ことはないと思いました も戦争をしていし 、、、ヒ学兵器を持 しかしアメリカは、イラクが核兵器開発を進めているのではなしカイ っているに違 いないとして、イラクを「世界の脅威」と断じ攻撃を開始した。 僕は、小さい力ながら必死で開戦に反対しました。けれど、その願いは届かなかっ 絶対に反対していた戦争ですが、現実に戦争になってしまった以上、僕は医師とし てせめてこの戦争で傷ついたイラクの子どもを助けようと思った。 ー Zz-2+ の代表になってほしいという仲間の声に応えることにしました。 イラクに行く以上は、万が一、事故や拉致にあった時には、病院に迷惑をかけてし まう。それは避けたいと思って、病院を退職しました。僕なりの自己責任と覚悟でし た。そして白血病の子どもたちの支援を始めました。 当時のイラクはテロが多く、安心して国内に人ることはできませんでした。けっし てムリはしません。イラクの小児がんや小児白血病の専門のドクターたちを 4 つの病 院から 2 人ほど集め、ヨルダンのアンマンまで来てもらい、カンファレンスをおこな うことになったのです。僕にとっては初めての中東地域訪間でした。 その時に日本大使館から通訳として紹介してもらったのがシーフアさんでした。ア 29 第 I 章「イスラム国」が僕たちに与えた衝撃
日本チェルノブイリ連帯基金 ( ) が、リカア先生とお母さんの国外脱出にカ を貸すことになりました。ふたりは着の身着のままで逃げてきました。指輪を差し出 すよう言われた彼女の知人は、なかなか指輪が抜けす「イスラム国」の兵士に指ごと 切断されたといし 、ます。リカア先生が逃げようとした時、人ほどのモスルの 人々が殺され、川に投げ込まれ、川は血の海だったと聞いたそうです。 恐ろしい経験をしながらも、今もリカア先生は困っている人たちを助けようとして います。 2 0 0 3 年にアメリカかイラク攻皸手を開始した時、クウェートか、らイラクに入り 込みました。 イラク戦争はあっけないほど簡単にアメリカの勝利で終わったはすなのに、その後 イラクはかえって治安が悪くなり、経済も医療も教育も、崩壊したままです。湾岸戦 争以前のイラクの医療はアラブ世界で最も先進的で、近隣諸国からも治療のためにイ ラクに患者が集まってくるほどだったのです。けれど湾岸戦争後の経済制裁で医薬品 さえも手に入らなくなり、医療は崩壊してしまった。 イラク戦争後 ( よよくなるどころかもっと亜くなった。そこに手のつけられない過激 派が入り込んで、「イスラム国」の支配地域が拡大した。 に 8
独裁の恐怖政治を敷いていました。 イラクは国民の 7 割がシーア派、 3 割がスンニ派。その 3 割のスンニ派で、サダ ム・フセインは国をコントロールしていたのです また宗派の違いとは別に、 イラク国内には最大民族であるクルド人が、イラクの北 側に万近くいるといわれており、彼らは、いっか自分たちの国を独立させた いという野望を持っている。イラクは宗派と民族というふたつの大きな火種になり得 る問題を抱えていました。 結局フセイン政権はアメリカによって崩壊しますが、その混乱の中、アフガニスタ これが何回も組織の分散や合併を繰り ンを追われたアルカイダの残党が紛れ込んだ。 返しながら、やがて「イスラム国」ができていったと考えられています。 アメリカが引き起こしたイラク戦争が「イスラム国」の成立の大きな要因のひとっ ともなったのです。 彼らの残虐な行為が「重要な戦略」になっていったのは、イラク戦争以降でした。 人質の首を斬って処刑し、その動画をネット上で公表するという手法は「イスラム 国」の前身組織のリーダーだったザルカウイが始めたものです。「イスラム国」はザル カウイの手法を踏襲し、斬首による人質の処刑はその後次々と公開されました。
「鎌田先生、大丈夫ですか。私たちイラク人は、日本人がしてくれたご恩を忘れませ ん。日本の奇跡的な復興を祈っています」 そして、彼なりに小さな寄付金を集め、東北にやって来ました。彼は 2 年前に後藤 健二さんからもらった友情をすっと忘れていないのだと思います。 だからこそ、今こそなんとか後藤さんの命を守る力になりたいという思いで、僕た ちにメッセージを送ってくれたのです。 ——ー Z [-" のスタッフが、ヨルダンにいなかった時に、後藤さんと一緒にイプ ラヒムさんを助けてくれた人がもうひとりいます それはヨルダン人のシーフアさんという女性でした。僕が彼女に会ったのは、イプ ラヒムさんの奥さんがヨルダンのがんセンターに人院する半年ほど前のことです。 イラク戦争に反対した以上、僕にはやるべきことがある 僕は今まで、すべての戦争に反対してきました。ロ年前にイラク戦争が始まる前も、 どんな理由があろうとも戦争をしていし と反対しました。 フセイン大統領が年間、どんなに悪辣、非道なことをしていたとしても、それで
ノ・、フ一フヒム内」 / ルは年ほÄ笠則か、らー . »-« ー Z のスタッフですが、もともとはイ ラクの学校の先生でした。 その当時イプラヒムさんの奧さんが妊娠し、病院に検診に行ったところ、白血病で あると診断されたのです。イスラム教徒は人工流産を嫌います。病気を治療しながら 授かった命を産もうと、夫婦は決意しました。妊娠 7 か月まで奥さんのお腹の中で赤 ちゃんを育て、早産で双子を出産しましたが、奥さんもふたりの赤ちゃんも無事でし 奥さんの白血病の治療が出産直後から始まりましたが、年 8 月当時の イラクはイラク戦争直後で、奥さんを治療できる医療施設はありませんでした。イプ ラヒムさんは奥さんを連れて戦火のイラクからヨルダンへ脱出し、アンマンの病院に 入院させて治療を始めたのです。 そのイプラヒムさんを支えたのが、— :--* ー Z=+ の佐藤事務局長でした。佐藤さ んが別の仕事で日本に帰らなくてはならなくなった時に、後を託したのが後藤さんだ った。後藤さんは優しくイプラヒムさんを支え、何度も何度も奥さんを見舞ってくれ ました。 しかし、残念ながらイプラヒムさんの奥さんは亡くなりました。それでも後藤さん
