「でも誰もがみんな、できることをするわけじゃない 「たいていの人は僕と違って生活をするのに忙しいから」と天吾は言った。 看護婦は何かを言いかけて迷った。しかし結局、何も言わなかった。彼女は眠っている父親の 姿を見て、それから天吾を見た。 「お大事にと彼女は言った。 「ありがとう」と天吾は言った。 安達看護婦が出ていくと、天吾はしばらく間を置いてから、朗読の続きにかかった。 夕方になって父親が車のついた寝台で検査室に運ばれていくと、天吾は食堂に行ってお茶を飲 み、そこの公衆電話からふかえりに電話をかけた。 「何か変わりはない ? 」と天吾はふかえりに尋ねた。 「とくになにもない とふかえりは言った。「いつもとおなじ」 「僕の方も変わりはない。毎日同じことをしている」 「でもじかんはまえにすすんでいる」 「そのとおり」と天吾は言った。「時間は毎日一日分前に進んでいる そして進んでしまったものを元に戻すことはできない。 「さっきまたカラスがやってきた」とふかえりは言った。「おおきなカラス 「あのカラスは夕方になるといつもうちの窓際にやってくるんだ」 「まいにちおなじことをしている」
「俺の一存ではイエスともノーとも一言えない」とタマルは言う。そして喉の奥の方で小さな音を 立てる。「返事をするのに多少時間がかかる」 「私はいつでもここにいる」と青豆は一一一一口う。 「それがいいーとタマルは言う。そして電話が切れる 翌朝の九時前に電話のベルが三度鳴って切れ、また鳴り出す。相手はタマルのほかにはいな、 タマルは挨拶もなく切り出す。「あんたがそこに長く留まることについては、マダムも懸念を 抱いている。そこには十分なセキュリティーが施されていない。あくまで中間地点でしかない 一刻も早くより安全な遠いところに移ってほしいというのが、我々の共通した見解だ。そこまで はわかるな ? 「よくわかる」 「しかしあんたは冷静で用心深い人間だ。つまらない間違いはしないし、腹も据わっている 我々は基本的にあんたのことを深く信頼している」 「ありがとう」 「あんたがどうしてもその部屋にあとしばらく留まりたいと主張するのなら、それだけの理由は あるのだろう。どんな理由だかはわからんが、ただの気まぐれじゃあるまい。だからできるだけ 要望に添えるようにしたいと、彼女は考えている」 青豆は何も言わず耳を澄ませる タマルは続ける。「あんたはそこに今年いつばい留まっていい。 しかしそれが限度だ」
ろう。危険はあんた一人には留まらす、まわりに及ぶかもしれない。そうなれば俺の立場は微少 なものになる」 「それについては申し訳なく思う。でもあとしばらく時間がほしい」 「あとしばらくというのはいささか曖昧な表現だ」とタマルは言う 「悪いけれど、そうとしか言えない」 タマルはひとしきり黙考する。彼は青豆の決意の固さをその声の響きから感じ取ったようだ。 彼は言う、「俺は立場というものを何よりも優先させる人間だ。ほとんど何よりも。そのこと はわかっているね ? 」 「わかっていると思う」 タマルは再び沈黙する。それから言う。 「いいだろう。俺としてはいちおう誤解がないようにしておきたかっただけだ。そこまで言うか らには、それなりの理由があるんだろう」 「理由はある」と青豆は言う。 タマルは受話器の向こうで簡潔な咳払いをする。「前にも言ったように、こちらとしては計画 を練り、準備も整えた。あんたを安全な遠い場戸に移動させ、足取りを消し、顔も名前も変える 完全にとは言わないか、完全に近いところまで別の人間にしてしまう。そのことについて我々は 合意していたはずだ」 「もちろんそれはわかっている。計画そのものに異議を唱えているわけじゃない。ただ予想もし なかったことが私の身に起こったの。そして私はもう少し長くここに留まる必要がある」 41 第 2 ( は ) ひとりばっちではあるけれど孤独ではない
