もっていろ。あんたが外に出ると面倒なことになる。あるいは既に面倒なことになっているかも しれない 「そのかわり、こちらも相手についていくつかの事実を掴むことができた」 「いいだろう」とタマルはあきらめたように言、つ。「話を聞く限りいちおう抜かりなくやってい るようだ。そいつは認める。でも油断はするなよ。相手が何を企んでいるのか、我々にはまだ正 確にはめていないんだ。そして状況を考えれば、背後にはおそらく何らかのかたちで組織がっ いている。俺が前に渡したものはまだ持っているな」 「もちろん」 「当分のあいだそいつを手元から離さないようにした方がいいー 「そうする」 短い間があり、電話が切れる 青豆は湯をはった白い浴槽に身を深く沈め、時間をかけて身体を温めながら天吾のことを思う あの古い三階建てのアパートの一室で暮らしているかもしれない天吾のことを。彼女はその無愛 想なスチールのドアと、スリットに入った名札を思い浮かべる。「川奈」という名前がそこに印 刷されている。そのドアの奥には、、 しったいどのような部屋があり、どのような生活がそこで営 まれているのだろう。 彼女は湯の中で両方の乳房に手をあてて、ゆっくりと何度かさすってみる。乳首がいつになく しのにと青 大きく硬くなっている。敏感にもなっている。この手のひらが天吾のものであればい、 420
「調べてみましよう。二十年も前のことですから、もう退職しておられるかもしれませんが」 「ありがとうございます」と牛河は言った。「それからもしよろしければ、もうひとっ調べてい ただきたいことがあるのです」 「どんなことでしよう ? 「川奈さんとおそらく同じ学年に、青豆雅美さんという女性が在学していたはずです。川奈さん と青豆さんが同じクラスになったことがあるかどうか、それも調べて頂けませんでしようか ? 」 副校長はいくらか怪訝な顔をした。「その青豆さんが、今回の川奈さんの助成金の問題に何か 関係しているのですか ? 」 「いや、そういうわけではありません。ただ川奈さんが書かれた作品の中に、青豆さんらしき人 がモデルとして描かれておりまして、それについて私どもといたしましても、 いくつかの問題を め クリアしておく必要を感じているというだけです。そんなにややこしいことではありません。あ くまで形式的な問題です」 「なるほどー、副校長は端整な唇の両端をわすかに持ち上げた。「ただ、おわかりだとは思います が、個人のプライバシーに関する情報をお渡しすることは、場合によってはできかねます。たと えば学業成績であるとか、家庭環境であるとか」 「それはよく承知しております。我々といたしましてはただ、彼女が川奈さんと実際に同じクラ スになったことがあるかどうかを知りたいのです。そしてもしそうであれば、当時の担任の先生 の名前と連絡先もお教えいただければありがたいのですが」 「わかりました。その程度のことであれば問題はないでしよう。青豆さんとおっしゃいましたっ
込むと、心が広く深く押し広げられていく感触がある。身体の組成が無言のうちに組み替えられ ていく。鼓動がただの鼓動ではなくなっていく。 ほんの一瞬、時間の扉が内側に向けて押し開かれる。古い光が新しい光とひとつに混じり合う。 古い空気が新しい空気とひとつに混じり合う。この光とこの空気だ、と天吾は思う。それですべ てが納得できる。ほとんどすべてのことが。この匂いをどうして今まで思い出せなかったのだろ う。こんなに簡単なことなのに。こんなにあるかままの世界なのに。 「君に会いたかった」と天吾は青豆に一一「ロう。その声は遠くたどたどしい。でも間違いなく天吾の 声だ 「私もあなたに会いたかった」と少女が一言う。それは安達クミの声にも似ている。現実と想像と の境目が見えなくなっている。境目を見極めようとすると、椀が斜めに傾き、脳味噌がとろりと 揺れる 天吾は一一「ロう。「僕はもっと前に君を捜し始めるべきだった。でもそれができなかった」 「今からでも遅くはない。あなたは私を見つけることができる」とその少女は一言う 「どうすれば見つけられるだろう ? 」 返事はない。答えが言葉にされることはない。 「でも僕には君を見つけることができる」と天吾は一一一一口う。 少女は言う。「だって私にあなたを見つけられたのだから 「君は僕を見つけた ? 「私を見つけて」と少女は一一一一口う。「まだ時間のあるうちに」 182
