だ」という概念はすべて偏見なのです。 0 まとめ : 世間の無常は間題だらけ 世間でも、無常は常識です。たまの事故、地滑り、地震、インフルエ ンザ、散るサクラ、知人の死。そういった特定の現象の変化に気づくた びに、世間の人は「無常ですね」「変わってしまいました」と 感想を述べているのです。つまり世間の無常は、主観、わがま ま、偏見で発見される変化なのです。 こうした世間の無常は、トラブルの種です。主観的な態度、わが ままな態度で世界に関わると、さまざまなトラブル、悩み、問題が生じ てしまうのです。喧嘩したり、殺しあったりすることにもなります。 あまとめ : 世間の無常はひどい「わがまま」 人間は変わります。人間の変化への対応も変わります。つまり人間 は頑固になったり優柔不断になったりするのです。 ある人が頑固か優柔不断かは、断言できるものではありません。まる で一貫していません。ある人が死ぬまで頑固、死ぬまで優柔不断という ことはあり得ないのです。 そのうえ、人の評価は、評価する側の都合、立場によっても 変わります。レッテルを貼る人の都合で頑固になったり、優柔不断に なったりするのです。佐藤さんが「頑固だ」と評する人を、鈴木さんが 「あてにならない。優柔不断だ」と評するかもしれません。 自分の期待通りに相手が変わらないと、「この人は頑固」だとレッテ ルを貼る。これは「自分の思うように変わってくれない」という不満で す。 変わってほしくないのに相手が次から次へ変わると、「あなたは優柔 世界は変わるが、自分は変わらない ? 92
0 人の話をまともに聞く必要はない 私は日本の大学院で道元を研究しましたが、道元は若い頃と老年とで は、まったく違うことを書いています。同じ人間とは思えないほどです。 若い頃は、悪い意味で非常に前衛的です。書いたものを読んだら、 「この人は自分の言っていることがわかっているのだろうか ? 」と思う ほどわかりにくい。主語や単語の選び方、バランス、文字数といったフ ォーマットに力を入れた挙句に、意味不明になってしまっているのです。 ところが老いてからの文章は、とてもわかりやすい。ぜんぜん奇をて らっていません。言いたいことを淡々と書いているだけです。偉そうで 自己矛盾的な哲学ではなくて、ごく普通のことを語るのです。「人生は 苦しいものだ」「煩悩はよくない」とか「修行して頑張りましよう」と いうように。 人生論も世界論も、歳とともに変わっていきます。 だから世間の人の意見は、あまり気にしないほうがよいのです。歳 をとったというだけでコロッと意見を変える人の話を、なにも 本気で聞くことはないでしよう ? どうせ最後は頑固な態度で、保 守的で終わるのですから。 私は若い頃からいろんなことをビシビシと批判したのですが、そのた びに年上の長老たちから「あなたも歳をとると変わるでしよう」とそっ けなく言われたものです。私はロにこそ出しませんが「事実なのだから、 変わるわけがないでしよう」と思っていましたけれど。 しかし実際、若い頃には「初期仏教こそ真の仏説だ」と必死で研究し た学者でさえも、老後には阿弥陀信仰に陥ることがよくあるのです。増 谷文雄先生とか、褝の研究をした鈴木大拙先生とか、その他、噂による とかなりの数の仏教学者が、最後には「何か永遠なものはないのか ? 」 となってしまったのです。 世間の無常は健康と年齢しだい 86