第フ ) 章主日一 光は間違いなくそこにある 真夜中を過ぎ、日付は日曜日から月曜日へと移ったが、眠りはまだ訪れなかった。 青豆は風呂を出るとパジャマに着替え、べッドに入って明かりを消した。遅くまで起きていた ところで彼女にできることは何もなし卩日 、。引題はとりあえすタマルの手に委ねられた。何を考える にせよ、ここはいったん眠りに就き、明日の朝になってから新鮮な頭であらためて考えた方が良 それでも彼女の意識は隅々まで覚醒し、身体はあてもなく活動を求めていた。眠ることはで 癶一ユ、、つに事 3 い 青豆はあきらめてべッドを出て、パジャマの上にガウンを羽織る。湯を沸かしてハープティー をつくり、食堂のテープルの前に座って、それを少しずっすするように飲む。頭の中に何かの考 えが浮かんでいるのだが、どんな考えなのか見きわめることができない。遠くに見える雨雲のよ うに、それは厚く密なかたちをとっている。かたちはわかるのに輪郭がっかめない。かたちと輪 郭とのあいだにどうやらすれがあるらしい。青豆はマグカップを手に窓際に行って、カーテンの 第 23 ( の咒は間違いなくそこにある 471
な、そんな感じ。こういう言い方はますいのかもしれないけど」 「何もますくない」と天吾は言った。「それでよかったんだと思う」 「天吾くんは今日、こちらに来れるかな ? 「行けると思う」。月曜日から予備校の講義を再開することになっているが、父親が亡くなった となれば、それはなんとでもなるはずだ。 「いちばん早い特急に乗るよ。十時前には着けるだろう」 「そうしてもらえるとありがたいいろいろとジッムみたいなことがあるから」 「実務ーと天吾は言った。「何か具体的に準備していった方がいいものはあるかな ? 「川奈さんの身内っていうと、天吾くん一人だけ ? 」 「たぶんそういうことになる」 「じゃあ、とりあえすジツインを持ってきて。必要なことがあるかもしれない。それから印鑑証 明は持っている ? 」 「たしか予備があったと思う」 「それも念のために持ってきて。ほかに要るものはとくにないと思う。お父さんは全部ご自分で 準備してられたみたいだから」 「全部準備していた ? 「うん。まだ意識のあるうちに葬儀の費用から、お棺に入るときの服から、納骨する場所まで、 自分でそっくり細かく指定してらした。とても手回しの良い人だった。実際的というか」 「そういうタイプの人だったんだ」と天吾は指でこめかみをさすりながら言った。 426
何があってもこの世界から抜け出さなくてはならない。そのためにはこの階段が必す高速道路 一一一一口じるんだ、と彼女は自分に一一一口い聞かせる。あ に通じていると、心から信じなくてはならないイ 皮女は今でもそ の雷雨の夜、リ 1 ダーが死ぬ前にロにしたことを青豆は思い出す。歌の歌詞た。彳 れを正確に記億している。 ここは見世物の世界 何から何までつくりもの でも私を信じてくれたなら すべてが本物になる しや、私と 何があっても、どんなことをしても、私のカでそれを本物にしなくてはならない。、 天吾くんとの二人のカで、それを本物にしなくてはならない。私たちは集められるだけの力を集 めて、ひとつに合わせなくてはならない。私たち二人のためにも、そしてこの小さなもののため 青豆は階段が平らな踊り場になったところで止まり、後ろを振り向く。天吾がそこにいる。彼 女は手を伸ばす。天吾はその手を握る。彼女はそこにさっきと同じ温もりを感じる。それは彼女 に確かな力を与えてくれる。青豆はもう一度身を乗り出し、彼のくしやくしやとした耳に口を近 づける 「ねえ、私は一度あなたのために命を捨てようとしたの」と青豆は打ち明ける。「あと少しで本 588
この世界だけでは足りないかもしれない 水曜日の朝、電話のベルが鳴ったとき、天吾は眠りの中にいた。結局明け方近くまで眠れなか ったし、そのときにロにしたウイスキーが身体にまだ残っていた。彼はべッドから起き上がり、 あたりがすっかり明るくなっていることを知って驚いた 「川奈天吾さん」と男が言った。聞き覚えのない声だ 「そうです」と天吾は言った。父親の死に関する事務手続きの話だろうと彼は思った。相手の声 に静粛で実務的な響きが聞き取れたからだ。しかし目覚まし時計は午前八時少し前を指していた。 役所や葬儀社が電話をかけてくる時刻ではない。 「朝早くから申し訳ありませんが、急がなくてはならなかったのです」 急ぎの用事。「どんなことでしよう」、頭はまだばんやりしている 「青豆さんという名前はご記億にありますか ? 」と相手は言った。 青豆 ? それで酔いと眠気はどこかに消えた。芝居の暗転のように意識が急速に切り替わった。 天吾は受話器を手の中で握り直した。 第」 / 章「人五ロ 0 535 第 27 阜 ( 丿いこの世界たけでは足りないかもしれない
