私たち - みる会図書館


検索対象: 1Q84 BOOK1
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1. 1Q84 BOOK1

イクスピアの芝居に感心したり、ダウランドの美しい音楽に耳を澄ますことのできるのは、おそ らくほんの一部の人だけだったでしよう」 老婦人は微笑んだ。「あなたはずいぶん興味深い人ね」 青豆は言った。「私はごく普通の人間です。ただ本を読むのが好きなだけです。主に歴史につ いての本ですが」 「私も歴史の本を読むのが好きです。歴史の本が教えてくれるのは、私たちは昔も今も基本的に 同じだという事実です。服装や生活様式にいくらかの違いはあっても、私たちが考えることやや っていることにそれほどの変わりはありません。人間というものは結局のところ、遺伝子にとっ てのただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代か ら世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えま せん。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはた だの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的 かということだけです」 「それにもかかわらず、私たちは何が善であり何が悪であるかということについて考えないわけ い力ないそ、つい、つことですか ? 。。 ( し力なししかし 老婦人は肯いた。「そのとおりです。人間はそれについて考えないわナこよ、、 私たちの生き方の根本を支配しているのは遺伝子です。当然のことながら、そこに矛盾が生じる ことになります」、彼女はそう言って微笑んだ。 歴史についての会話はそこで終わった。二人は残っていたハープティーを飲み、マーシャル・ キャリア 385 第 17 章 ( の私たちがを福になろうが不になろうが

2. 1Q84 BOOK1

それは表沙汰にはならなかった。夫を呼んで事情聴取がおこなわれたものの、彼女の死因は明ら かに自殺だったし、彼女が死んだとき夫は北海道に出張していた。彼が刑事罰に問われることは なかった。環の弟がそんな事情を後日、青豆にこっそり打ち明けてくれた。 暴力は最初からあったし、時を追うにしたがってますます執拗で陰惨なものになっていったと いうことだ。しかし環は、その悪夢のような場所から逃げ出すことができなかった。青豆に対し てそんなことは一言も言わなかった。相談したところで、返ってくる答えは初めからわかってい たからだ。今すぐその家を出なさい、そう言われるに決まっている。しかしそれができないのだ。 自殺の直前に、最後の最後になって、環は青豆に長い手紙を書き送った。自分が最初から間違 っていて、青豆が最初から正しかったのだと、手紙の冒頭にあった。彼女は最後をこう結んでい 日々の生活は地獄です。しかし私にはこの地獄から抜け出すことがどうしてもできません。 ここを抜け出したあと、どこに行けよ、、 ( ししのかもわからないから。私は無力感というおぞまし い牢獄に入っています。私は進んでそこに入り、自分で鍵を閉めて、その鍵を遠くに投げ捨て てしまったのです。この結婚はもちろん間違いでした。あなたの言ったとおりです。でもいち ばん深い問題は夫にでもなく、結婚生活にでもなく、私自身の中にあります。私の感じるあら ゆる痛みは、私が受けるに相応しいものです。誰を非難することもできません。あなたは私に とってのただ一人の友だちであり、この世の中で私が信頼することのできるただ一人の人です。 しつま でも私にはもう救いはありません。できれば私のことをいつまでも覚えていて下さい。、 300

