ノ・、フ一フヒム内」 / ルは年ほÄ笠則か、らー . »-« ー Z のスタッフですが、もともとはイ ラクの学校の先生でした。 その当時イプラヒムさんの奧さんが妊娠し、病院に検診に行ったところ、白血病で あると診断されたのです。イスラム教徒は人工流産を嫌います。病気を治療しながら 授かった命を産もうと、夫婦は決意しました。妊娠 7 か月まで奥さんのお腹の中で赤 ちゃんを育て、早産で双子を出産しましたが、奥さんもふたりの赤ちゃんも無事でし 奥さんの白血病の治療が出産直後から始まりましたが、年 8 月当時の イラクはイラク戦争直後で、奥さんを治療できる医療施設はありませんでした。イプ ラヒムさんは奥さんを連れて戦火のイラクからヨルダンへ脱出し、アンマンの病院に 入院させて治療を始めたのです。 そのイプラヒムさんを支えたのが、— :--* ー Z=+ の佐藤事務局長でした。佐藤さ んが別の仕事で日本に帰らなくてはならなくなった時に、後を託したのが後藤さんだ った。後藤さんは優しくイプラヒムさんを支え、何度も何度も奥さんを見舞ってくれ ました。 しかし、残念ながらイプラヒムさんの奥さんは亡くなりました。それでも後藤さん
そうしたシンプルな管理で救命率が一気に上がることを、日本のいくつもの病院の データを見せながら説明し、アラビア語やクルド語で書いた感染対策マニュアルをつ くって普及させました。 イラクの 4 つの病院からも専門の看護師を集め、何度も合同レクチャーをおこない 土小ーレた′ 1 小ノ 言大学病院や諏訪中央病院に、イラクから何度も研修に呼びました。 した地道な努力の積み重ねによって、白血病の治療成績が上がってきたのです。 ナナカリ病院には、子どもたちが飛び回って遊べるディルームもっくりました。治 療には、薬だけではなく、精神的なサポートも必要だからです。 病気の子どもたちの精神的な安定を図るために、 ハスラの病院ではイラクで初めて の院内学級を始めました。さらに、院内学級の先生には、 割も担ってもらっています。彼らが自分の裁量で一定のお金も使えるよ , つにしました。 ——>-Zæ+ の支援で白血病の治療を受けて退院した子どもの中には、それつき り通院しなくなってしまうケースがしばしばありました。実際には通院のためのバス 代がなく、通うことができなかったのです。こうした家庭を院内学級の先生が訪問し、 事情を聴き、通院のための費用をサポートすることも始めました。 149 第 5 章一番大切なのは非軍事支援
歓喜の声が聞かれました。薬剤師さんや看護師さんたちが、拍手をしています。保 冷剤に使ったオクラは、解凍して難民キャンプで食べてもらいました。 支援は継続することが大事 北イラク、アルビルのナナカリ病院でも長い間支援を続けてきましたが、今回も足 りない薬のリストを受け、それを提供しました。 薬局に行くと、「ー Zæ+ 」と書かれた棚があり、国から支給された薬とは違 , っことを明確にしてありました。ナナカリ病院のドクターたちは、「私たちは、この 棚の薬を特別なものとして誇りに思っている」とまで言ってくれた この病院ではかって—年間、日本の看護師を常駐させて白血病治療の成績を上げる ため、感染症対策をおこないました。 現地の病院スタッフは、最先端の高度治療を教えてもらいたがることが多いのです 実は白血病の治療を成功させるために大切なことは、非常にシンプル。手洗い 消毒、部屋の清掃といった基本的なことを厳重におこない、免疫力の下がった子ども たちに雑菌に触れさせないよう努力することが何よりも大切なのです。 148
冷凍オクラが抗がん剤を守った イラクの白血病の治療をしている 5 つの中心的な病院に支援をおこなう場合も、求 められる支援の内容は病院によっても違うことがわかりました。国から支給される医 薬品以外で必要なものはこれだ、とか、ある病院では特定の疾患が多いから別の薬が 必要だとか、別の病院では , ) うした設備がないからこういう薬が必要だ、といったき め細かいニーズに応える必要があるのです。 僕たちは、定期的に集まってカンファレンスをおこないながら治療成績を発表し合 りなくて困っている薬があれば、それを集中的に 、国から支給される薬以外に、足 支援するようにしました。 というもので 白血病の治療は、難しいです。抗がん剤を持っていけばそれでいし はありません。治療には、 5S6 種類の抗がん剤を使うことが多いのですが、このう ち一つでもなくなると、効果が半減してしま , つ。 薬が足りない場合、親は闇市場で外国製のものを探し出して手に入れるしかなくな ります。しかし、お金もなく、専門知識もない一般の人が適切で安全な抗がん剤を闇 市場で選ぶことなどできるでしようか。 146
にこたわったほ , つがよい 日本は「非軍事」 「イスラム国」にふたりの日本人が拘東され、殺害予告の動画が公開されたことが報 じられたのは、 2 — 5 年—月日のことでしたが、その 3 週間ほど則、 僕は北イ ラクで、「イスラム国」から逃げてきた人たちの医療支援をおこなっていました。 北イラクのアルビルには、砂漠の中、近くのキャンプができていた 1 — Zæ+ では、 2 年間で 4 億円の資金を集め、病院や診療所に薬を送る支援を続けてい ますが、今回は僕が直接病院や診療所に薬を届けました。イラクの 5 つの病院へ薬を 届けてきました。 「イスラム国」に制圧されたバスラにも、今から 5 年ほど前まで医薬品などを届けて いたのです。しかし、スンニ派の過激派集団がバスラに人り込み、イスラム教スンニ 派以外を脅かし始めるようになりました。 さらにバスラ近郊に住むヤジディー教徒たちには大変な圧力をかけ、「イスラム 国」がその地を制圧してから、ヤジディー教徒の女性たちは奴隷市場で売られたとい います。 「イスラム国的なモノ」の存在が、これからもすっと長く続くと考えた時、日本は常 122