「いろんなものごとがまわりで既にシンクロを始めている。それが僕の感じていることです。そ のいくつかはもう形を変えてしまっています。そう簡単に元には戻れないかもしれない 「もしそこに俺たちのかけがえのない命がかかっているとしてもかい ? 」 天吾は曖昧に首を振った。自分がいっからか強い一貫した流れに巻き込まれていることを天吾 は感じていた。その流れは彼をどこか見知らぬ場所に運ばうとしていた。しかしそれを具体的に 小松に説明することはできない 天吾は彼が現在書いている長編小説が、『空気さなぎ』に書かれている世界をそのまま引き継 いだものであることを月 ( 、、公こは打ち明けなかった。小松はきっとそれを歓迎しないだろう。ま す間違いなく「さきがけ」の関係者も歓迎しないだろう。下手をすれば別の地雷原に彼は足を踏 み入れることになる。あるいはまわりの人々を巻き添えにすることになるかもしれないしかし 物語はそれ自体の生命と目的を帯びて、ほとんど自動的に前に進み続けていたし、天吾は既にそ の世界に否応なく含まれてしまっている。天吾にとってそこは架空の世界ではなくなっていた それは、ナイフで皮膚を切れば本物の赤い血が流れ出す現実の世界になっていた。その空には、 大小二つの月が並んで浮かんでいた。 372
の話をしなくてはと思いつつ、俺はそれを何となく延ばし延ばしにしてきた。どうしてだろう ? 罪悪感からかもしれないな」 「罪悪感 ? 」と天吾は驚いて言った。そんな言葉を小松の口から聞くことになるなんて考えたこ ともなかった。 「俺だって罪悪感くらいあるさーと小松は言った。 「何に対する罪悪感ですか ? 」 小松はそれには答えなかった。目を細め、火のついていない煙草を唇の間でしばらく転がして 「それで、ふかえりは両親が亡くなったことを知っているのですか ? 。と天吾は質問した。 「たぶん知っていると思う。いっかはわからんが、戎野先生がどこかの時点で伝えているはす 天吾は肯いた。きっとふかえりはすいぶん前からそのことを知っていたのだろう。そういう気 がした。知らされていないのは自分だけだったのだ。 「そして僕らはポートから降りて、地上の生活に戻る」と天吾は言った。 「そのとおりだ、地雷原からあとずさりする」 「でも小松さん、そうしようと思って、そんなにすんなりと元あった生活に復帰できると思いま すか ? 「努力するしかあるまいよ」と小松は言った。そしてマッチを擦って煙草に火をつけた。「天吾 くんには何か気にかかるところが具体的にあるのか ? 」 371 第麕 ( 天針で刺したら赤い血が出てくるところ
君自身の仕事に良い影響を及ばしただろう。違うか ? 天吾は肯いた。「そうですね。あの仕事をやったおかげで、小説についていくつかの大事なこ とを学べた気がします。これまで見えなかったものが見えるようにもなってきた」 「自するわけじゃないが、俺にはその手のことがよくわかる。天吾くんはそういうきっかけを 必要としていたんだ」 「でもそのおかげでいろいろと大変な目にもあっています。ご存じのように」 小松はロを冬の三日月のようにきれいに曲げて笑った。奥行きを読み取りにくい笑みだった。 「大事なものを手に入れるには、それなりの代価を人は支払わなくちゃならない。それが世界の ルールだよ」 「そうかもしれません。しかし何が大事なもので何が代価なのか、区別がうまくつかないんです あれやこれや、あまりに入り組んでいるから」 「たしかにものごとはえらく入り組んでいる。混線した電話回線を通して話をしているみたいに。 君の言うとおりだ」と小松は言った。そして眉をひそめた。「ところで今ふかえりがどこにいる か、天吾くんは知っているか ? 」 「今のところは知りません」と天吾は言葉を選んで言った。 「今のところは」と小松は意味ありげに言った。 天吾は黙っていた。 「しかし少し前まで、彼女は君のアパートで暮らしていた」と小松は言った。「という話を俺は 耳にしている」 29 フ第 ( 天 ) それを語ることは許されていない