3. 1Q84 BOOK1

の成績もとくに賞められたものじゃなかったからさ。お母さんはもっと違うタイプの娘をほしか ったんだよ。お人形さんみたいで、バレエ教室にかようようなすらっとした可愛い女の子をね。 そんなのどう考えても、ないものねだりってものだよ」 「だからそれ以上お母さんを失望させたくなかった」 「そういうこと。お兄ちゃんが私に何をしているか言いつけたりしたら、私をもっと恨んだり嫌 ったりしそうな気がしたんだよ。きっと私の側に何か原因があって、そんなことになったんだろ うって。お兄ちゃんを責めるよりはね 青豆は両手の指を使って、顔のしわをもとに戻した。十歳の時、私が信仰を捨てると宣言して からは、母親はいっさい口をきいてくれなくなった。必要なことがあれば、メモに書いて渡した。 でも口はきかなかった。私はもう彼女の娘ではなくなった。ただの「信仰を捨てたもの」に過ぎ なかった。それから私は家を出た。 「しかし挿入はなかった」と青豆はあゆみに尋ねた。 「挿入はないー とあゆみは言った。「いくらなんでも、そんな痛いことできないよ。向こうだっ てそこまでは要求しない」 「今でもそのお兄さんとか叔父さんとかと会っているわけ ? 」 「私は就職して家を出ちゃったし、今ではほとんど顔を合わせることはないけど、いちおう親戚 だし、なにしろ同業だからね、対面が避けられないこともある。そ、つい、つときはまあ、それなり ににこやかにはやってる。ことを荒立てるようなことはしない。だいたいあいつら、そんなこと があったことすらきっと覚えてないよ」

4. 1Q84 BOOK1

「男たちは毎日数百万匹の精子をつくりますーと老婦人は青豆に言った。「そのことは知ってい ましたか ? 「細かい数は知りませんがーと青豆は言った。 「端数まではもちろん私も知りません。とにかく無数です。彼らはそれを一度に送り出します。 しかし女性が送り出す成熟した卵子の数は限られています。いくつか知っていますか ? 」 「正確には知りません」 「生涯を通しても約四百個に過ぎません」と老婦人は言った。「卵子は月々新しくつくられるわ けではなく、それは生まれたときから女性の体内にそっくり蓄えられています。女性は初潮を迎 えたあと、それを月にひとっすっ成熟させ外に出していくのです。この子の中にもそんな卵子が 蓄えられています。まだ生理は始まっていませんから、ほとんど手つかずであるはすです。引き 出しの中にしつかりと納められているはずです。それらの卵子の役目は言うまでもなく、精子を 迎え入れて受胎することです」 青豆は肯いた。 「男性と女性のメンタリティ 1 の違いの多くは、このような生殖システムの差違から生まれてい るようです。私たち女性は、純粋に生理学的見地から言えば、限定された数の卵子を護ることを 主題として生きているのです。あなたも、私も、この子も」、そして彼女は淡い微笑みを口元に 浮かべた。「私の場合はもちろん、生きてきたと過去形になりますが」 私はこれまで既にざっと二百個の卵子を排出したことになる、と青豆は頭の中で素早く計算し た。だいたいあと半分が私の中に残っている。おそらくは「予約済み」という札を貼られて。 403 第 17 章 ( 青豆 ) 私たちが幸福になろうが不幸になろうが

5. 1Q84 BOOK1

ひょっとして私は自己防御のために、身勝手な仮説を作り上げているのだろうか。実際には、 ただ単に私の頭がおかしくなっているというだけかもしれない。私は自分の精神を完璧に正常だ と見なしている。自分の意識には歪みがないと思っている。しかし自分は完全にまともで、まわ りの世界が狂っているのだというのが、大方の精神病患者の主張するところではないか。私はパ ラレル・ワールドというような突拍子もない仮説を持ち出して、自分の狂気を強引に正当化しょ うとしているだけではないのか 冷静な第三者の意見が必要とされている。 しかし精神分析医のところに行って診察を受けるわけにもいかない。事情が込み入りすぎてい るし、話せない事実があまりに多すぎる。たとえば私がここのところおこなってきた「仕事に しても、疑問の余地なく法律に反している。なにしろ手製のアイスピックを使って秘密裏に男た し。 ( し力ない。たとえ相手が、殺され ちを殺してきたのだ。そんなことを医師に打ち明けるわナこよ、、 ても文句の言えないような卑劣きわまりない歪んだ連中であったにせよだ。 もし仮にその違法の部分だけをうまく伏せることができたにしても、私が生まれてこのかた辿 ってきた人生の合法的な部分だって、お世辞にもまともとは言えない。汚れた洗濯物を押し込め るだけぎゅうぎゅう押し込んだトランクみたいなものだ。その中には、一人の人間を精神異常に 追い込むに足る材料がじゅうぶんに詰め込まれている。いや、二三人分は詰まっているかもしれ ない。セックス・ライフひとつを取り上げてもそ、つだ。人前でロに出せるよ、つな代物ではない と青豆は思う。自分ひとりで解決するしかない。 医者のところには一丁けない、 私なりに仮説をもう少し先まで追求してみよう。

