第 3 章 悟らなくても役に立つ それどころか、強引に変化を自分の都合のよいように変えようとする のです。盆栽を針金で縛るように。 仏教では、無常は全存在・全宇宙・全生命に対する真理です。 しかし世間の人々は、そうは考えません。 人間にとっての無常は「たまに起こる現象」でしかないので す。サクラが散った。地滑りで家がつぶれて人が流されてしまった。そ うした特定の現象を自分の都合でピックアップして、無常を語るのです。 世間の無常は単なる「わがまま」
だ」という概念はすべて偏見なのです。 0 まとめ : 世間の無常は間題だらけ 世間でも、無常は常識です。たまの事故、地滑り、地震、インフルエ ンザ、散るサクラ、知人の死。そういった特定の現象の変化に気づくた びに、世間の人は「無常ですね」「変わってしまいました」と 感想を述べているのです。つまり世間の無常は、主観、わがま ま、偏見で発見される変化なのです。 こうした世間の無常は、トラブルの種です。主観的な態度、わが ままな態度で世界に関わると、さまざまなトラブル、悩み、問題が生じ てしまうのです。喧嘩したり、殺しあったりすることにもなります。 あまとめ : 世間の無常はひどい「わがまま」 人間は変わります。人間の変化への対応も変わります。つまり人間 は頑固になったり優柔不断になったりするのです。 ある人が頑固か優柔不断かは、断言できるものではありません。まる で一貫していません。ある人が死ぬまで頑固、死ぬまで優柔不断という ことはあり得ないのです。 そのうえ、人の評価は、評価する側の都合、立場によっても 変わります。レッテルを貼る人の都合で頑固になったり、優柔不断に なったりするのです。佐藤さんが「頑固だ」と評する人を、鈴木さんが 「あてにならない。優柔不断だ」と評するかもしれません。 自分の期待通りに相手が変わらないと、「この人は頑固」だとレッテ ルを貼る。これは「自分の思うように変わってくれない」という不満で す。 変わってほしくないのに相手が次から次へ変わると、「あなたは優柔 世界は変わるが、自分は変わらない ? 92
第 2 章 それは「無常」ではありません 世間の次元を越えた真理、一般の人も学者も知らない真理です。 0 俗世間的真理は、生命によってバラバラ 俗世間的真理は、普通の生命が、それぞれの認識範囲の中で、 理解するものです。 人間はもちろん普通の生命です。人間はえらそうに自分達のことを特 別だと思っていますが、勘違いもいいところです。仏教では、動物も人 間も神々 ( 精神的なレベルの生命 ) も普通の生命です。この点では同じ です。 人間には、人間に見えるもの、聞こえるもの、味わえるものといった 「ここまでなら知っているぞ」という認識範囲があります。音な ら何でも聞こえるというわけではありません。人間には聞こえない音も あります。 ミズにはミミズの、ハヤ すべての生命に同じことがいえます。 ブサにはハヤブサの認識範囲があります。その認識範囲に入ってい れば、それがその生命にとっての真理です。それぞれが「これが正しい」 と思っています。 けれど自分にとって正しくても、ほかの生命には正しくありません。 私たちにとって東京は大都市で人間だらけですが、庭のミミズに「東 京は人が多くて大変だね」と話しかけても、「人間 ? そんなものいる の ? 」と言われるでしよう。 東京のカラスに同じ質問をしても、やつばりチンプンカンプンです。 カラスは「最近、ゴミが少なくて困る。人間はすごくケチだ」と思って いたりするでしよう。まるで我々とは話が合いません。見方が違います。 草はウシには美味しいものですが、人間には美味しくない。朝露に濡 れたフレッシュな牧草を勧められても、ちょっと困りますね。 43 俗世間的真理は役に立たない
第 2 章 それは「無常」ではありません ないのです。 むしろ昔は、子供が子供を殺すことも、子供が大人を殺すことも、大 人が子供を殺すことも滅多にありませんでした。いまは昔より悪くな っているのです。 いまも昔も人間は苦しんでいるのです。そこから抜け出したい、 向上したいのです。それで闇雲に知識に飛びつくのです。けれど知識 がいくらあっても、人間の心は清らかになりません。知識では 「真の向上」は得られないのです。 世間の知識のこうした問題点が、仏教には気になるのです。それは 仏教が、人間の根本的な改善を目指すプログラムだからです。 0 俗世間的真理には、悪い特色が目立つ 知識のあるなしにかかわらず、立派な人間として生きること は可能です。 とくに勉強をしていなくても、立派な人はたくさんいます。品格が高 くて、謙虚で、自分のことは自分でする。人に迷惑をかけない。単純で 人の役に立つ仕事に就いている。そういう人はけっこういるものです。 仏教の尺度からいえば、そういう人こそが立派なのです。 逆に知識人といわれる人が、けっこうひどいことをするのです。汚職 をする、賄賂をもらう、法律を破る、逮捕されても逃げる、個人的な影 響力を駆使して判決をねじ曲げる。刑務所に入れられそうになったら、 医者から健康状態が悪いという診断書をもらって引きこもる。そんなこ とがよくあるでしよう。 このように世間の知識の次元には、悪い特色だけが目立つので す。 俗世間的真理は役に立たない
