。今のところ、僕は何ものでもない 「スウガクがすき」 天吾は彼女の発言の末尾に疑問符をつけ加えてから、あらためてその質問に返事をした。「好 きだよ。昔から好きだったし、今でも好きだ」 「どんなところ」 「数学のどんなところが好きなのか ? ーと天吾は言葉を補った。「そうだな、数字を前にしてい ると、とても落ち着いた気持ちになれるんだよ。ものごとが収まるべきところに収まっていくよ 、つな」
第章・大五ロ 気の毒なギリヤ 1 ク人 天吾は眠れなかった。ふかえりは彼のべッドに入って、彼のパジャマを着て、深く眠っていた。 天吾は小さなソフアの上に簡単に寝支度を調えたが ( 彼はよくそのソフアで昼寝をしていたから、 とくに不便はない ) 、横になってもまったく眠気を感じなかったので、台所のテープルに向かっ て長い小説の続きを書いた。ワードプロセッサーは寝室にあったから、レポ 1 ト用紙にボールペ ンで書いていた。それについても彼はとくに不便を感じなかった。書くスピ 1 ドや記録の保存に 関しては、ワ 1 ドプロセッサ 1 はたしかに便利だが、手を使って紙に字を書くという古典的な行 為を彼は愛していた。 天吾が夜中に小説を書くのは、どちらかといえば珍しいことだ。外が明るいとき、人々が普通 に外を歩き回っている時間に仕事をするのが、彼は好きだった。まわりが闇に包まれ、深く静ま りかえっている時間に書くと、文章はときとして濃密になりすぎる。夜に書いた部分を、昼の光 の中で頭から書き直さなくてはならないことが多かった。そんな手間をかけるのなら、最初から 明るい時間に文章を書いた方がいい
第不 ) 章一大五ロ ( 刄に人ってもらえてとても嬉し、 十日かけて『空気さなぎ』に手を入れ、新しい作品としてなんとか完成させ、小松に渡してし なぎ まったあと、凪のように平穏な日々が天吾に訪れた。週に三日予備校に行って講義をし、人妻の ガールフレンドと会った。それ以外の時間を家事をしたり、散歩をしたり、自分の小説を書くこ とに費やした。そのようにして四月が過ぎ去った。桜が散り、新芽が顔を出し、木蓮が満開にな 季節が段階を踏んで移っていった。日々は規則正しく、滑らかに、 こともなく流れていった。 それこそがまさに天吾の求めている生活だったーーーひとつの週が切れ目なく自動的に次の週へと 結びついていくこと。 しかしそこにはひとつの変化が見受けられた。良き変化だ。天吾は小説を書きながら、自分の 中に新しい源泉のようなものが生まれていることに気がついた。それほどたくさんの水がこんこ んとわき出てくるわけではない。どちらかといえば岩間のささやかな泉だ。しかしたとえ少量で はあっても、水は途切れなくしたたり出てくるようだ。急ぐことはない。焦ることもない。それ が岩のくばみに溜まるのをじっと待っていればいい。水が溜まれば、それを手で掬うことができ め 4