6. 1Q84 BOOK1

言に何か欠損や歪みがあるという実感が、どうしても持てなかったからだ。 だから彼女はその仮説をもっと先まで推し進めた。 狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ。 、、 0 そ、つ、それてしし どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わ ったのだ。レ 1 ルのポイントが切り替わるみたいに。つまり、今ここにある私の意識はもとあっ た世界に属しているが、世界そのものは既に別のものにかわってしまっている。そこでおこなわ れた事実の変更は、今のところまだ限定されたものでしかない。新しい世界の大部分は、私の知 っているもともとの世界からそのまま流用されている。だから生活していくぶんには、とくに現 実的な支障は ( 今のところほとんど ) ない。しかしそれらの「変更された部分」はおそらく先に 行くにしたがって、更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。誤差は少しずつ膨ら んでいく。そして場合によってはそれらの誤差は、私の取る行動の論理性を損ない、私に致命的 な過ちを犯させるかもしれない もしそんなことになったら、それは文字通り命取りになる。 ハラレル・ワールド。 ひどく酸つばいものを口の中に含んでしまったときのように、青豆は顔をしかめた。しかし先 刻ほど激しいしかめ方ではなかった。それからまたボールペンの尻で前歯をこっこっと強く叩き、 喉の奥で重いうなり声を立てた。背後の高校生はそれを耳にしたが、今度は聞こえないふりをし ていた。 これじやサイエンス・フィクションになってしま、つ、と青豆は思った。 195 第 9 章 ( 青豆 ) 風景が変わり、ルールが変わった

7. 1Q84 BOOK1

話が合わなくなるかもしれない」 「いいよ。それはたしかに正しい意見だ。で、たとえば私のどんなことを知っておきたいの ? 「たとえば、そうだな : ・ : どんな仕事をしてるの ? 女はトム・コリンズを一口飲み、それをコ 1 スターの上に置いた。そして紙ナプキンでロを叩 くように拭った。紙ナプキンについた口紅の色を点検した。 「これ、なかなかおいしいじゃない」と女は言った。「べースはジンよね ? 」 「ジンとレモンジュースとソーダ」 「たしかにそんなに大した発明とは言えないけど、でも味は悪くない 「それはよかった」 「ええとそれで、私がどんな仕事をしているのか ? そいつはちっとむずかしい問題ね。正直に 言っても、信じてもらえないかもしれないし」 「じゃあ私の方から一一一一口うわーと青豆は言った。「私はスポ 1 ツ・クラブでインストラクタ 1 をし ているの。主にマーシャル・アーツ。あとは筋肉ストレッチング」 「マーシャル・アーツ」と感心したように相手の女は言った。「プルース・ 1 みたいなやっ ? 「みたいなやっ」 「強い ? 「まずます」 女はにつこり笑って、乾杯するようにグラスを持ち上げた。「じゃあ、いざとなれば無敵の二 人組になれるかもね。私はこう見えて、けっこう長く合気道をやってるから。実を一言うとね、私

