「今のところ、牛河さんが手にしたらしい有力な手がかりを引き継いで追及していくのがいちば ん有効のようです。それが何であれ」 つまり我々はそれ以外には、自前の有力な手がかりを持っていない ? 「そういうことですーと坊主頭は素直に認めた。 どのような危険に遭遇しても、どのような犠牲を払っても、我々は青豆という女を見つけて確 一刻も早く。 保しなくてはならない 「それが我々に与えられた声の指示なのですね ? ーと坊主頭は聞き返す。「どのような犠牲を払 っても、一刻も早く青豆を確保することが」 上司は返事をしなかった。そこから先の情報は坊主頭のレベルにまでは明かされない。彼は幹 部ではない。ただの実行部隊の長に過ぎない。しかし坊主頭は知っていた。それが彼らから与え られた最後通告であり、巫女たちが耳にしたおそらくは最後の「声」であることを。 冷え切った部屋の中、牛河の遺体の前を歩いて往復しているとき、坊主頭の意識の片隅を何か がよぎった。彳 ( 皮よそこで立ち止まり、顔をしかめ、眉を寄せ、その通り過ぎていった何かのかた ちを見定めようとした。彼の歩行が中断されたとき、ポニーティルはドアの脇で僅かに姿勢を変 えた。息を長く吐き、脚の重心を移し替えた。 高円寺、と坊主頭は思う。彼は顔を軽くしかめる。そして記憶の暗い底を探る。細い一本の糸 を注意深く、ゆっくりとたぐり寄せる。この件に関係している誰かがやはり高円寺に住んでいた。 いったい誰だろう ? 562
ていればアパート中に聞こえたはすです。素人にはとてもできないことです なぜ牛河がプロの手で消されなくてはならなかったのだろう ? 坊主頭は用心深く言葉を選んだ。「たぶん、牛河さんは誰かの尻尾を踏んでしまったのでしょ う。踏むべきではない尻尾を、自分でもその意味がよくわからないうちに」 それはリーダーを処理したのと同じ相手だろうか ? 「確証はありませんが、その可能性は高いでしよう」と坊主頭は言った。「それから、おそらく 牛河さんは拷問に近いことを受けています。どんなことをされたのかはわかりませんが、間違い なく厳しく尋問されています」 牛河はどこまでしゃべったのだろう ? 「知っていることは根こそぎしゃべらされたはすです」と坊主頭は言った。「ます疑いの余地な く。とはいえ牛河さんはこの件に関しては、もともと限られた情報しか与えられていません。だ から何をしゃべったところでこちらにそれほどの実害はないはすです」 坊主頭にしたところで、やはり限られた情報しか与えられていないしかしもちろん、部外者 である牛河よりはすっと多くのことを知っている。 プロというのは、つまり暴力団が関与しているということなのか、と上司は質問した。 「これはやくざや暴力団のやり口ではありません」と坊主頭は首を振って言った。「そういう連 中のやることはもっと血なまぐさくて乱雑です。ここまで手の込んだことはしません。牛河さん を殺した人物は、我々に向けてメッセージを残しているのです。自分たちのシステムは高度に洗 練されたものだし、手出しをするものがあれば的確に反撃がおこなわれる。これ以上この問題に 8
「けっこうです」と坊主頭は言った。 坊主頭が黙って指を一本上げると、ポニーティルが部屋を出ていった。しばらくあとで電話機 を持って戻ってきた。そのコードを床の差し込み口に接続し、受話器を小松に差し出した。坊主 頭は小松に、会社に電話をするようにと言った。 「ひどい風邪をひいたらしく、高熱がつづいてこの数日寝込んでいた。もうしばらくは出勤でき そうにない。それだけ伝えたら電話を切ってください」 小松は同僚を呼び出し、伝えるべきことを簡単に伝え、相手の質問には答えすに電話を切った。 坊主頭が肯くと、ポニーティルが床のコードを抜き、電話機を持って部屋を出て行った。坊主頭 は自分の両手の甲を点検するようにひとしきり眺めていた。それから小松に向かって言った。彼 の声には今では、微かではあるが親切心のようなものさえうかがえた。 「今日はここまでですーと坊主頭は言った。「続きはまた日を改めてお話しします。それまでの あいだ、今日お話ししたことについてよく考えておいて下さい」 そして二人は出ていった。