第 ) / 章ル卞河 そちらに向かって歩いていく途中だ 麻布の老婦人についての情報の収集を、牛河はいったんあきらめなくてはならなかった。彼女 のまわりに巡らされたガードがあまりにも強固で、どの方向から手を伸ばしても必すどこかで高 い壁にぶつかることがわかったからだ。「セーフハウスーの様子をもう少しうかがってみたかっ たが、近辺をこれ以上うろっくのは危険だった。監視カメラが設置されているし、牛河はただで さえ人目を引く外見だ。一度相手を警戒させてしまうとあとがやりにくくなる。ひとまず柳屋敷 から離れ、ほかのルートを探ってみることにしよう。 思いつける「ほかのルート」といえば、青豆の身辺をもう一度洗い直すことくらいだ。この前 はっきあいのある調査会社に資料の収集を依頼し、自分でも足を使って聞き込みをした。青豆に ついての詳細なファイルを作成し、様々な角度から検証をおこなった末に、危険性はないと判断 した。スポーツ・クラブのトレーナーとして腕は確かだし、評価も高 い少女時代に「証人会」 に属していたが、十代になって脱会し教団とはきつばり縁を切っている。トップに近い成績で体 育大学を卒業し、スポーツ・ドリンクを売り物にする中堅の食品会社に就職し、ソフトボール部 128
な気がする」 「でもこれは本当のことよ」 「本当のことにしては素晴らしすぎるような気がする」 青豆は暗闇の中で微笑む。それから天吾の唇に唇を重ねる。二人はしばらくのあいだ舌をから めあっている。 「ねえ、私の胸ってあまり大きくないでしよう」、青豆はそう一一「ロ、つ と天吾は彼女の胸に手を置いて言う 「これでちょ、つどいい 「本当にそ、つ思、つ ? 「もちろん」と彼は言う。「これ以上大きいと君じゃなくなってしまう」 「ありがとう」と青豆は言う。そして付け加える。「でもそれだけじゃなくて、右と左の大きさ もけっこ、つ」っている」 「今のままでいい」と天吾は言う。「右は右で、左は左だ。何も変えなくていい」 青豆は天吾の胸に耳をつける。「ねえ、長いあいだ私は一人ばっちだった。そしていろんなこ とに深く傷ついていた。もっと前にあなたと再会できればよかったのに。そうすればこんなに回 り道をしないですんだ」 天吾は首を振る。「いや、そうは思わないな。これでいいんだ。今がちょうどその時期だった んだよ。どちらにとっても」 青豆は泣く。すっとこらえていた涙が両方の目からこばれる。彼女はそれを止めることができ ない。大粒の涙が、雨降りのような音を立ててシーツの上に落ちる。天吾を深く中に収めたまま、 う 99 第引阜 ( . とは ) サヤの中に収まるはのように
「しかしあんたの思惑には関係なく、彼らはカずくでもそれを手に入れようとするだろう。あら ゆる手を尽くして」とタマルは言う。「そしてあんたには川奈天吾という弱点がある。ほとんど 唯一の弱点と言っても、 しいかもしれないしかし大きな弱点だ。そのことを知ったら、連中は間 違いなくそこを集中して突いてくるに違いない」 タマルの一一「ロ、つことは正し、 日奈天吾は青豆にとって生きるための意味であると同時に、致命 的な弱点でもある タマルは言う。「その場所にこれ以上留まるのは危険すぎる。やつらが川奈天吾とあんたとの 繋がりを知る前に、もっと安全なところに移るべきだ」 「今となっては、この世界のどこにも安全な場所なんてない と青豆は言、つ かんみ タマルは彼女の意見を玩味する。そして静かに口を開く。「そちらの考えを聞かせてもらおう」 ( し力ない。たと 「私はます天吾くんに会わなくてはならない。それまではここを離れるわけによ、、 えそれがどれほどの危険を意味するとしても」 「彼に会って何をする ? 」 「何をすればいいのか私にはわかっている」 タマルは短く沈黙する。「一点の曇りもなく ? 」 「それがうまく行くかどうかはわからないでもやるべきことはわかっている。一点の曇りもな 「でもその内容を俺に教えるつもりはない」 「悪いけれど今はまだ教えることはできない。あなただけではなくほかの誰にも。もし私がそれ ア 6
な代物だろうか、それが伝えるメッセージがなんだろうが、俺たちにはもう関係ない。そういう ことにしておこ、つじゃないか」 「ボートから降りて、地上の生活に戻る」 小松は肯いた。「そのとおり。俺は毎日会社に出勤し、あってもなくてもどっちでも、 ししよ、つ な原稿を文芸誌のためにとってまわる。君は予備校で前途有為な若者たちに数学を教えながら、 その合間に長編小説を書く。お互いそういう平和な日常に復帰するんだ。急流もなければ滝もな 日々は移り、俺たちは穏やかに年を重ねていく。何か異議はあるかい ? 「だってそれ以外に選択肢はないんでしよう」 小松は指先で鼻の脇のしわを伸ばした。「そのとおりだ。それ以外に選択肢はない。俺はもう 二度と誘拐なんかされたくない。あんな真四角な部屋に閉じこめられるのは一度でたくさんだ。 そして次のときは、再び日の目を見せてはもらえないかもしれない。それでなくてもあの二人組 ともう一度顔を合わせることを考えただけで心臓の弁が震える。目つきだけで人を自然死させら れそうなやつらだよ」 小松はカウンターに向かってグラスを上げ、三杯目のハイボールを注文した。新しい煙草を口 にくわえた。 「ねえ小松さん、それはともかく、どうしてこれまで僕にその話をしなかったんですか ? その 誘拐事件からもうすいぶん日にちが経っています。二ヶ月以上です。もっと前に話してくれても よかったでしよう」 「どうしてだろうな」と小松は軽く首をひねりながら言った。「たしかにそのとおりだ。君にこ 370