8. 1Q84 BOOK1

出来事や事件や事故を、どれもはっきり記憶していた。その二件以外のニュースについては、記 應に洩れはなかった。どの記事も当時しつかり読んだ覚えがあった。それなのに、本栖湖の銃撃 、。ど、つしてだろ、つ 事件との集金人の事件だけが、彼女の記億にはまったく残っていなし もし私の頭脳に何か不具合が生じているとしても、その二件についての記事だけを読み飛ばした り、あるいはそれについての記憶だけを器用に消し去ったりできるものだろうか 青豆は目を閉じ、こめかみを指先で強く押した。いや、そういうこともひょっとしてあり得る かもしれない。私の脳の中に、現実を作り替えようとする機能みたいなものが生じていて、それ がある特定のニュースだけを選択し、そこにすつほりと黒い布をかけ、私の目に触れないように、 記憶に残らないようにしてしまっているのかもしれない。警官の制式拳銃や制服が新しくなった ことや、米ソ共同の月面基地が建設されていることや、の集金人が出刃包丁で大学生を刺 したことや、本栖湖で過激派と自衛隊特殊部隊とのあいだに激しい銃撃戦があったことなんかを。 しかしそれらの出来事のあいだに、 いったいどのような共通性があるというのだ ? どれだけ考えても共通性なんてない。 青豆はボ 1 ルペンの尻で前歯をこっこっと叩き続けた。そして頭脳を回転させた。 長い時間が経過したあとで、青豆はふとこう思った。 たとえばこんな風に考えてみることはできないだろうか 問題があるのは私自身ではなく、 私をとりまく外部の世界なのだと。私の意識や精神に異常が生じているのではなく、わけのわか らないなんらかの力が作用して、私のまわりの世界そのものが変更を受けてしまったのだと。 考えれば考えるほど、そちらの仮説のほうが青豆には自然なものとして感じられた。自分の意 194

9. 1Q84 BOOK1

「そういうのはもちろんわかるけど : : : 」 「あなたのお金なんか一銭もいらない 。もししつかり私を満足させてくれたら、こっちからお金 わか をあげてもいいくらいよ。コンド 1 ムなら用意してあるから、病気の心配はしなくていい った ? 」 「それはわかったけど : : : 」 「なんだか気が進まないみたいね。私じや不足かしら ? 「いや、そんなことはないよ。ただ、よくわからないんだ。君は若くてきれいだし、私はたぶん 君の父親に近いような歳だし : 「もう、下らないことを言わないで。お願いだから。年齢がどれだけ離れていたって、私はあな たのろくでもない娘じゃないし、あなたは私のろくでもない父親じゃない。そんなこと、わかり きってるでしよう。そういう意味のない一般化をされると、神経がささくれちゃうの。私はね、 ただあなたのその禿げ頭が好きなの。その形が好きなの。わかった ? 「しかしそう言われても、まだ禿げているってほどじゃない。たしかに生え際あたりは少し : : : 」 「うるさいわね、もう」と青豆は思い切り顔をしかめたくなるのを我慢しながら言った。それか ら声をいくぶん柔らかくした。相手を必要以上に法えさせてはならない。「そんなことどうだっ ていいでしよう。お願いだからもう、とんちんかんなことを言わないで」 本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっ ていう項目があったら、あなたはしつかりそこにしるしを入れるのよ。天国に行くとしたら、あ なたはハゲの天国にいく。地獄に行くとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった ? わか 116

10. 1Q84 BOOK1

老婦人は迷ったように、少し沈黙を挟んでから質問した。「立ち入ったことを訊くようだけど、 あなたには好きな人はいるのかしら ? 」 「好きな人はいます」と青豆は言った。 「それはよかった」 「しかし残念ながら、その人は私のことが好きではありません」 「いささか妙な質間かもしれませんが」と老婦人は言った。「どうしてその相手はあなたのこと を好きにならないのかしら ? 客観的に見て、あなたはとても魅力的な若い女性だと思うのだけ れど 「その人は私が存在していることさえ知らないからです」 老婦人は青豆が言ったことについてしばらく考えをめぐらせていた。 「あなたが存在している事実を相手に伝えようという気持ちは、あなたの側にはないのです者 被 の 「今のところありません」と青豆は言った。 れ 「何か事情があるのかしら ? あなたが自分の方からは接近できないという」 生 「事情もいくらかあります。でもほとんどは私自身の気持ちの問題です」 豆 老婦人は感心したように青豆の顔を見た。「私はこれまでいろんな風変わりな人に会ってきた 章 けれど、あなたもそのうちの一人かもしれない」 第 青豆は口元をわずかに緩めた。「私にはとくに変わったところなんてありません。自分の気持 ちに率直なだけです