る「新自由主義」であってはならないと思います。 本当に深い意味での「自由」を追求する自分の自由と他者の自由を共に大事にする 「真・自由主義」でなければならないのです。成熟した自由主義を確立することによ って、自由主義とイスラム主義は手を携えられるのではないかと考えています。そう なった時、常に過激な暴力を伴う思想を持っ組織、グループは、生き延びることがで きなくなると思 , つのです。 真の意味で自分は自由であるか。 他者の自由を認めて生きているのか。 刃や暴力を向けるのではなく、 僕たち自身に問い直さなくてはいけないのではない でしょ , つか。 僕たちの世界がまっとうになった時、初めてイスラム社会もまた、資本 主義や自由主義や民主主義を真に理解しようとしてくれるのではないでしようか。 69 第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか
ここに大切なことがあります。西欧社会で「神が死んだ」と言い、資本主義を拡大 させていった時に、イスラムの世界では、ますます神の存在が大きくなっていったの です。 イスラムの神は死ななかったのです。 「儲けること」以外に統一した価値をつくり上げることができなかった資本主義世界 「神は偉大なり」のイスラム主義とのつばぜり合いが、今始まっているのです。 けれどまだ戦争をしているわけではありません。多くのまっとうなイスラム教徒た ちがどれほどあたたかくて優しいか、僕は年間自分の目で見て、肌で感じてきまし た必す僕たちは理解し合えると信じています。 イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒や仏教徒、その他たくさんの宗教や思想 を持っているすべての人がお互いに理解し合える時が必す来る。 一番大事なことは、まっとうなイスラム主義と、僕たちが生きている自由主義が信 頼し合うことです。そのためには、僕たちは僕たちの生き方を顧みる必要がありま す。 僕たちが生きている社会は「自由主義」を選択しました。けれどこれからは、その 自由主義は、単に競争を激化させて人を消耗させ、所得配分の不平等や格差を拡大す
だれの心の中にも獣はいる なことです。 僕たちは自由主義を選択しました。「自由」は何よりも大切 僕は爲歳の夏、父に「大学に行きたい」と泣きながらお願いをしました。 「バカ野郎貧乏人は働けばいいんだ」 と言われた瞬間、僕の心は切れました。僕はとっさに父の首に手をかけ、手に力を 入れました。泣きながら父の首を絞めたのです。人間は、自分の思い通りにならない とこんなことをしてしま , つのです 父は泣き出しました。 我に返りました。 父の涙を見た瞬間、ハッと と思いました。手が緩みました。床にへたり込んで、父としばらく泣いていました。 やがて父は言いました。 「自由に生きろ。それほど勉強したいのか。自由に生きていい」 僕は自分の「自由」を得るために、とんでもないことをしてしまいました。人間の 心の中には獣がいるということを、自らの行動からもよくわかっているつもりです 55 第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか
新自由主義ではなく「真・自由主義」が平和をつくる ニーチェは時代を変えるよ , つな一一一口葉を世界に放ちました。 「神は死んだ」 も、自分たちへの揶揄やユーモアを寛容さをもって受け止めることができる世界にな ってくれたらと願わすにいられないのです。 イスラムの教えを厳格に守ろうとする人も、過激化して暴走している人も、もう一 度、寛容さを大切にしてみる必要があります。 彼らだけでなく、 世界全体がもう一度、寛容の作法を身につける必要があると思っ ています。 キリスト教やユダヤ教の聖書も仏教の仏典も、人生とは何か、命とは何かについて 探求しょ , っとしています。 世界中のイスラム教徒が心のよりどころにしているコーランも、また同じです。人 間が生きるためにどうすればよいのか、他の宗教よりも、より具体的な回答を示そう としています。
世界は社会主義、共産主義よりも資本主義、自由主義を選びました。これしかなか ったのです。しかし資本主義とは競争の論理です。競争がある以上、資本主義と自由 しにつなか 主義は必す大なり小なりの格差を生む。この格差を、殺し合いや憎しみ合、 らない「ほどほど」のところに微調整する知恵を、世界は今こそ身につけなくてはな らないように思うのです 国内で、ほんのちょっと考え方や意見が違うといって、ヘイトスピーチや内ゲバみ たいなことをやっている場合ではないように思います。 ウイルスとの戦いも、テロとの戦いも、これは今まで世界が経験したことのないよ , つな戦いです。だからこそ、欧米も、ロシアも、もちろん日本も「これが正しい」と 確信できる戦略が立てられない。それぞれが「こうするべき」「いやそうではない」と 国家間でも意見が違い、もちろん国内でも意見が食い違う。その結果、何も生み出さ ない議論の空中戦が始まってしまうのです。 「正解」を見出すのは、決して容易なことではありません。 けれど、ただひとつはっきりしているのは、「暴力」で解決することはけっしてで きないということです 49 第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか
僕たちを疲れ 僕たちがつくってきた資本主義や新自由主義の経済のあり方などは、 させただけではなく、イスラム教徒たちの生きる目標、新しい価値も見えにくくした。 原点に徹底的に戻ろうとするほんの一部のイスラム原理主義の中で、過激派が生まれ てしまったのです。 それを認めるのが僕たちのつ 暴力を持たないかぎり原理主義が悪いわけではない くろうとしている真の自由主義社会です。 彼らの勢いを一時的に止めるために武力が使われることは、僕もいたしかたないこ とだと思っている。けれど、けっしてそれのみに頼らないことです。その武力は極力 小さく、極力短くあってほしい。非軍事の解決策こそが王道であるべきです。 戦い方を間違えれば禍根を残す。世界に「イスラム国」的な爆弾が散り、予想外の 大きなテロが世界中の町で起きる可能性があるのです。 絶対にテロを許さないという強い意志を持ちながら、違う宗教や文化や考え方に寛 宀谷にはることか 僕たちには大事なのです。 刀第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか
しかし「イスラム国」とはそもそも何者なのか組織なのか、主義なのか、宗派な のかその実体は僕たちにはなかなかわかりにく、。 「イスラム国」は「国」を名乗っているものの、国際的な理解での「国家」ではありま せん。僕たちの多くは彼らの行為を「拡大した過激派組織のテロ」と捉えています。 だから、彼らのグループを表記するときも「イスラム国」と「カッコ」をつけている。 誤解をまねきかねない「国」を使わす「」「」と表記して報道する場合も あります。日本政府は「」を使います。英語圏では「」の略称を使う 場合もある。 しかし、いすれにせよ、彼ら自身ははっきりと「国」として「戦争」をしている意識 を持っているはすです。彼らの理想とするカリフ制の「国」として戦っている。 資本主義・自由主義社会が信じている「国家」を超えた「超国家」、つまりカリフを 名乗ったバグダディのもとに政治と宗教が一体になった「理想の世界」を「国」と考え ているのです。 しかも実態として行政機構をつくり通貨の発行もおこなっています。その拡大のた めに「世界」と戦い、それは「聖戦」であり、欧米型の生活を捨て彼らを打倒するため に殉教すれば天国が待っている、閉塞感をもった若者を自分たちの「国」に誘い続け 117 第 4 章なぜ君は「イスラム国」に参加するのか
「イスラム国」の憎悪に憎悪でたたかいたくない カマタ流新戦争論ワ 第 2 章なぜ「イスラム国」は生まれてしまったのか 貧しさが世界を不安定にしてい テロとウイルスを生み出す要因は同じ 格差を最低限に抑えるための「知恵」が必要い 少しすつでも武器を減らしたい だれの心の中にも獣はいる 人種差別の芽が出始めています イスラム教徒への反感はさらに多くのテロリストを生む 「自由」と「秩序」について考えよう 世界は今、寛容さを問われている 新自由主義ではなく「真・自由主義」が平和をつくる イスラム世界が「イスラム国」をコントロールすべき
「イスラム国」の拡大もまた、貧困や格差が大きな要因のひとつです。仕事を見つけ られす、家族の生活も自らの生活も支えることができない若者たちが原理主義に吸い 寄せられ、その主義を受け人れてしまう。そこから新たな過激なグループが生まれて ノ、ること -,O のる 格差を最低限に抑えるための「知恵」が必要 グロー バル経済の台頭は資本主義の暴走も招くようになっています。経済が政治を 無力化し、動かしてしまうことさえめすらしくありません たとえば兵器産業。この業界は当然戦争があったほうが儲かります。しかも企業の 利益は国家の経済成長率に反映される。それが兵器の製造、輸出人であっても同じこ とです。企業は「自分たちが儲かればいし 」という論理をもって政府、政策を自分た ちの産業に有利な方向に誘導しようとします。そこでもちろん大きなお金が動いてい る。武器を売った儲けが政治家に流れ込む。結果として実現した政策が、戦争を誘発 することも起き衵忖る 世界中が気づき始めまし 行き過ぎた資本主義が人の命や生活を奪っていることに、
もちろん自分の行動に責任を持っことは当たり前のことです。自分が自由に生きて いきたいと思うからこそ責任を持っことが大切なのだと思っている。だから僕も「自 己責任」で行動しています。 イラクに人る時もそうです。イラクはシリアのような危険は少ないのですが、それ でも「万が一何かあった時に助けてもらえなくてもしかたない」と思っています。 もしも僕が拉致されて身代金を要求されたとしても、国連安保理で「テロリスト集 団に身代金は払わない」と決議したのだから、日本政府に僕の身代金を払ってもらう ことは期待していません。自己決定した結果がどんな結果になったとしても、自分で 自分の責任をとりたいのです。これは僕の覚悟なのです。 「自己責任」という言葉を他者につきつけることは下品だと思う。「自己責任」とは自 分に向けるための言葉で、他者を責めるために使うべき言葉ではないと思う。 僕たちは自由な民主主義社会の中で生きています。いろんな人の意見があっていい。 自己責任について議論することもあったほうがいし 、と思っています。 、僕は人を 責めるために使う言葉ではないと思います。自分自身の人生の様々な選択の時に、果 たして自分で自分に責任がとれるのか。それを考えることが大事 。だから「自己責任 という言葉は嫌い」と書いたのです。 21 第 1 章「イスラム国」が僕たちに与えた衝撃