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検索対象: 1Q84 BOOK3
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1. 1Q84 BOOK3

青豆はそれに続く言葉を探す。タマルはなおも待っている。 「でも退屈するわけじゃない。緻密に美しく書かれているし、その孤独な小惑星の成り立ちのよ うなものを私なりに呑み込めもする。ただなかなか前には進まないということ。ポートを川の上 流に向けて漕いでいるみたいにね。しばらくオールをつかって漕いで、それから手を休めて何か について考えているうちに、気がついたらポートはまたもとの場所に戻っている」と青豆は言う。 「でも今の私には、そういう読み方があってるのかもしれない。筋を追って前に前にと進んでい く読み方よりはむしろ。なんて一言えばいいのかしら、時間が不規則に揺らぐ感覚がそこにはある 前が後ろであっても、後ろが前であっても、どちらでもかまわないような」 青豆はより正確な表現を探し求める。 「なんだか他人の夢を見ているみたいな気がする。感覚の同時的な共有はある。でも同時である というのがどういうことなのかが把握できないの。感覚はとても近くにあるのに、実際の距離は ひどく離れている」 「そ、ついう感覚はプルーストが意図したものなのだろうか ? 青豆にはもちろんそんなことはわからない 「いすれにせよ、その一方で」とタマルは言う。「この現実世界では時間は着実に前に進んでい る。滞りもしないし、逆戻りもしない」 「もちろん。現実の世界では時間は前に進んでいる」 青豆はそう言いなから、ガラス戸に目をやる。本当にそうだろうか ? 時間は確実に前に向か って進んでいるのだろうか ? 330

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「そう」と青豆は言った。「少し前このマンションの向かいの公園にいた。でも今はもういない 「少し前というのはどれくらい前のことだろう ? 「四十分くらい前」 「どうして四十分前に電話をかけなかった ? 「すぐにあとをつけなくてはならなかったし、時間の余裕がなかった」 タマルは絞り出すようにゆっくりと息を吐く。「あとをつけた ? 」 「そいつを見失いたくなかったから 「何があっても外に出るなと言ったはすだ」 青豆は注意して言葉を選ぶ。「でも自分の身に危険が迫ってくるのを、ただ座って眺めてはい られない。あなたに連絡をしても、すぐにここに来ることはできないそうでしよう ? 」 タマルは喉の奥で小さな音を立てた。「そしてあんたは福助頭のあとをつけた」 「そいつは、自分があとをつけられているなんて思いも寄らないみたいだった」 「プロにはそういうふりができる」とタマルは一言う タマルの言うとおりだ。あるいは巧妙に仕掛けられた罠だったのかもしれない。しかしタマル し , 刀はい の前でそれを認めるわけには、、 「もちろんあなたにはそういうことができるでしよう ( しし力もしれないで しかし私の見たところでは、福助頭はそのレベルには達していない。腕よ、、、 もあなたとは違う」 「バックアップがついていたかもしれない」 、え。その男は間違いなく一人だった」 414

3. 1Q84 BOOK3

所だ。逃げ出すことも、助けを求めることもます不可能だ。たとえ殺されても ( それがおそらく は「お互いにとってあまり愉央とは言いがたい選択肢」という発言の意味なのだろう ) 、死体は 発見されないままに終わるはすだ。小松にとって、そこまで死が現実性を持って近接してきたの は、生まれて初めてのことだった。 会社に電話を入れさせられてから十日目に ( おそらく十日、しかし確信はない ) 、ようやく例 の二人組が姿を見せた。坊主頭はこの前会ったときよりいくぶん痩せたらしく、そのせいで頬骨 が余計に目立った。どこまでも冷ややかだった目は、今では血走って見えた。彼は前と同じよう に持参したパイプ椅子に腰を下ろし、テープルをはさんで小松と向かいあった。長いあいだ坊主 頭はロをきかなかった。その赤い目でただまっすぐ小松を眺めていた。 ポニーティルの外見には変わりはなかった。彼は前と同じように背筋を伸ばしてドアの前に立 ち、表情を欠いた目で空中の架空の一点をじっと見つめていた。二人ともやはり黒いズボンに白 シャツを着ていた。おそらくそれか制服のようなものなのだろう 「この前の話の続きをしましよう」とようやく坊主頭が口を開いた。「我々はあなたをここでど のようにも取り扱えるはすだという話でしたね」 小松は肯いた。「その中には、お互いにとってあまり央とは言いがたい選択肢も含まれてい る 「さすがに記憶力がいいー と坊主頭は言った。「そのとおりです。愉央ではない結末もいちおう 視野に入ってくる」 小松は黙っていた。坊主頭は続けた。 3 5 1 第阜 ( 天Ⅲ針で刺したら赤い血が出てくるところ