品としても説得力がないのではないでしようか。 「生きているからには、必ず死ぬ」のです。現実に生きている 我々は、ここから一歩も動くべきではありません。想像をたくましくす るのは自由にできるのですが、害ばかりです。聖書を本気で読んた りなんかすると、人生を失敗します。事実、それで世界中ひどい ことになっているのですから、実証済みです。人を殺して、殺して、 殺して、それこそ聖書の世界を再現しているのです。ロクなこと はありません。妄想だとわかっている分、マンガ本のほうが、よほど害 が少ないのです。 0 「私」という固定された実体はない 世間一般は「私は変わらないが、世界は変わる」という態度ですが、 ブッダの世界はそうではありません。 世間一般とは逆に、仏教では、まず「私が変わる」というところ から無常を語ります。 「私」は瞬間、瞬間、変化しているのです。「私」は「絶えず変化 して変わっていく流れ」なのです。肉体も心も刻々と変わっている のです。これこそが現実です。抽象的な話では、まったくありません。 言葉を用いて「私」「私がいる」とは言えますが、それはあくまで都 合がいいからです。現実には「これが私です」と指差せるような 固定された実体はありません。 「私」「魂」といった単語があるからといって、それらの単語に実体が あるわけではありません。呼吸によって自分が変わる、見ることに よって自分が変わる、いる場所によって自分が変わる、時間によって自 分が変わるのです。私が歳をとっていくスピードは、 1 秒でも止まらな いのです。ご飯を食べたら、もう変わっているのです。 釈尊の無常はすごい智慧 98
第 4 章 無常の世界の予測術 あらゆる現象は一時的で、安定する位置などありません。 心は、変わっても、変わっても、そのときの一時的な認識という現象 なので、安定しません。 宇宙の物質も、変わった状態が不安定なので、さらに変わるのです。 「宇宙が膨張してつぶれたら、それで終わり」ということは、あり得 ません。いずれ収縮が始まるのです。 誰しも、世界が無常であることは、知識としては知っています。 しかし心はそれ自体が不安定なので、無常を認められないの です。いつでも「自分の無常は嫌だ。死ぬのも殺されるのも嫌だ。苦し みは嫌だ」と怯えている。それで都合のいい「安住の地」を妄想 してしまうのです。 それはたとえばこんな具合です。 人生は旅のようなものだ。旅というからには、きっと帰るべき我が家 があるに違いない。いくら旅人とはいっても、安住の地がないのはあま りにかわいそうだ。人間には帰るべきところがきっとあるのだ。 これは妄想です。「いずれ人間は、あたかも旅人のようにしかるべき ところに帰る」などという計画は、あるとは実証できません。たんなる 頭の遊びです。 しかし実際に人間は、このようにして「安住の我が家がある」「帰る べき天国がある」と妄想するのです。 その妄想が宗教です。宗教は「無常の世界で我が家を探す妄相 考え方」なのです。しかもそれぞれが好きなように妄想するので、た くさんの宗教が出てくるのです。 では、世界の代表的な宗教を個別に分析していきましよう。 1 引 無常をめぐる諸宗教の失敗
頑として変わろうとしないのです。 このお姑さんにとっては、お嫁さんをいじめることが「生きがい」で す。それは、お嫁さんに「早く死んでくれませんか」と言われるような 生き方なのですが、たしかに本人も苦しんでいるのです。 0 「苦しみ」の寄せ集めが「人生」 よく考えてみてください。 「生きる」って何なのか ? 仕事すること、家事をすること、そんなものでしよう。洗濯、掃除、 買い物、料理、そんなものでしよう ? 給料が下がらないように働く、汚れた服を洗濯する、散らかった部屋 を片付ける、なくなった食べ物を買い足す。 すべて「変わらないようにする努力」「変えようとする努力」 なのです。 その寄せ集めが人生でしよう ? そのすべてに終わりがない。 延々と続くでしよう ? 料理を作っても、作っても、きりがない。終わ りがないのです。人間は、苦しく空しい努力を生き甲斐にしているので す。 これが仏教で「生きることは苦である」という理由です。「苦 (dukkha) 」は「空しい、不満、不安定、苦しい」を意味します。 変わらないようにするのは「苦」。 変えようとするのも「苦」。 これが人間にとって「生きる」ことなのです。 それなのに人間は、この生き方を「幸せの道」だと思っています。き ちんと見ると「苦」ばかりなのに、それを「楽だ」と錯覚している。 人間は「苦を経て、苦を得て、それを楽とする」。勘違い甚だし 悩むのは、馬鹿げている 22