劣化ウラン弾とがんの因果関係を解明したい 援 支 事 僕たちは年からイラクの病気の子どもたちの支援を開始しました。 イラク戦争で「劣化ウラン弾」がたくさん落とされた地域に、白血病や小児がんが の 多、 しというデータを持って、南イラクのバスラという市の小児科医が日本へやって来 大 番 たことがきっかけです 章 ロ年前のイラク戦争で使われた劣化ウラン弾はごく微量の線を放出します。僕た 第 ちは劣化ウラン弾の低線量被曝によって遺伝子に異常をきたすのではないかと疑いを 現地で難民となっている子どもたちと家族がペイント、日本のユニフォームは福島の 子どもたちを中、いにしてペイントしました。 各国のサッカーユニフォームを着た「赤べこ」は「さかべこ」と名付けられて、彼ら の「熱戦」の様子を、スタッフが手間をかけて動画にしたりもしています。 小さなおもちゃが、子どもたちを元気づけ、笑顔にすることもあります。 福島と東京で開いた「赤べこ展示会」こよこ こ ( オくさんの人が来てくれて、支援が大き く広がりました。
イラク戦争が「イスラム国」を生む引き金となった 年、アメリカはフセインが統治するイラクに侵攻しました。 表向きは核保有疑惑、査察に対して非協力的なこと、「テロ支援国家」であるイラ クを民主化することなどが目的で、作戦名は「イラクの自由作戦」と名づけられました。 けれど背景として大きいのは、イラクの石油埋蔵量は世界の 5 本の指に人るという ことです。アメリカはイラクの石油をどうしても確保したかった。しかし、イラクに は— 9 7 9 年に大統領になってから年君臨したサダム・フセインという存在がい ました。彼が政権基盤とするバアス党はスンニ派が主流です。スンニ派はイラク国内 でもシーア派よりすっと少ないのですが、フセインは不思議なバランスの中で、一党 「アラビア半印のアルカイダ」 は、フランスでの新聞社襲撃をコントロールしたので ( なし力といわれています アルカイダはひとつのプランドになったのです。アルカイダの冠をつけることで、 イスラム厳格派や原理主義者の支援やお金が集まりやすくなっているといわれている のです。 79 第 3 章「イスラム国」はどこへ行くのか
報員たちがいたことによって、今までの単なるテロリストの集団ではなくなりました。 国を統治して行政を運営する能力がある官僚が、彼らの組織に加わったからです。 アフガン戦争でゲリラを応援し、イラク戦争を起こし、シリア内戦で「イスラム 国」に武器が流れるのを見逃した。 、大きな失敗をしたのです。 アメリカは連続して 3 つのとり返しのつかなし 「超国家」という国家観 アサド政権は 3 つのスンニ派の部隊に追われ、東側から兵を引いて首都ダマスカス のある西側に自らの兵隊を集めました。 「イスラム国」はあまり血を流さすに、シリアの 3 分の—くらいの東側の地域を制圧 してしまいました。 また、この頃からヌスラ戦線から「イスラム国」に鞍替えする人たちも出てきまし た。もともと自由シリア軍は戦争に慣れた組織ではありません。欧米から最新鋭の兵 器を手に人れても「イスラム国」に売ることも多かったよ , つです。 「イスラム国」は手に人れた最新鋭兵器を使ってヌスラ戦線とも戦い始め、勝利をお
に向かわせているのだと思います。 僕は、人間の存在が生まれながらに「悪」だと思っているわけではありません。 「悪」と「善」の両方を常に持っているのが人間。 けれど「悪」に引きすられそうな自分の弱さを自覚し、それと戦えるのが人間であ る、と恬じてい 6 す。 ムスタファ君が教えてくれた「許す」ということ けれど、どんなにひどい目にあっても、人の心は壊れす、成長できることもまた事 実なのです。 年Ⅱ月中旬、ひとりのイラク人青年を日本に招待しました。ムスタフア・ イマッド君歳。バグダッド出身です。 ムスタファ君は 8 歳の時にイラク戦争を経験しました。その際アメリカ軍のヘリコ プター攻撃によって足に大怪我を負いました。手術はに時間におよび、今も彼の足に はほとんど筋肉がありません。戦争は残酷です。どんなに注意しても、子どもを傷つ けたり殺してしまうことがあるのです。彼は 2 年以上、足を治すため長期のリハビリ 107 第 4 章なぜ君は「イスラム国」に参加するのか
6 , ん〔かし「 ) 第 - 章「イスラム国」が僕たちに与えた衝撃 日本とイスラムの関係はあたたかいものだった 後藤さんの願いと覚悟を想像する塚 と、う言葉は自分に向けるべき言葉だ 3 「自己責任」し 僕が万が一の時は、身代金は出さないで 「イスラム国」は日本とヨルダンに楔を打ち込もうとした ィ一フクか、ら届いた「愛」のメッセージち 優しすぎるイラク、ヨルダンの友人たち イラク戦争に反対した以上、僕にはやるべきことがある 一度もない イスラム諸国で嫌な思いをしたことなど 「あなたに親切にさせてほしい」という素敵な一言葉 目次