4. 1Q84 BOOK3

当に死ぬところだった。あと数ミリのところで。それを信じてくれる ? 」 「もちろん」と天吾は言う 「心から信じるって言ってくれる ? 」 「心から信じる」と天吾は心から言う 青豆は肯き、握っていた手を放す。そして前を向いて再び階段を登り始める 数分の後に青豆は階段を登り終え、首都高速道路三号線に出る。非常階段は塞がれてはいなか った。彼女の予感は正しく、努力は報われたのだ。彼女は鉄柵を越える前に、手の甲で目に滲ん だ冷たい涙を拭う。 「首都高三号線と天吾はしばらく無一言であたりを見まわし、それから感心したように言う。 「ここが世界の出口なんだね」 「そう」と青豆は答える。「ここが世界の入り口であり出口なの」 青豆がタイト・スカートの裾を腰まであげて鉄柵を乗り越えるのを、天吾が後ろから抱きかか えるようにして手伝う。柵の向こうは、車が二台ほど停められる待避スペースになっている。こ こに来るのはこれでもう三度目だ。目の前にはいつものエッソの大きな看板がある。タイガーを あなたの車に。同じコピー、同じ虎。彼女は裸足のまま、一言葉もなくそこにただ立ちすくむ。そ して排気ガスの充満する夜の空気を胸に大きく吸い込む。それは彼女にはどんな空気よりすがす がしく感じられる。戻ってきたのだ、と青豆は思う。私たちはここに戻ってきた。 高速道路は前と同じようにひどく渋滞している。渋谷方向に向かう車の列はほとんど前に進ん ラ 89 第引阜 ( 天吾とのサヤの中に収まるはのように

5. 1Q84 BOOK3

でいない彼女はそれを目にして驚く。どうしてだろう。私がここに来るとき、道路は決まって 渋滞している。平日のこんな時刻に三号線の上りが渋滞しているのは珍しいことだ。どこか先の 方で事故があったのかもしれない。対向車線は順調に流れている。しかし上り車線は壊滅的だ。 彼女のあとから天吾が同じように鉄の柵を乗り越える。足を大きく上げて、それを軽く飛び越 える。そして青豆の隣りに並んで立つ。生まれて初めて大洋を目の前にした人が波打ち際に立っ て、次から次へと砕ける波を呆然と見つめるように、二人は目の前にひしめきあった車の列を、 言葉もなくただ眺めている 車の中にいる人々もまたじっと二人の姿を見ている。人々は自分たちが目にしている光景に戸 鳬い、態度を決めかねている。彼らの目には好奇というよりは、むしろ不審の色が浮かんでいる この若いカップルはこんなところでいったい何をしているのだ ? 二人は暗がりの中から出し抜 けに出現し、首都高速道路の待避スペースにばんやり立ちすくんでいる。女はシャープなス 1 ッ を着ているが、コートは薄い春物で、ストッキングだけで靴も履いていない。男は大柄で、くた びれた革のジャンパーを着ている。二人ともショルダーバッグをたすきがけにしている。乗って いた車が近くで故障するか、事故を起こすかしたのだろうか ? しかしそれらしい車は見当たら ないそして彼らはとくに助けを求めているよ、つにも見えない。 青豆はようやく気を取り直し 、バッグからハイヒールを取りだして履く。スカートの裾を引っ 張って直し、ショルダ 1 バッグを普通にかけ直す。コートの前の紐を結ぶ。舌で乾いた唇を湿し、 指で前髪を整える。ハンカチを出してにじんだ涙を拭く。それから再び天吾に寄り添う。 二十年前のやはり十二月、放課後の小学校の教室でそうしたのと同じように、二人はそこに並

