文章 - みる会図書館


検索対象: 1Q84 BOOK1
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1. 1Q84 BOOK1

手段が見つからなかった。それだけのことだ。だから文学的野心みたいなものは最初からない できあがったものを商品にするつもりもないから、文章表現に細かく気を配る必要がない。部屋 にたとえれば、壁があって屋根がついていて、雨風さえしのげればそれで十分という考え方だ。 皮女の目 だから天吾が彼女の文章にどれだけ手を入れようが、ふかえりとしては気にならない彳 と言ったのは、おそらくまったく 的は既に達せられているわけだから。「すきになおしていいー の本心なのだ。 しし A 」し、つ にもかかわらず『空気さなぎ』を構成している文章は決して、自分一人がわかれば、、 タイプの文章ではなかった。もし自分が目にしたものや、頭に浮かんだものを情報として記録す るだけがふかえりの目的であれば、箇条書きのようなメモで用は足りたはずだ。面倒な手順を踏 んでわざわざ読み物に仕立てる必要はない。それはどう見ても、ほかの誰かが手にとって読むこ とを前提として書かれた文章だった。だからこそ『空気さなぎ』は文学作品とすることを目的と して書かれていないにもかかわらす、そして文章が稚拙であるにもかかわらず、人の心に訴える 力を身につけることができた。しかしそのほかの誰かとはどうやら、近代文学が原則として念頭 に置いている「不特定多数の読者」とは異なったものであるらしい。読んでいて、天吾にはそう いう気がしてならなかった。 じゃあ、いったいどのような種類の読者が想定されているのだろう ? 天吾にはもちろんわからない 天吾にわかるのは、『空気さなぎ』が大きな美質と大きな欠陥を背中合わせに具えた、きわめ てユニークなフィクションであり、そこにはまた何かしら特殊な目的があるらしいとい、つことく 128

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で根本的に書き直さないことにはまとまりがっかないでしよう」 「もちろん頭から尻尾まで作り替える。物語の骨格はそのまま使う。文体の雰囲気もできるだけ かんこったったい 残す。でも文章はほとんどそっくり入れ替える。いわゆる換骨奪胎だ。実際の書き直しは天吾く んが担当する。俺が全体をプロデュ 1 スする」 「そんなにうまく行くものだろうか」と天吾は独りごとのように言った。 「、、、、、小松はコ 1 ヒ 1 スプ 1 ンを手に取り、指揮者がタクトで独奏者を指定するように それを天吾に向けた。「このふかえりという子は何か特別なものを持っている。それは『空気さ なぎ』を読めばわかる。この想像力はただものじゃない。しかし残念ながら文章の方はなんとも ならん。お粗末きわまりない。その一方で君には文章が書ける。筋がいいし、センスもある。図 体はでかいが、文章は知的で繊細だ。勢いみたいなものもちゃんとある。ところがふかえりちゃ ア 。 ( ししのかか、まだっかみきれていない。だから往々にして物語の芯が見デ んとは逆に、何を書ナよ、、 ア の あたらない。君が本来書くべきものは、君の中にしつかりあるはずなんだ。ところがそいつが、 深い穴に逃げ込んだ臆病な小動物みたいに、なかなか外に出てこない。穴の奥に潜んでいること はわかっているんだ。しかし外に出てこないことには捕まえようがない。時間をかければい、 俺が言、つのは、そういう意味だよ」 天吾はビニ 1 ルの椅子の中で不器用に姿勢を変えた。何も言わなかった。 「話は簡単だ」と小松はコーヒースプ 1 ンを細かく振りながら続けた。「その二人を合体して、 第 一人の新しい作家をでっちあげればいいんだ。ふかえりが持っている荒削りな物語に、天吾くん がまっとうな文章を与える。組み合わせとしては理想的だ。君にはそれだけの力がある。だから