世界は変わるが、自分は変わらない ? 0 「私は変わらない」という身勝手な前提 世間一般の人も、一応、現象が変わることを知っています。しかしそ れは「知識として」なのです。「変わるのでしよう ? 知っていますよ」 という感じなのです。それで時々気まぐれに外の世界の現象をとらえて、 悦に入ったり、感動したり、悲しんだり、はかなくなったりしているの です。認識の仕方はきわめていい加減で、身勝手です。まともな 観察はありません。世界を見る目は、著しく公平さを欠いています。 ただの偏見なのです。 どうして我々の観察は偏見になってしまうのでしようか ? きちんと 世界に向き合えないのでしようか ? 最大の失敗は、「自分の無常」を観察しないことにあるのです。 大きな駅では、電車が事故で 1 時間もストップすると大騒ぎになりま す。なぜなのでしようか。いつどこに何が起きても不思議はないでしょ う ? 自分に何が起きても不思議はないでしよう ? それなのに自分が 乗りたい電車が遅れるくらいのことで、なぜ大騒ぎするのでしようか ? すべてが無常だと知っている人は、平静なまま別の手段でさっさと移動 するか、本でも読んで待っているでしよう。 世界に向き合うときに人間が犯す最大の失敗は、自分自身を脇に置い て、外の世界の変化を発見することです。「自分が変わる」という ことは、気にも留めません。何の疑いもなく、「私はそのままで、 変わっていない」「私は無常ではない」と決めつけているのです。それ でひどく見方が偏ってしまうのです。 「あなたずいぶん歳をとったね」 「ウチの旦那はすっかりお爺さんになってしまった」 世界は変わるが、自分は変わらない ? 88
第 3 章 悟らなくても役に立つ いるのです。 普通の人間の認識能力では、壁の変化はアスパラガスほどわかりやす くはありません。それでも 50 年くらい経ったら、同じ壁ではないでしょ う。どこか劣化しているのです。それはあるとき突然の変化の結果では なく、この瞬間、この瞬間の変化の結果なのです。 話をしながら、私はどんどん変わっていきます。水分も失うし、喉も 乾く。エネルギーも使う。その声を聞く人は、私のエネルギーを受け取 って、また変わる。 このように、ありとあらゆる局面で、因果が連鎖しているので す。私も世界も無常なのです。私が知る世界は、絶えず変わっていくの です。変わり続けるから知ることができるのです。「永遠」ということ はあり得ません。それは明らかな妄想概念です。ただの単語です。実体 はありません。 0 あらゆる現象に価値はない 「これが私のもの」と言っている瞬間にも、その「これ」は変わって います。 「私です」と言って終わったところで、いるのは前の私ではなく「別 な私」なのです。「わ」と言った分だけエネルギーを使って、もう違う 存在です。「た」と言ったらまた別の人間。「し」と言ったらまた別の人 間です。 自分を、相手を理解するなら、そうした「変化の流れ」を理解するし かないのです。 したがって、「困ったり、悩んだり、執着したり、攻撃したり するのに値する現象」は、ありません。あらゆる現象に価値はあ りません。 101 釈尊の無常はすごい智慧