小松は鼻の脇に皺を寄せたまま長く考え込んでいた。それから溜息をついて、あたりを見回し た。「まったく奇妙な世界だ。どこまでが仮説なのか、どこからが現実なのか、その境界が日を 追って見えなくなってくる。なあ天吾くん、一人の小説家として、君なら現実というものをどう 定義する ? 「針で刺したら赤い血が出てくるところが現実の世界です」と天吾は答えた。 「じゃあ、間違いなくここが現実の世界だ」と小松は言った。そして前腕の内側を手のひらでご しごしとこすった。そこには静脈が青く浮かび上がっていた。あまり健康そうには見えない血管 だ。酒と煙草と不規則な生活と文芸サロン的陰謀に、長年にわたって痛めつけられてきた血管だ。 小松はハイボールの残りを一息で飲み、残った氷を宙でからからと振った。 「話のついでだ。君の仮説をもっと先の方まで聞かせてくれないか。だんだん面白くなってき 天吾は言った。「彼らは〈声を聴くもの〉のあとがまを探しています。でもそれだけじゃなく、 同時に新しい正しく機能するドウタもみつけなくてはならないはすです。新しいレシヴァには、 おそらく新しいハ、、 ノヴァが必要になるから」 「つまり、正しいマザも新たに見つけなくてはならない となると、空気さなぎだってもう一度 つくらなくてはならない。ずいぶん大がかりな作業になりそうだな」 「だからこそ彼らも真剣になっている」 「たしかに」 「しかしまったくあてがないというわけではないでしよう」と天吾は言った。「彼らにしてもそ 368
きません。人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。私は今になってその真実を 学んでいるだけです」 人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。青豆は顔をしかめる。あのの 集金人がロにしたのと同じ台詞だ。 「あの九月の大雨の夜、大きな雷が次々に鳴った夜、私はそのことにはっと思い当たりました」 と老婦人は言う。「私はこの家の居間に一人でいて、あなたのことを案じながら、雷光が走るの を眺めていました。そしてそのときに雷光にありありと照らし出された真実を私は目の前にした のです。その夜に私はあなたという存在を失い、それと同時に私の中にあったものごとを失って しまったのです。あるいはいくつかのものごとの積みかさねを。それまで私の存在の中心にあり、 私という人間を強く支えていた何かそういうものを 青豆は思い切って質問する。「ひょっとしてそこには怒りも含まれているのでしようか ? 」 干上がった湖の底のような沈黙がある。それから老婦人はロを開く。「そのとき私の失ったい くつかのものごとの中に、私の怒りも含まれているのか。あなたの尋ねているのはそういうこと かしら」 「そうです 老婦人はゆっくりと息をつく。「質問に対する答えはイエスです。そのとおり。私の中にあっ た激しい怒りもなせか、あのおびただしい落雷のさなかに失われてしまったようです。少なくと も遥か遠くに後退しました。私の中に今残っているのは、かっての燃えさかる怒りではありませ ん。それは淡い色合いの悲哀のようなものに姿を変えています。あれほどの怒りが熱を失うこと 280
もちろんすぐに連絡すると青豆は答える。 老婦人は再び沈黙する。それはどちらかというと珍しいことだ。電話で話すときの彼女は常に 実務的で、厳しいまでに時間を無駄にしない 「お元気にしておられますか ? 」と青豆はさりげなく尋ねる 「いつもと同じ、格別悪いところはありません」と老婦人は言う。しかしその声にはためらいの 響きが微かに聞き取れる。それもまた珍しいことだ。 青豆は相手が話を続けるのを待つ。 老婦人はやがてあきらめたように言う。「ただここのところ、自分が年老いたと感じることが 多いのです。とくにあなたがいなくなってからは」 青豆は明るい声を出す。「私はいなくなっていません。ここにいます」 「もちろんそのとおりです。あなたはそこにいるし、こうしてたまに話をすることもできる。し かしあなたと定期的に顔を合わせ、二人で一緒に身体を動かすことによって、私はあなたから活 力をもらっていたのかもしれません」 「あなたはもともと自然な活力をお持ちです。私はその力を順序よく引き出し、アシストしてい ただけです。私がいなくても、ご自分のカでじゅうぶんにやっていけるはすです」 「実を言えば、私も少し前までそう考えていました」、小さく笑って老婦人はそう一言う。どちら かといえば潤いを欠いた笑いだ。「私は特別な人間なのだと自負してもいました。しかし歳月は すべての人間から少しずつ命を奪っていきます。人は時期が来て死ぬのではありません。内側か ら徐々に死んでいき、やがて最終的な決済の期日を迎えるのです。誰もそこから逃れることはで 279 第 14 阜 ( なの私のこの小さなもの