「人とたたかわない」 この考え方を僕が自分の心の中で確立したのも、非戦の強い意志があるからです。 だから、僕は非軍事にこだわり続けます。 僕が人道支援にこだわる理由 僕たちといっしょに医療支援に関わるイラク人のリカア先生も「イスラム国」に迫 害され、命を脅かされたひとりです。 リカア先生はキリスト教徒です。もともとはイラクのモスルの小児病院で血液腫瘍 援 学の部長をしていた医師ですが「イスラム国」に家を奪われカルクーシュの病院に移事 ることになった。カルクーシュに移ってからも、キリスト教徒という理由でさらに迫 の 切 害が続きました。 大 番 「イスラム教に改宗するか、母親とふたり分の人頭税をはらうか、切られて死ぬか、 章 3 つのうちの一つを選べ」と言われた。人頭税は彼女の給料の約 % だった。リカア 第 先生は、もはやイラクを脱出するしかないと考えました。
ことはないと思いました も戦争をしていし 、、、ヒ学兵器を持 しかしアメリカは、イラクが核兵器開発を進めているのではなしカイ っているに違 いないとして、イラクを「世界の脅威」と断じ攻撃を開始した。 僕は、小さい力ながら必死で開戦に反対しました。けれど、その願いは届かなかっ 絶対に反対していた戦争ですが、現実に戦争になってしまった以上、僕は医師とし てせめてこの戦争で傷ついたイラクの子どもを助けようと思った。 ー Zz-2+ の代表になってほしいという仲間の声に応えることにしました。 イラクに行く以上は、万が一、事故や拉致にあった時には、病院に迷惑をかけてし まう。それは避けたいと思って、病院を退職しました。僕なりの自己責任と覚悟でし た。そして白血病の子どもたちの支援を始めました。 当時のイラクはテロが多く、安心して国内に人ることはできませんでした。けっし てムリはしません。イラクの小児がんや小児白血病の専門のドクターたちを 4 つの病 院から 2 人ほど集め、ヨルダンのアンマンまで来てもらい、カンファレンスをおこな うことになったのです。僕にとっては初めての中東地域訪間でした。 その時に日本大使館から通訳として紹介してもらったのがシーフアさんでした。ア 29 第 I 章「イスラム国」が僕たちに与えた衝撃
で、お母さんたちは、だれかが助けてくれる、手を差し伸べてくれる人がいる、と感 じてうれしかったのでしよう。妊産婦教室は明るく、笑いがあふれていました。それ から、多い月では、万例の出産がおこなわれるようになりました。 手を差し伸べれば笑顔が戻ってくるのです。 ——ー Z お金を出してイラクの病院での出産 リスクのある出産の場合は、 もおこなえるようにしました。こうして医療が充実してくると、難民キャンプの空気 が落ち着いてくるのです。 日本政府がこの運動に金銭的支援をしてくれました。 —年前からはイラクの看護師さんも雇って、継続的に母子の検診をおこなえるよう にしました。診療所にはエコーの機械も買い、お腹の赤ちゃんの生育もきちんと診ら れるよ , つなフォロー体制を整えました。 こうした積み重ねがほんとうの人道支援だと思います。
が起きても支援ができることなどを話すと、お母さんは安心してくれたようです。 彼女は妊娠 4 か月の時に、「イスラム国」の脅威から逃れるため、シリアを脱出し てきました 「不安だったけれど、このキャンプでは日本人がやとってくれた看護師さんに定期的 に診てもらうことができました。日本の ZQD 〇のおかげで、病院の診察が必要なと きは医療費の支援をしてもらえると噂を聞きました。とてもありがたいです」 子どもが生まれてどんなことを考えたかと聞きました。 「初めての子どもなのでとても不安でしたが、無事に生まれて安心しました。この子 は私のすべての希望です」 お母さんはニコニコしながら話してくれました。 「祖国から逃れてきました。家も『イスラム国』に奪われました。も , っ帰るところが ないかもしれません。この子がすべての希望です」 「この子に将来どんな風に成長してほしいと思ってる ) ・」と聞くと、お母さんはニコ ニコしなが、ら、 「この子に勉強のチャンスを与え、できたら医者になってもらいたいたくさんの人 を助けられる人間になってもらいたいと思います」 136
『イスラム国』に連れていかれてしまった。ロ、こ 人しオ家族のうち 6 人が連れ去られて しまった」と一一口います。 6 人の子どもたちだけで暮らしている。兄のひとりはペシュメルガというクルド人 自治区の治安部隊に入り、「イスラム国」とたたかっているのだそうです。 家族を殺され、家を奪われ、ふるさとを破壊された多くの人たちが暮らすのが難民 キャンプという場所です。 けれど環境が劣悪で人々の心が疲弊した難民キャンプに、 小さな診療所ができた時、 人々の心にはほんの小さな「安心」の灯りがともります 設備がどんなに貧弱でも、まだ医薬品もじゅうぶんではなくとも、それでも「病院 ができた」「お医者さんの看護師さんが来てくれた」というのは、人々にとって安心 につながります。 聴診器をあてただけで病気は治りません。 それでも、「聴診器をあててもらえた」「診てもらえた」という安心感が、難民キャ ンプの人の小さい月さい希望につながるのではないかと思います。 リ 4