第 5 章 死を認めれば幸福になる あるところに、ひどくケチな大金持ちがいました。 お金は徹底的に使わない。着るものは綿ではなくて麻。乗るものはウ マではなくてウシ。食事は、捨てるしかない痩せた黒い米に、タマリン ドの葉の酸つばいスープを掛けたものでした。 息子が一人いたのですが、そんな食事ですから、栄養失調になってし まいました。 ところが、自分は金持ちだから子供を医者に診せると吹っかけられる と考えた男は、一人で医者のところへ行きました。それで子供の病状を 世間話のように話して、治療方法を聞きだして、自分で薬を作って子供 に飲ませたのです。しかし、しよせん素人ですから、子供は快復しない。 それでもう駄目だということになってしまいました。 次に男がしたのは、死にかけの子供を建物の外に出してしまうことで した。子供が死んだとわかると親戚縁者が押しかけて金がかかる。だか ら死体は自分でこっそり埋めてしまおうと考えたのです。 罪のない子供が死にかかっているのを知ったお釈迦さまは、このまま では子供がひどく落ち込んだまま死ぬのでよくない、かわいそうだと考 えました。それでその家の前に立って、子供にご自分の姿を見せてやり ました。 子供は亡くなってしまったのですが、そのときはお釈迦さまの姿を見 て「なんと素晴らしい」と喜びの気持ちだったので、天国に生まれまし 0 天国に転生した子供が考えたのは、愚かな自分の父親のことです。ち よっと思い知らせてやろう、と。 子供を亡くして、父親は朝昼晩と泣き暮らしました。寂しかったので す。ケチで自分が子供を殺したのですが、そういう親心はあったのです。 泣き暮らして 7 日ほどして、男は亡くなった子供とそっくりの子供が 185 因縁法則こそ人生の操作方法
号泣しているのを見かけました。 どうしたのかと聞くと、「おもちゃの車の車輪が壊れた」と言う。男 は金持ちですから、なんだそんなものと、「金で作った車輪をあげよう」 と言ったのです。亡くなった息子に瓜二つのその子供を見て、すっかり やさしくなってしまったのです。 ところが子供は、そんなものはいらないという態度です。「そんなも のではなくて、月と太陽がほしい」と言うのです。「大きさといい、丸 さといいちょうどいい。あれちょうだい」と。 男は、「馬鹿なことを言うものじゃない。あれは得られないものだか ら諦めなさい」と言い聞かせました。 すると子供が言うのです。 「おじさんは、どうして毎日泣いているの ? 」 「自分の子供が亡くなったから、泣いているのだ」 「では、おじさんは僕より馬鹿だね」と子供。 「何 ? どうして ? 」 「だっておじさんは、この世にいない、眼にも見えない子供を恋しが って、毎日泣いているじゃないか。太陽は眼に見える。それをほしがっ て何が悪いの ? おじさんのほうが馬鹿だ」 そう言い終わると、子供は姿を消してしまいました。 それで男は、いまさら泣いても意味がないと知って、仏教に帰依しま 人は死ぬのです 金持ちも、貧乏人も、有名人も、同じように価値がありません。同じ ように苦しみ、同じように惨めに死んでいくのです。それに抗うことは、 無意味です。 因縁法則こそ人生の操作方法 186
第 5 章 死を認めれば幸福になる 先日、あるお医者さんが「幽霊を見せてほしい」と私に言いました。 なぜかというと、霊や魂の存在を自分で見て信じられたら、死に怯える 患者さんを、「死後の世界があるから大丈夫。生まれ変わるから、安心 しなさい」と慰められるからと言うのです。毎日のように人が目の前で 死んでいく。家族、親戚が悲しむ。それが耐えられないと、お医者さん は苦しんでいるのです。 しかし、人は死ぬのです。 病院は可能な治療を適切に施してくれるでしよう。それなのに病気の 子供を持っ親は「自分の子供だけは絶対に死なせたくない」と願ってし まいます。それでもし担当のお医者さんが、ほかの患者を差し置いて自 分の子供の治療を優先してくれたら「なんといいお医者さんだ」と喜ぶ のです。子供思いの優しい親は、ひどく残酷なのです。 そのお医者さんも、 こうした俗世間の見方に巻き込まれてしまってい ます。期待しようのないものを期待して、それがかなわないと 苦しんでいるのです。 だから仏教では、人間は、太陽と月を車輪にしたいと言った子供より 馬鹿だ、というのです。子供の素直さがあれば、真理は見えるの です。 0 苦しいから輪廻する 人間は「私は変わらない」というとんでもない誤解に基づい て、希望し、期待し、計画するのです。 しかし、「人生の操作」を間違っているから、結果は出ません。 もともと生きることは、楽ではありません。 仕事、掃除、洗濯、炊事、勉強。何をするにもお金がかかる。家を買 うと 30 年お金を返し続けることになる。冬は寒い、夏は暑い。子供は言 187 因縁法則こそ人生の操作方法