精神が健康→変化は平気 精神が弱い→変化を拒否・ 人の話は健康状態を加味して聞く・ 若いとき革新的→歳を取ると保守的 人の話をまともに聞く必要はない 弱いから永遠不滅を求める・ ・・ 83 ・・ 84 ・・ 84 ・・ 86 ・・ 87 第 4 節世界は変わるが、自分は変わらない ? 「私は変わらない」という身勝手な前提・ 死を悲しむのは格好が悪い 対照的に発見される無常は「邪見」 宗教も「変わらない何か」に拠って立つ・ まとめ : 世間の無常は問題だらけ・ まとめ : 世間の無常はひどい「わがまま」・ まとめ : 人の性格はいい加減・ ブッダの無常のどこがすごいのか ? 第 5 節釈尊の無常はすごい智慧 ・・ 89 ・・ 88 ・・ 90 ・・ 92 ・・ 92 ・・ 93 ・・ 93 生きているなら、必ず死ぬ・ 存在が無常です・ 聖書も無常を語っている ・・ 95 「私」という固定された実体はない 私は変わる。世界も変わる・ ・・ 95 ・・ 97 ・・ 99 ・・ 98
しているとでもいうのでしようか ? じつに失礼な態度です。相手を責 めて喧嘩するなんて、できないはすです。 私はときどき人をつかまえて「あなたすいぶん歳をとったね」とか言 ってみるのです。それで「そう言うあなたは、変わってないつもりです か ? 」と逆襲してきたら、頭がいい人です。話をしても面白い。逆に落 ち込んでしまうような人では、話をする気が失せてしまいます。 私の昔の知り合いはもうポロボロの老人だったりしますが、彼らに 「変わらないね」とでも言おうものなら、「何を馬鹿げたことを」という 感じです。刻々と変わっているのはよくわかっていますからね。 子供が自分を完全に無視するようになったと、私に相談する人がいま す。遅くなって家に帰ってきて、挨拶もせず自分の部屋に入るのだと。 しかしそういう本人は、変わっていないのでしようかね ? 子供が変わるように、親の自分も変わるのです。それなら昔と 同じようにいくわけがないでしよう ? 子供が口をきかなくなった のは、親の自分が変わったからでもあるのです。そういう変化なのです。 0 対照的に発見される無常は「邪見」 人間には比較対照する思考の癖があるのです。それで世間の人は、 「変わる」を発見するために「変わらない」を作ります。最たるものが 「変わらない自分」です。「変わらない自分が、変わる世界を観察 する」という構図です。 「前に住んでいたアパートは古かった」と言うとき、いまの家は新し いのです。 「あなたは変わった」と言うとき、自分は変わっていないのです。 仏教では変わらないものは何一つとしてありません。ですから変わっ てない自分を前提にして、外の世界の変化を発見するのは大失敗です。 世界は変わるが、自分は変わらない ? 90
仏教的な計画術 0 計画 = 原因と条件で「変わり方」を変えること 無常の世界で予測が成り立つように、計画もまた成り立ちます。きち んとした計画なら相応の結果が得られます。 それには感情ではなく、理性に基づいて、いまあるデータを客 観的に判断して、実行できる計画を立てることです。 この場合も、予測と同様に、時間を短く取る、範囲を小さくす るなどの条件は大事です。 たとえば「田舎で人口が減っている」という現象を解決するためには、 「田舎の人口を増やす」ではなくて「田舎に若者を呼び戻す」というよ うに目的を限定するのです。そうすると具体的に若者を連れてくる計画 も、やってきた若者を田舎につなぎとめておく計画も立てられます。 さらに時間も切るのです。「 50 年計画」では、無理です。「 5 年計画」 として「 1 年目の計画」「 2 年目の計画」という具合につめていくのが適 切でしよう。 「なりたい」、「やりたい」だけの計画は無意味です。単なる妄想で、 実効性はありません。実りません。 そもそも「計画」とは何でしようか ? ある現象は、ある原因によって、ある方向へ変わります。 例えば、川は下流に向かって流れます。その変わる方向を観察しただ けでは、何の役にも立ちません。しかし観察者が「この川の水を引いて 川魚を養殖できればいいのではないか」と考えて、川の流れを変えたと します。川の流れ、という現実は、変わっていませんが、流れる方向は 少々変わります。それではじめて、観察者の役に立つようになるのです。 仏教的な計画術 156