第 1 章 「ある」から生じる大失敗 苦しみを感じ、苦しみを経て、苦しみを得る。これが人生の実態です。 その「苦」を人間は「幸福」という。人間というものは、じつにアベコ べな生き方をしているのです。 0 あなたは「世界の王」ではありません 「すべては変わる」というのは、動かしようのない事実、真理です。 「変わらないものは、ない」のです。したがって先に挙げた②「変わら ないから悩む」は、あり得ないことになります。 それなのになぜ人間は、変わらないことで悩むのでしようか ? それは自分が期待するように変わらないからです。 しかし変わってほしくても、変わらないでほしくても、それはその人 の勝手な願いです。自分の勝手でものごとが動いてほしいと思っている のです。「主観」「わがまま」です。うまくいくわけがない。 それなのに人間は皆、「全知全能者」気取りなのです。 他人事ではありません。あなたも世界の王か何かのつもりなのですよ。 子供にもっと勉強してほしいと希望する。 給料が上がってほしいと希望する。 店にお客さんがばんばん来てほしいと希望する。 すべて主観的な「わがまま」です。そのことに気づかずに、あなた も「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているのです。 「全知全能」という言葉は、「聖書」からの拝借です。聖書の神は、 「私は全知全能だ」とのたまうのですね。 しかしこの神は、自分の作った人間が失敗作だからといって、大洪水 す。ノアの子孫が我々だそうです。全知全能で失敗するとは、 を起こして、ノアと動物だけを箱船に乗せて、ほかは皆殺しにしたので 25 し、ったい 悩むのは、馬鹿げている
第 5 章 死を認めれば幸福になる 日が浅いのに、もう死のことを真剣に考えていたりする。 すると親は大変困るのです。「ちょっと変な子供だ」「妙に冷めている」 「白けている」「いまのうちになんとか軌道修正しておかないと、あぶな い」と慌てる。 しかし本当は、その子は素晴らしい能力を発揮しているのです。 この「人間はどうせ死ぬのだ」というところからこそ、人生 論を築かなくてはならないのです。そうすると道徳的に立派な、頭 の良い人間になるのです。真の幸福を得られるのです。 ところが大人は、その鋭い人生への洞察を、「クライ」「悲観的だ」と、 よってたかってつぶしてしまうのです。 0 本人が得ることは不可能 世間では「得る = 幸福」です。 財産、名誉、権力、美容、健康、長寿など、世間で幸福のキーワード とされるものはすべて「自分が外の世界から得るもの」なのです。 新興宗教のうたい文句はたった 1 つ。「ご利益」です。「ガンが治る」 「長生きする」「金持ちになる」。ぜんぶ「得る」ことです。 「得る」ためには、「変わらない自分」が必要です。 これはよく覚えておいてください。 別人が得ても、自分が得たことにならないのです。 当たり前でしよう ? 「金を儲けよう」「土地を買おう」「家を建てよう」というのは、すべ て「得ること」ですが、「いまのあなた」と、「得るあなた」が別人なら、 ぜんぶ成り立たないのです。 しかし、はたして「変わらない自分」は、いるのでしようか ? 成り 立つのでしようか ? 167 世間の幸福 = 大変な苦労
第 2 章 それは「無常」ではありません 日本では憲法改正の議論に 25 年もかけている。どうせ間違うのだから、 2 カ月か 3 カ月で結論を出せばいいのです。間違っていたらまた変えれば いいでしよう。どうせ間違うのだから、早くやればいいのです。トウガ ラシが辛いという人にはコショウを食べさせる。コショウが辛いならシ ョウガを、ショウガが辛いならワサビを食べさせる。そんなものです。 口にするものは変わっても、不都合、不完全、不満足という状況はたい して変わらないのです。 0 俗世間的真理に、道徳的な目的はない 俗世間的真理は、ただの知識です。知識を得ることに、道徳的な 目的はありません。知識は、ただ増やすだけです。良い人間になろ う。みんなのためになろう。そういう目的はないのです。自分だけ特 別な人間になるために知識を増やすのです。 世間でも「平和、調和、道徳」などと、もっともらしく語りますが、 たいてい方便です。誰かのメリットを隠蔽するために使われるだけです。 「本当の道徳」、つまり「誰もが幸せに生きるために役立つもの」ではあ りません。 宇宙船や飛行機は作りますが、地球を守る、生命のためになる、そう いうことには関心がないのです。 石油を燃やすことは考えても、それでどうなるかは考えませ ん。石汕を使わない車は儲からないから、本気で開発しようとはしな い。日本がアメリカにあげているお金を少し回せば、各国がお金を出せ ば、すぐにできる技術レベルなのに。そうすれば、日本は中東にペコペ コ頭を下げる必要も、テロに怯える必要もないのですよ。 知識を重視する世間に、道徳はひとかけらもありません。 「精密な破壊兵器を作るなんて、もってのほかだ」「悪い人の手に渡って 49 俗世間的真理は役に立たない