それから十日間を、小松はその狭い部屋の中で無言のうちに過ごし た。一日に三度、いつものマスクをした若い男が、例によってうまくもない食事を運んできた。 四日目カらよ、。、、、 ノシャマの上下のような木綿の服が着替えとして与えられたが、シャワーは最後 まで浴びさせてはもらえなかった。便所についた小さな洗面台で顔を洗うくらいのことしかでき なかった。そして日にちの感覚はますます不確かになっていった。 たぶん山梨にある教団の本部に連れてこられたのだろうと小松は想像した。彼はテレビのニュ ースでそれを目にしたことがあった。深い山の中にある、高い塀で囲われた治外法権のような場 め 0
待ったのは五分ばかりだろう。福助頭はゆっくり立ち上かり、コートについたほこりを払い、 もう一度空を見上げてから思い定めたように滑り台のステップを降りる。そして公園を出て駅の 日曜日の夜の住宅街は 方に向けて歩き出す。その男のあとをつけるのはさしてむすかしくない。 人影がまばらで、ある程度距離を置いても見失う心配はない。また相手は自分が誰かに監視され 、、ろを振り返ることなく、一定の ているかもしれないという疑いを微塵も抱いていないようた。謇 速度で歩を運んでいく。 人が考え事をしながら道を歩く速度だ。皮肉なものだと青豆は思う。追 跡者の死角は追跡されることなのだ。 福助頭が高円寺駅に向かっているのではないことがやがて判明する。青豆は部屋にあった東京 二十三区道路地図を使って、マンション近辺の地理を細かく頭に叩き込んでいた。緊急事態が起 こったときのために、どちらに向かえば何があるのか熟知しておく必要があったからだ。だから 福助頭が最初駅に向かう道を歩いていたが、途中で違う方向に折れたことがわかる。そしてまた 福助頭が近辺の地理に通じていないことにも気づく。その男は二度ばかり角で立ち止まり、自信 なさそうにあたりを見回し、電柱の住所表一小を確認する。彼はここではよそ者なのだ。 やがて福助頭の歩調がいくぶん速くなる。きっと見覚えのある地域に戻ってきたのだろうと青 豆は推測する。そのとおりだった。彼は区立小学校の前を通り過ぎ、広くない道路をしばらく進 むと、そこにある三階建ての古いアパートに入っていく。 男が玄関の中に消えるのを見届けてから、青豆は五分待つ。その男と入り口で鉢合わせするの はごめんだ。玄関にはコンクリートのひさしがついて、丸い電灯が戸口のあたりを黄色く照らし ている。アパ 1 トの看板や表札らしきものは、彼女の見る限りどこにもない。それは名を持たな 409 第 20 阜 ( の私の変豸見の・環として
所だ。逃げ出すことも、助けを求めることもます不可能だ。たとえ殺されても ( それがおそらく は「お互いにとってあまり愉央とは言いがたい選択肢」という発言の意味なのだろう ) 、死体は 発見されないままに終わるはすだ。小松にとって、そこまで死が現実性を持って近接してきたの は、生まれて初めてのことだった。 会社に電話を入れさせられてから十日目に ( おそらく十日、しかし確信はない ) 、ようやく例 の二人組が姿を見せた。坊主頭はこの前会ったときよりいくぶん痩せたらしく、そのせいで頬骨 が余計に目立った。どこまでも冷ややかだった目は、今では血走って見えた。彼は前と同じよう に持参したパイプ椅子に腰を下ろし、テープルをはさんで小松と向かいあった。長いあいだ坊主 頭はロをきかなかった。その赤い目でただまっすぐ小松を眺めていた。 ポニーティルの外見には変わりはなかった。彼は前と同じように背筋を伸ばしてドアの前に立 ち、表情を欠いた目で空中の架空の一点をじっと見つめていた。二人ともやはり黒いズボンに白 シャツを着ていた。おそらくそれか制服のようなものなのだろう 「この前の話の続きをしましよう」とようやく坊主頭が口を開いた。「我々はあなたをここでど のようにも取り扱えるはすだという話でしたね」 小松は肯いた。「その中には、お互いにとってあまり央とは言いがたい選択肢も含まれてい る 「さすがに記憶力がいいー と坊主頭は言った。「そのとおりです。愉央ではない結末もいちおう 視野に入ってくる」 小松は黙っていた。坊主頭は続けた。 3 5 1 第阜 ( 天Ⅲ針で刺したら赤い血が出てくるところ