6. 1Q84 BOOK3

でもあなたにどうしてそれがわかるのかしら ? 」 なんて永遠にあるまいと思えたのに : 青豆は言う、「ちょうど同じことが私の身にも起こったからです。あのたくさんの雷が落ちた 「あなたはあなた自身の怒りについて語っているのですね ? 「そうです。私の中にあった純粋な激しい怒りは今はもう見当たりません。すっかり消え去った というわけではありませんが、おっしやるようにずっと遠くまで後退したようです。その怒りは 長い歳月、私の心の中の大きな場所を占め、私を強く駆り立てていたものだったのですが」 「休むことを知らない無慈悲な御者のように」と老婦人は言う。「でもそれは今では力を失い あなたは妊娠している。そのかわりにと言うべきなのかしら」 青豆は呼吸を整える。「そうです。そのかわりに私の中には小さなものがいます。それは怒り とは関わりを持たないものです」。そしてそれは私の中で日々大きさを増している。 「あえて言うまでもないことですが、あなたはそれを大事に護らなくてはなりません」と老婦人 は言う。「そのためにも一刻も早く不安のない場所に移動することが必要です」 「おっしやるとおりです。でもその前に私にはどうしてもやり終えなくてはならないことがあり ます」 電話を切ったあと青豆はべランダに出て、プラスチック板のあいだから午後の通りを眺め、児 童公園を眺める。夕暮れが迫っている。 1Q84 年が終わる前に、彼らが私を見つける前に、私 は何があっても天吾を見つけ出さなくてはならない 281 第Ⅱ阜 ( ) 私のこの小さなもの

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第 9 ) 章ル卞河 彼にできて並日通の人間にできないこと 風のない静かな木曜日の朝だった。牛河はいつものように六時前に目を覚まし、冷たい水で顔 を洗った。ラジオのニュースを聞きながら歯を磨き、電気剃刀で髭を剃った。鍋に湯を沸 かしてカップ麺を作り、それを食べ終えるとインスタント・コーヒーを飲んだ。寝袋を丸めて押 」こ要を据えた。東の空が明るくなり始めていた。温かい一 し入れに突っ込み、窓際のカメラの前 ( 月 日になりそ、った。 朝に出勤していく人々の顔は、今ではすっかり頭に刻み込まれている。いちいち写真を撮るま でもない七時から八時半のあいだに彼らは急ぎ足でアパートを出て、駅に向かう。お馴染みの 顔ぶれだ。アパートの前の道を、グループを組んで登校する小学生たちの賑やかな声が牛河の耳 に届いた。子供たちの声は彼に、娘たちがまだ幼かった頃のことを思い出させた。牛河の娘たち は小学校での生活を心ゆくまで楽しんでいた。ピアノやバレエを習い、友達も多かった。自分に そういう当たり前の子供たちかいるという事実が、牛河には最後までうまく受け入れられなかっ た。どうしてこの自分がそんな子供たちの父親であり得るのだろう ? ( 半河 ) 彼にできて普通の人間にできないこと 3 川 9 阜