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読んで僕は心を強く惹かれたということなんだ。それで僕は小松さんのところに持っていった。 彼も『空気さなぎ』を気に入った。ただし新人賞を真剣に狙うなら、文章に手を入れなくてはな らないというのが彼の意見だった。物語の強さに比べて、文章がいささか弱いから。そして彼は その文章の書き直しを、君にではなく、僕にやらせたいと思っている。僕はそれについて、まだ 心を決めていない。やるかやらないか、返事もしていない。それが正しいことかどうか、よくわ からないからだ」 天吾はそこで言葉を切って、ふかえりの反応を見た。反応はなかった。 「僕が今ここで知りたいのは、僕が君にかわって『空気さなぎ』を書き直すということを、君が どう考えるかってことなんだ。僕がいくら決心したって、君の同意と協力がなくては、そんなこ とできっこないわけだから ふかえりはプチトマトをひとっ指でつまんで食べた。天吾はムール貝をフォ 1 クでとって食べ 「やるといい とふかえりは簡単に言った。そしてもうひとっトマトをとった。「すきになおし 「もう少し時間をかけて、じっくり考えた方がいいんじゃないかな。けっこう大事なことだか ら」と天吾は言った。 ふかえりは首を振った。そんな必要はない。 「僕が君の作品を書き直すとする」と天吾は説明した。「物語を変えないように注意して文章を 補強する。たぶん大きく変更することになるだろう。でも作者はあくまで君だ。この作品はあく

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であっさり放り出しちまうさ。こんなもの小学生の作文並みじゃないかってさ。磨けば光るもの がここにはあります、なんて俺が揉み手をしながら熱弁を振るったところで、誰が耳を傾ける ? 俺の一存なんてものがたとえ力を持つにしても、そいつはもっと見込みのあるもののためにとっ ておきたいね」 「とい、つことは、あっさりと落としてしま、つとい、つことですか ? 」 「とは言ってない」、小松は鼻のわきをこすりながら言った。「俺はこの作品については、ちょっ とした別のアイデアを持っているんだ」 「ちょっとした別のアイデア」と天吾は言った。そこには不吉な響きが微かに聞き取れた 「次の作品に期待しろと天吾くんは言う」と小松は言った。「俺だってもちろん期待はしたいさ。 時間をかけて若い作家を大事に育てるのは、編集者としての大きな喜びだ。澄んだ夜空を見渡し て、誰よりも先に新しい星を見つけるのは胸躍るものだ。ただ正直に言ってね、この子に次があ るとは考、んにくい 俺もふつつかながら、この世界で二十年飯を食ってきた。そのあいだにいろ んな作家が出たり引っ込んだりするのを目にしてきた。だから次がある人間と、次があるとは思 えない人間の区別くらいはつくようになった。それでね、俺に言わせてもらえれば、この子には 次はないよ。気の毒だけど、次の次もない。次の次の次もない。だいいちこの文章は、時間をか けんさん いくら待ったってど、つにもなりやしない。待ち け研鑽を積んで上達するような代物じゃないよ。 ほうけのまんまだ。どうしてかっていうとね、良い文章を書こう、うまい文章を書けるようにな りたいというつもりが、本人に露ほどもないからさ。文章ってのは、生まれつき文才が具わって いるか、あるいは死にものぐるいの努力をしてうまくなるか、どっちかしかないんだ。そしてこ そな

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リンゴを囓り、湯 そのあいだにコーヒー豆を挽いた。チーズを載せたビスケットを何枚か食べ、 が沸くとコーヒーを作った。それを大きなマグカップで飲みながら、気分転換のために、年上の ガールフレンドとのセックスのことをひとしきり考えた。本来であれば、今頃は彼女とそれをし ているはずだった。そこで彼が何をするか、彼女が何をするか。彼は目を閉じ、天井に向かって、 暗示と可能性を重く含んだ深いため息をついた。 それから天吾は机の前に戻り、もう一度頭の回路を切り替え、ワードプロセッサーの画面の上 キュ 1 プリック で、書き直された『空気さなぎ』の冒頭のプロックを読み返した。スタンリー・ ざんご、つ の映画『突撃』の冒頭のシーンで、将軍が塹壕陣地を視察して回るように。彼は自分が目にした ものに肯く。悪くない。文章は改良されている。ものごとは前進している。しかし十分とはいえ ない。やらなくてはならないことはまだ数多くある。あちこちで土嚢が崩れている。機関銃の弾 丸が不足している。鉄条網が手薄になっている箇所も見受けられる。 彼はその文章を紙にいったんプリントアウトした。それから文書を保存し、ワードプロセッサ ーの電源を切り、機械を机の脇にどかせた。そしてプリントアウトを前に置き、鉛筆を片手にも 、つ一度念入りに読み返した。余計だと思える部分を更に削り、言い足りないと感じるところを更 に書き足し、まわりに馴染まない部分を納得がいくまで書き直した。浴室の細かい隙間に合った タイルを選ぶように、その場所に必要な言葉を慎重に選択し、いろんな角度からはまり具合を検 証する。はまり具合が悪ければ、かたちを調整する。ほんのわずかなニュアンスの相違が、文章 を生かしもし、損ないもする。 ワードプロセッサーの画面と、用紙に印刷されたものとでは、まったく同じ文章でも見た目の どのう 130