にということだがーーー一一人組の男がやってきた。こいつらが俺を誘拐した二人組だろうと俺は思 った。襲われたときは急なことだし、俺も何がなんだかわからなかったから、相手の顔まではよ く見なかった。でもその二人を見ていると、そのときのことが少しずつ思い出されてきた。車の 中に引きずり込まれて、ちぎれるんじゃないかと思うくらい強く腕をねじり上げられて、薬品を 浸ませた布を鼻と口にあてられた。そのあいだ二人は終始無一言だった。あっという間の出来事だ った」 小松はそのときのことを思い出して顔を軽くしかめた。 「一人は背があまり高くなく、がっしりとした体格で頭を丸刈りにしていた。よく日焼けして頬 骨が張っていた。もう一人は背が高く、手脚が長く、頬がそげて、髪を後ろで東ねていた。並べ あごひげ て見るとまるで漫才のコンビみたいだったね。ひょろっと細長いのと、ずんぐりして顎鬚をのば しているのと。でも一見して、かなり危ないやつらだと想像がついた。必要とあらば躊躇なく何 だってやるタイプだ。しかしこれ見よがしなところはない。物腰そのものは穏やかだ。だから余 計におっかないんだ。目がひどく冷たい印象を与えた。どちらも黒い綿のズボンに白い半袖のシ ャッというかっこうだった。二人ともたぶん二十代半ばから後半、坊主頭の方が少し年上に見え た。どちらも腕時計をつけていなかった」 天吾は黙って話の続きを待った。 「話をしたのは坊主頭だった。痩せたポニーティルの方はひとこともしゃべらす、身動きひとっ せす、背筋をまっすぐのばしてドアの前に立っていた。坊主頭と俺との間で交わされる会話に耳 を澄ませているようだったが、あるいは何も聴いていなかったのかもしれない。坊主頭は持参し 346
らしい」 天吾の父親がの集金人をしていたことをもちろん青豆は記億している。日曜日に天吾は 父親と一緒に集金ル 1 トを回っていた。市川市内の路上で何度か顔を合わせたことがある。父親 の顔はよく思い出せない。痩せた小柄な男で、集金人の制服を着ていた。そして天吾にはまった く似ていなかった。 、に行っていいのかしら ? 」 「もう福助頭がいないのなら、私は天吾くんに会し 「それはよした方がいい」とタマルは即座に言う。「福助頭はうまく説得された。しかし実を言 うと、俺は用件をひとっ片付けてもらうために教団に連絡を入れなくてはならなかった。できる ことなら法務関係者の手には渡したくない品物がひとつあった。もしそれが見つかれば、アパ トの住人はしらみつぶしに調べ上げられるだろう。君の友人も巻き添えをくうことになるかもし れない。そして俺一人でそいつを始末するのはかなり骨だった。真夜中に一人でえっちらおっち ら品物を運んでいるところを法務関係者に職務質問でもされたら、いくらなんでも言い抜けられ ない教団には人手も機動力もあるし、その手の作業には手慣れている。ホテル・オークラから 別の品物を運び出したときのようにな。言いたいことはわかるな ? 青豆はタマルの使った用語を、頭の中で現実的な言葉に翻訳する。「説得はすいぶん荒つほい かたちをとったみたいね」 タマルは小さくうなる。「気の毒だが、その男はあまりに多くを知りすぎていた」 青豆は言う。「福助頭があのアパートで何をしていたか、教団は承知しているの ? これまでのところ単独行動をとっていた。自分が今ど 「福助頭は教団のために働いてはいたが、 ( は ) とてもロマンチックた う 19 第 26 阜