8. 1Q84 BOOK3

い。ただ息を殺してその男が立ち去るのを待っしかない 「高井さん、しつこく繰り返すようですが、わたくしにはわかっておるんです。あなたが部屋の 中にいて、じっと耳を澄ませておられることが。そしてこう思っておられる。なぜよりによって 自分の部屋の前でいつまでも騒ぎ立てるのだろうと。どうしてでしようね、高井さん。たぶんわ たくしが居留守というものをあまり好きではないからです。居留守というのはいかにも姑息では ありませんか。ドアを開け、エネーチケーの受信料なんか払いたくないと、面と向かって言えば 、いではありませんか。すっきりしますよ。わたくしだってむしろその方がすっきりします。そ こには少なくとも話し合いの余地があります。ところが居留守というのはいけません。けちなネ ズミみたいに奥の暗いところに隠れている。人がいなくなったらこそこそ出てくる。つまらない 生き方だ」 この男は嘘をついている、と青豆は思う。中に人がいる気配かわかるなんてでまかせに決まっ どこかの部屋 ている。私は物音ひとっ立てていないし、静かに呼吸をしている。どこでもいし の前で派手に騒ぎ立てて、まわりの住民を威嚇することがこの男の本当の目的なのだ。自分の部 屋の前でそんなことをされるくらいなら、受信料を払ってしまった方がましだと、人々に思わせ ようとしている。この男はおそらく方々で同じようなことをして、それなりの成果を収めてきた のだろう 「高井さん、わたくしのことを不央に田 5 っておられるでしよう。考えておられることはそれこそ わたくしはたしかに不央な人間です。それは本人もわかって 手に取るようにわかります。はい、 おります。しかしです、高井さん、感じのいい人間には集金なんぞできません。どうしてかと言

9. 1Q84 BOOK3

「うごかないからあまりたべるヒッョウもない」とふかえりは言った。 「毎日一人で何をしているの ? 「かんがえごと」 「どんなことを考えているの ? 彼女はその質問には答えなかった。「カラスがやってくる」 「カラスは毎日一回来るんだ」 「いちどじゃなくなんどかやってくる . と少女は言った。 「同じカラスが ? 「そう」 「ほかには誰も ~ 米はい ? ・ 「エネーチケーのひとがまたやってきた」 「この前来たのと同じエネーチケーのひと ? 」 「おおきなこえでカワナさんはドロポーだといっていた」 「うちのドアの前でそう叫んでいたわけ ? 「ほかのみんなにきこえるように」 天吾はそれについて少し考えた。「そのことは気にしなくていい。 とくに害はないから」 「ここにかくれていることはわかっているといった」 「気にすることはないーと天吾は言った。「そんなこと向こうにはわからない。でまかせを言っ 君には関係のないことだし、 1 10

10. 1Q84 BOOK3

しかし生まれて初めて、自分の顔にも美しいところがあるかもしれないと青豆は思う。これま でになく長く鏡の前に座るようになったし、自分の顔をより念入りに眺めるようになった。しか しそこにナルシスティックな要素はない。 , イ 皮女はあたかも独立した別の人格を観察するように、 鏡に映る自分の顔を様々な角度から実際的に検証する。自分の顔立ちが実際に美しくなったのか、 それとも顔だちそのものは変わっていないが、それを見る自分の感じ方が変化したのか。青豆自 身にも判別できない 青豆はときどき鏡の前で思い切り顔をしかめる。しかめられた顔は昔と同じだ。顔中の筋肉が 思い思いの方向に伸び、そこにある造作は見事なまでにほどけてばらばらになってしまう。世界 中のあらゆる感情がそこに奔出する。美しいも醜いもない。それはある角度からは夜叉のように 、。頁をし 見え、ある角度からは道化のように見える。ある角度からはただの混沌にしか見えなし彦 かめるのをやめると、水面の波紋が収まっていくように筋肉は徐々に緩み、もとの造作に戻る 青豆は以前とはいくぶん異なった新しい自分自身をそこに見出すことになる 本当はもっと自然ににつこりできるといいんだけどね、と大塚環はよく青豆に言った。につこ りすると顔だちがそんなにやわらかくなるのに、もったいないよ。でも青豆は人々の前で自然に さりげなく微笑むことができない。無理に微笑もうとすると、ひきつった冷笑のようになってし まう。そして相手をかえって緊張させ、居心地悪くさせることになる。大塚環はとても自然に、 明るい笑みを浮かべることができた。誰もが初対面で彼女に親しみを持ち、好感を抱いた。でも 結局のところ、彼女は失意と絶望のうちに自らの命を絶たなくてはならなかった。うまく微笑む ことのできない青豆をあとに残して。 402