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の数ベージを切りの良いところまで、原文のままワ 1 ドプロセッサ 1 の画面にタイプした。ひと まずこのプロックを納得いくまで書き直してみよう。内容そのものには手を加えす、文章だけを 徹底的に整えていく。マンションの部屋の改装と同じだ。基本的なストラクチャ 1 はそのままに する。構造自体に問題はないのだから。水まわりの位置も変更しない。それ以外の交換可能なも 俺はすべて のーー床板や天井や壁や仕切りー、ーーを引きはがし、新しいものに置き替えていく。 を一任された腕のいい大工なのだ、と天吾は自分に言い聞かせた。決まった設計図みたいなもの はない。その場その場で、直感と経験を駆使して工夫していくしかない 一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複し ろ た表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や文節の順番を入れ替える。 の 形容詞や副詞はもともと極端に少ないから、少ないという特徴を尊重するとしても、それにして 行 も何らかの形容的表現が必要だと感じれば、適切な言葉を選んで書き足す。ふかえりの文章は全を ま 体的には稚拙であったものの、良いところと悪いところがはっきりしていたから、取捨選択に思 な ったほど手間はかからなかった。稚拙だからわかりにくく、読みにくい部分があり、その一方で 々 稚拙ではあるけれど、それ故にはっとさせられる新鮮な表現があった。前者は思い切りよく取り 我 払って別のものに替え、後者はそのまま残せばいい。 天 書き直し作業を進めながら天吾があらためて思ったのは、ふかえりは何も文学作品を残そうと 章 皮女はただ自分の中にある物語 いう気持ちでこの作品を書いたのではない、ということだった。彳 第 をーーー彼女の言葉を借りれば彼女が実際に目にしたものをーーとりあえす言葉を使って記録して 2 いるだけだ。、 べつに言葉でなくてもよかったのだが、言葉以外に、それを表すための適切な表現

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ー写真と並んで、彼女のスナップ・ショットが小さく添えられていた。見覚えのあるびったりと した薄手のサマーセ 1 ター、美しいかたちの胸 ( たぶん記者会見のときに撮影されたのだろう ) 。 肩にかかるまっすぐな長い髪、正面からこちらを見つめている一対の黒く謎めいた瞳。その目は カメラのレンズを通して、人が心の中にひっそりと抱えている何かをーーー普段はそんなものを抱 えていると自分でも意識しない何かをーー・率直に見据えているように見える。中立的に、しかし 優しく。その十七歳の少女の迷いのない視線は、見られているものの防御心をほどいてしまうの と同時に、 いくぶん居心地の悪い気持ちにもさせた。小さな白黒写真ではあるけれど、この写真 を目にしただけで、本を買ってみようかと思う人々も少なくないはすだ。 発売の数日後に小松が『空気さなぎ』を二冊郵便で送ってくれたが、天吾はそのページを開く こともしなかった。そこに印刷されている文章はたしかに自分が書いたものだったし、彼の書い た文章が単行本のかたちになるのはもちろん初めてのことだったが、それを手にとって読みたい とは思わなかった。ざっと目を通す気さえ起きなかった。本を目にしても、喜びの気持ちはわい てこなかった。たとえ彼の文章であるとしても、書かれている物語はどこまでもふかえりの物語 なのだ。彼女の意識の中から生み出された話だ。彼の陰の技術者としてのささやかな役目はすで に終了していたし、その作品がこれから先どのような運命を辿ることになろうと、それは天吾に は関わりのないことだった。また関わりを持つべきではないことだった。彳 ( 皮よその二冊の本を、 ビニールに包まれたまま、本棚の目につかないところに押し込んでおいた。 アパ 1 トにふかえりが泊まった夜のあと、天吾の人生はしばらくのあいだ、何ごともなく穏や 497 第 22 章 ( 天吾 ) 時間がいびつなかたちをとって進み得ること