坊主頭はしばらく沈黙した。どう答えればいいのか考えをまとめているのだ。それから心を決 めたように口を開いた。「いいでしよう。戎野氏を納得させるためにも、事実を明確にしておい た方がいいかもしれない。実を一言えば、深田保さんこそが教団のリーダーであり〈声を聴くも の〉でした。娘の深田絵里子が『空気さなぎ』を発表し、声は彼に語りかけるのをやめ、そのと き深田さんは自らの存在を終息させたのです。それは自然死でした。より正確に言えば、彼は自 らの存在を自然に終息させたのですー 「深田絵里子はリーダーの娘だった」と小松はつぶやくように言った。 坊主頭は短く簡潔に肯いた。 「そして深田絵里子が結果的に父親を死に追い込んだ」と小松は続けた。 坊主頭はもう一度肯いた。「そのとおりです 「しかし教団は今でも存続している」 「教団は存続しています」と坊主頭は答え、氷河の奥に閉じこめられた古代の小石のような目で じっと小松を見つめた。「小松さん、『空気さなぎ』の出版は教団に少なからざる災害をもたらし ました。しかし彼らはそのことであなた方を罰しようとは考えていません。今さら罰したところ で得るところはないからです。彼らには達成すべき使命があり、そのためには静かな孤立が必要 とされます」 「だからそれぞれにあとすさりして、今回の一件は忘れてしまおうと」 「簡単に言えば」 「それを伝えるために、あなた方はわざわざ私を誘拐しなくてはならなかった ? め 8
我々には通用しない。お互いに時間の無駄です」 小松は黙って肯いた。 「もしそうなったら、あなたはもちろん会社を辞めなくてはならないし、それだけではなく、こ の業界から放逐されます。あなたが潜り込める余地はどこにもなくなります。少なくとも表向き 「おそらく」と小松は認めた。 「しかし今のところ、この事実を知っている人間の数は限られています」と坊主頭は言った。 「あなたと深田絵里子と戎野さんと、改稿を担当した川奈天吾さん。そのほかには数人だけです」 小松は言葉を選んで言った。「仮説に沿って言えば、あなたの言、つ『数人』とは教団『さきが け』の人々ということになりますね」 坊主頭はほんの少し肯いた。「仮説に沿えばそうなるでしよう。事実がどうであれ」 こ受み込むのを待った。それから再び話を続けた。 坊主頭は間をとって、その前提が小松の頭 ! 、 「そしてもしその仮説が正しければ、彼らはあなたをここでどのようにも取り扱えるはすです。 ひんきやく あなたを賓客として好きなだけいつまでもこの部屋に留め置くこともできます。大した手間では ありません。あるいは時間をもっと切り詰めたければ、それ以外の選択肢もいくつか考えられる でしよう。その中には、お互いにとってあまり銜央とは言いがたい選択肢も含まれていることで しよう。いずれにせよ彼らはそれだけの力と手段を持っています。そこまではおおむね理解して いただけますね 「理解できていると思いますーと小松は答えた。 349 第格 ( 天 ) 針で刺したら赤い血が出てくるところ
幸な事態』が生じることを予期していたのでしようか ? 」 坊主頭は首を振った。「いや、戎野さんはそこまでは知らないはすだ。深田絵里子が何を意図 したのかは不明です。しかしそれは意図的な行為ではなかっただろう、というのが推測です。も しそこに仮に意図があったとしても、それは彼女の意図ではなかったはすです」 「世間の人々は『空気さなぎ』を単なるファンタジー小説だと見なしています」と小松は言った。 「女子高校生が書いた罪のない幻想的な物語だと。実際のところ、物語が非現実的に過ぎるとい う批判も少なからず寄せられました。何かしらの大事な秘密が、あるいは具体的な情報がその中 で暴露されているかもしれないなんて、誰も考えちゃいません」 「おっしやるとおりでしよう」と坊主頭は言った。「世間のほとんどの人はそんなことにまった く気がっかないしかしそういうことが問題になっているのではない。その秘密はどんな形であ れ公にされてはならないものだったのですー ポニーティルは相変わらすドアの前に立って正面の壁を睨み、その向こう側の、ほかの誰にも 見ることのできない風景を眺望していた。 「彼らが求めているのは、声を取り戻すことです」と坊主頭は言葉を選んで言った。「水脈は枯 渇したわけではありません。ただ目に見えないところに深く潜ってしまったのです。それをもう 一度復活させるのはきわめて困難だが、できないことではない 坊主頭は小松の目を深くのぞき込んだ。彳 ( 皮よそこにある何かの奥行きを測っているみたいに見 えた。部屋のある空間に特定の家具が収まるかどうか目測している人のように。 「先刻も申し上げたように、あなた方は地雷原の真ん中に紛れ込んでしまった。前にも進めない 354