第 3 章 悟らなくても役に立っ 不断だ」「はっきりしない」「あてにならない」「信頼できない」云々と 文句を言う。これは「私の期待する態度に変わってほしい。変わったら、 ずっとそのままでいてほしい」ということです。 「頑固だ」「優柔不断だ」という不満、非難は、いずれもひどい「わが まま」です。 そもそも世界が自分の都合に合わせて変化してくれるわけが ないでしよう ? あらゆる不幸な問題の原因は、これほど当たり前のことを理 解しない程度の低い思考にあるのです。こんなことすらわからずに いて、あれやこれやの理屈をこねるのですから、人間の愚かさには呆れ てしまいます。 0 まとめ : 人の性格はいい加減 人間は歳とともに体力も精神力も衰えて、自然に頑固になります。そ して無常に対応できなくなってしまいます。 歳をとって頑固で固まるまでは、頑固でありながら、優柔不断でもあ ります。あるときは頑固、あるときは柔軟、あるときは優柔不断、ある ときはしつかりしているし、あるときは頼りになりません。変化思考が 曖昧で、ムラがあるのです。一定していません。「あなたは頑固です か ? 」と聞かれても、私にもそれはわかりません。その場その場で頑固 だったり、頑固でなかったりするのですからね。 ですから人の性格について深刻に考える必要はありません。その場そ の場で適当に対応するしかないのです。 0 ブッダの無常のどこがすごいのか ? 世間では「無常」のことを、大したことだとは考えていません。実際 るく、 93 世界は変わるが、自分は変わらない ?
第 2 章 それは「無常」ではありません っと賢いのです。 イヌはドアを開けて部屋に入ってくることは覚えます。ドアを閉める ことはイヌには必要がないから覚えません。芸として仕込むことは可能 ですが、自分からは覚えないのです。 ネコにエサの後片付けは覚えさせられません。好きなように食べて、 さっさと遊びにいってしまいます。 つまり動物は必要な知識しか覚えないのですね。 その点、人間は必要のない知識もどんどん覚える変な生命で す。 しかし人間が必死になって身につける知識は、本当に必要なのでしょ うか ? 「生きているもの」として基本にかえって考えると、無駄が多い のではないでしようか ? 知識を増やすために、どれほど時間的な無駄が生じているか。知識の せいで、どれほど苦しんでいるか。受験で、会社で、そこまで勉強して 苦しむ必要があるのでしようか ? 最たる例は哲学です。とびきり難しい学問ですが、必死に勉強しても、 頭でつかちになるだけで、その挙句、まわりとイ中良く生活できなくなっ てしまいます。家族と世間話もできなくなります。「スーパーで佐藤さ んに会ったので、安売り情報を交換した」と奥さんが話しても、カント を知っている旦那さんには、馬鹿話にしか聞こえないのです。 生きていくには、カントよりトンカツのほうが大切です。「い つも 300 円のトンカツが 150 円だったから 2 枚買った。 20 枚限定で大変だ った」と言う奥さんのほうが正しいのです。こういう知識は生きること に直結しています。カントより 150 円のトンカツのほうが、よほど重要 なのです。「カント ? なにそれ」と言われても、仕方がないでしょ 俗世間的真理は役に立たない
それが問題です。 そんなものは、成り立ちませんね。 「勲章を頂く人が痴呆になってしまっている」という光景を、 テレビで観たことがありませんか。 世間は、バリバリと立派なことをしているときは無関心で、邪魔ばか りして、そろそろ死ぬよ、というときになったら褒め称えるのですが、 えんびふく 燕尾服を着込ませて車椅子で皇居に運んで行ったところで、本人には事 情が飲み込めない状態になっているのです。 これでは、「本人が評価を得た」とは言えないでしよう。勲章を頂く のは呆けてしまった別人です。すっかりタイミングがずれてしまってい ます。 もちろん人間が歳をとって別人になるのは、自然なことです。当たり 前です。 ですから「得る = 幸福」という図式は、せいぜい誤魔化して、 誤魔化して、成り立っているように見せかけているにすぎませ ん。 0 得る = 幸福→苦労する 「得る = 幸福」を成り立たせるのには、無理があるのです。そ れで「得る」「得たものを守る」「得たもので楽しむ」は、すべて大変 な苦労を伴うのです。 実際に、そうでしよう ? 「得たものを守る」は大変です。 サッカー日本代表がワールドカップで優勝したら、大変ですよ。もの すごいプレッシャーです。衆人環視のなか、鬼の形相でトレーニングし て、私生活も節制して、コンディションと地位と名誉を守らなくてはな 世間の幸福 = 大変な苦労 168