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ぎ』は君が自分で文章を書いたわけじゃないんだ」 「わたしはかいていないー 天吾は数秒の間を置いた。重みのある数秒間だった。「じゃあ誰が書いたの ? 「アザミ」とふかえりは言った。 「アザミって誰 ? 」 「ふたっとしした」 もう一度短い空白があった。「その子が君のかわりに『空気さなぎ』を書いた」 ふかえりはごく当り前に肯いた。 天吾は懸命に頭を働かせた。「つまり、君が物語を語って、それをアザミが文章にした。そう 「タイプしてインサッした」とふかえりは言った。 天吾は唇を噛み、提示されたいくつかの事実を頭の中に並べ、前後左右を整えた。それから言 った、「つまりアザミが、そのインサッしたものを雑誌の新人賞に応募したんだね。おそらく君 には内緒で、『空気さなぎ』というタイトルをつけて」 ふかえりはイエスともノーともっかない首の傾げ方をした。しかし反論はなかった。おおむね それで合っているということなのだろう 「アザミというのは君の友だち ? 」 「いっしょにすんでいる」 「君の妹なの ? 」 179 第 8 章 ( 天吾 ) 知らないところに行って知らない誰かに会う

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第章・大五ロ 気の毒なギリヤ 1 ク人 天吾は眠れなかった。ふかえりは彼のべッドに入って、彼のパジャマを着て、深く眠っていた。 天吾は小さなソフアの上に簡単に寝支度を調えたが ( 彼はよくそのソフアで昼寝をしていたから、 とくに不便はない ) 、横になってもまったく眠気を感じなかったので、台所のテープルに向かっ て長い小説の続きを書いた。ワードプロセッサーは寝室にあったから、レポ 1 ト用紙にボールペ ンで書いていた。それについても彼はとくに不便を感じなかった。書くスピ 1 ドや記録の保存に 関しては、ワ 1 ドプロセッサ 1 はたしかに便利だが、手を使って紙に字を書くという古典的な行 為を彼は愛していた。 天吾が夜中に小説を書くのは、どちらかといえば珍しいことだ。外が明るいとき、人々が普通 に外を歩き回っている時間に仕事をするのが、彼は好きだった。まわりが闇に包まれ、深く静ま りかえっている時間に書くと、文章はときとして濃密になりすぎる。夜に書いた部分を、昼の光 の中で頭から書き直さなくてはならないことが多かった。そんな手間をかけるのなら、最初から 明るい時間に文章を書いた方がいい

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のふかえりっていう子は、そのどっちでもない。見ての通り天性の才能もないし、かといって努 力するつもりもなさそうだ。どうしてかはわからん。でも文章というものに対する興味がそもそ もないんだ。物語を語りたいという意志はたしかにある。それもかなり強い意志であるらしい。 そいつは認める。それがナマのかたちで、こうして天吾くんを惹きつけ、俺に最後まで原稿を読 ませる。考えようによっちやたいしたもんだ。にもかかわらす小説家としての将来はない。南京 虫のクソほどもない。君をがっかりさせるみたいだけど、ありていに意見を言わせてもらえれば、 そ、つい、つことだ」 天吾はそれについて考えてみた。小松の言い分にも一理あるように思えた。小松には何はとも あれ編集者としての勘が具わっている。 「でもチャンスを与えてやるのは悪いことじゃないでしよう」と天吾は言った。 ア 「水に放り込んで、浮かぶか沈むか見てみろ。そういうことか ? 」 ア の 「簡単にいえば」 「俺はこれまでにすいぶん無益な殺生をしてきた。人が溺れるのをこれ以上見たくはない 「じゃあ、僕の場合はどうなんですか ? ち 「天吾くんは少なくとも努力をしている」と小松は言葉を選んで言った。「俺の見るかぎりでは 手抜きがない。文章を書くという作業に対してきわめて謙虚でもある。どうしてか ? それは文飫 章を書くことが好きだからだ。俺はそこも評価している。書くのが好きだというのは、作家を目 第 指す人間にとっては何より大事な資質だよ」 「でも、それだけでは足りない」