わかり合えてしまえば、大概の考えの違いはお互いに認め合うことができるのです。 心の底でますわかり合うこと。 これが大事なのだと思います。 祐 1 第 6 章聴診器でテロとたたかう
う気持ちがあるのでしよう。未来の子どもたちのために日本をこんなふうにしたく ありません。 自分や自分たちや自分の国を自衛するためには、 どうしても武器が必要という考え はよくわかります。僕だって、もちろん納得しています。 武器をつくらない、武器を売らない。 これが鉄則にされれば過激派は布くなくなり ます。「絵に描いた餅」であることはよくわかっている。今すぐにこの地球上から武 器、、 がなくなるとは、もちろん思っていません でも、未来に向けて、武器をつくらない、武器を売らない、武器を移動させない、 そしてやがていっかこの世界から戦う武器をなくさなくてはならないという強い気持 ちを、すべての人が新たに持っことこそが一番必要です。 武器さえなくなれば、宗教の違いも考え方の違いもバンバン言い合えばいいのです。 言い合って言い合って、時には殴り合えばいいのです。殴り合いながら、お互いがお 互いの痛みを感じ合えばいいのです。 巨大な武器があるから、人類というバカ者はとんでもなく悲惨な戦争を起こしてし ま , つのです。
社会が成熟すればするほど、「自己責任」なんていう言葉を使う人は少なくなると 思います。 一方で、「やつばり自己責任だから無理をして助ける必要はない」という意見があ ってもいいのです。好きではなくても、この一言葉がインターネット上に出てきても、 あるていどは仕方のないことだと思います。民主主義はロを封じてはいけないのです。 おそらく後藤さん自身も覚悟していたことだと思う。けれど、彼は自分自身の責任、 という正しい意味での「自己責任」の考えを持っていたと思います。 僕が万が一の時は、身代金は出さないで では、「自己責任」のもとに行動した人が命の危機に瀕した時に国家は放っておけ 、はしよいのにか それはまったく違います。国家は自国民を守る義務があります。そ れがジャーナリストだろうが、ビジネスマンだろうが同じことです。今回のようなケ ースでも、できるだけのことはするべき。それは国家として当然ですが、僕はやはり こうした場合に「身代金」は払わなくてもよいと考えています。 基本的には、 こうしたことは、ケースパイケースです
校か診療所のどちらかです。 戦争終結後であっても、その傷跡が大きく、まだ一部の勢力の抵抗が続いているよ うな地域であっても、医療施設は、どちらの勢力にとってもわりあいに早い段階で不 可侵の地域になります。 お互いが攻撃しないという暗黙の約束の場所ができることが、最悪の事態をギリギ リのところで防ぐための第一歩になります。 医療施設ができると、病人や怪我人だけではなくて、まだ戦おうとしている人たち の心の中も少しだけ変化します。考えの振れ幅が少し小さくなり、極端な行動が少し 減る。医療施設にはこんな役割もあるのです。 安倍首相が言う「積極的平和主義」とはだいぶ違う考え方かもしれないけれど、ま す医療支援を最初におこなう , ) とで、傷ついた心や憎しみが少し緩和されることがあ るのです。この少しの積み重ねこそが実はほんとうこ こ大切なのです。 疲弊しきった心に医療が小さい灯りをともす アルビルの建設中のビルにつくられた難民キャンプに、今後の支援方法についてヒ リ 0
あたたかな口 部分に矢を打ち込みたい、 心を揺さぶりたい、 彼らの心をあたためたいと 思っています。だから 2 年間、イラクに通って、非軍事の医療支援を続けているのです。 戦場になった地域には色々な考えの人がいて難しい部族によっても宗派によって も考え方は大きく違います。けれど、そうした事実を受け止めながら、一方の敵にな ったり、 一方の味方になったりしないようにしています。支援の現場では政治的なも のからも宗教観からも中立でなくてはなりません。 イスラム教のスンニ派、シーア派はもちろん、迫害にあったキリスト教徒も、ヤジ ディ教徒も区別なく支援をしてきました。僕らが中立的に、平等に接することで、や がてお互いがお互いを心配し合えるようになると信じたいのです。 いっかは「イスラム国」に参加している若者たちとも理解し合える日が来たらいし なと考えています。 人種差別の芽が出始めています 僕は年に月日からヨルダンに入っていました。この年ほど続けてきた ヨルダンの都市難民の支援成果を見ることと、今後の医療支援に何が必要になるかを、 55 第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか
日本チェルノブイリ連帯基金 ( ) が、リカア先生とお母さんの国外脱出にカ を貸すことになりました。ふたりは着の身着のままで逃げてきました。指輪を差し出 すよう言われた彼女の知人は、なかなか指輪が抜けす「イスラム国」の兵士に指ごと 切断されたといし 、ます。リカア先生が逃げようとした時、人ほどのモスルの 人々が殺され、川に投げ込まれ、川は血の海だったと聞いたそうです。 恐ろしい経験をしながらも、今もリカア先生は困っている人たちを助けようとして います。 2 0 0 3 年にアメリカかイラク攻皸手を開始した時、クウェートか、らイラクに入り 込みました。 イラク戦争はあっけないほど簡単にアメリカの勝利で終わったはすなのに、その後 イラクはかえって治安が悪くなり、経済も医療も教育も、崩壊したままです。湾岸戦 争以前のイラクの医療はアラブ世界で最も先進的で、近隣諸国からも治療のためにイ ラクに患者が集まってくるほどだったのです。けれど湾岸戦争後の経済制裁で医薬品 さえも手に入らなくなり、医療は崩壊してしまった。 イラク戦争後 ( よよくなるどころかもっと亜くなった。そこに手のつけられない過激 派が入り込んで、「イスラム国」の支配地域が拡大した。 に 8