第 4 章 無常の世界の予測術 るのです。阿羅漢は心をきれいにして、予測できないすべての条件を取 り除いているから、予測が当たるのです。 仏教には、祝福してもらうことを何かの目的にする考え方、習慣はあ りませんが、お釈迦さまの元に子供を連れて行って礼をさせて、「元気 でありますように」と声を掛けてもらうことはありました。 こんな話があります。 インドの占い師に見せたら、絶対に長生きできないと言われた子供が いました。親は仏教徒でしたから、お釈迦さまを家に招いてお布施をし て、大人から順に一人一人礼をしました。お釈迦さまは一人一人に「長 生きできますように」と挨拶するのです。 ところがお母さんが短命といわれた子供に礼をさせても、お釈迦さま は黙っている。声を掛けてくれないのです。 それでお母さんが、「老人に長生きできますように、と言ったのに 長生きしてほしい子供には何の言葉もないのですか」と言ったのです。 なんと大胆な、と思うかもしれませんが、仏教の世界はお釈迦さまにも こんなことが言えるくらい気軽なのです。 するとブッダは「それはそうですが、この子は無理です」と答えたの です。短命になる因縁、業があるのだと。 結局、「それではあんまりです」ということで、ブッダは、その子供 が自分の悪い因縁を取り除くために必要な善業を積ませる法事を行わせ ました。その法事が終ってからあらためて、子供に「長生きできますよ うに」と祝福をしてあげました。それで、その子は長生きできたのだそ うです。 このような出来事は日常茶飯事だったので、仏教徒の間では祝福を受 ける習慣が根付いたのです。 155 仏教的な予測術
という結果だけを喜ぶのです。 花が咲くことも、豊作になることも無常の働きです。 お腹が空くのも無常のおかげです。お腹が空くからご飯が美味しいの です。無常だから、瞬間瞬間に味や歯ごたえの感覚があって、食べる楽 しみも、食べたあとの満足も成り立つのです。食べても食べても感覚が 変わらなかったら、食事は楽しくも何ともありません。 男女を問わず、ほとんどの人が一番の楽しみを感じるものがあります。 それは「子育て」です。子育ての楽しみは、毎日の変化です。子育てで は「次」に何が起こるか、まるで見当がつかないのです。小さな子供は、 朝、起きる時間も、起きたときの機嫌も、毎日違います。その変化を見 て楽しむ以上に、人間に楽しいことはありません。 皆さん「あれもこれも楽しい」というようなことを言いますが、子 育て以上に強烈な楽しみは、人間にはないのです。子供はとにか く変化が激しい。しかもどんな変化をしても、子供はやつばりかわいい。 先日、住んでいる建物の廊下を歩いていると、ある子供が私を見て、 何やら感動したらしくて慌てて走ってきて、とにかく「こんにちは」と かなんとか言いました。 私も何か話そうかと、「ご飯は食べたの ? 」と聞きました。それで、 うなすいたのかな ? と思ったら、もう走って自分の家に入ってしまいま した。とにかく忙しくしているのです。 で、 2 、 3 秒後に、ものすごい泣き声が聞こえてきた。もう誰かが殺さ れたみたいな感じです。その子は、自分の家に来ていたお客さんが、玄 関を出てエレベーターに乗ったのを見て、それが嫌で、泣いたのです。 お母さんはひとまずその子を抱っこして、あらあらという具合にあやし ていました。私は、そんなものだよ、とお母さんに目配せしたのですが、 子供はやつばりかわいいですね。 問題は乏しい観察カ 60
第 2 章 それは「無常」ではありません ないのです。 むしろ昔は、子供が子供を殺すことも、子供が大人を殺すことも、大 人が子供を殺すことも滅多にありませんでした。いまは昔より悪くな っているのです。 いまも昔も人間は苦しんでいるのです。そこから抜け出したい、 向上したいのです。それで闇雲に知識に飛びつくのです。けれど知識 がいくらあっても、人間の心は清らかになりません。知識では 「真の向上」は得られないのです。 世間の知識のこうした問題点が、仏教には気になるのです。それは 仏教が、人間の根本的な改善を目指すプログラムだからです。 0 俗世間的真理には、悪い特色が目立つ 知識のあるなしにかかわらず、立派な人間として生きること は可能です。 とくに勉強をしていなくても、立派な人はたくさんいます。品格が高 くて、謙虚で、自分のことは自分でする。人に迷惑をかけない。単純で 人の役に立つ仕事に就いている。そういう人はけっこういるものです。 仏教の尺度からいえば、そういう人こそが立派なのです。 逆に知識人といわれる人が、けっこうひどいことをするのです。汚職 をする、賄賂をもらう、法律を破る、逮捕されても逃げる、個人的な影 響力を駆使して判決をねじ曲げる。刑務所に入れられそうになったら、 医者から健康状態が悪いという診断書をもらって引きこもる。そんなこ とがよくあるでしよう。 このように世間の知識の次元には、悪い特色だけが目立つので す。 俗世間的真理は役に立たない
第 1 章 「ある」から生じる大失敗 病気になると薬を飲む。そうすると別の病気になる。薬さえも明らか な矛盾です。人間には副作用のない薬は作れないのです。 0 「自分のわがまま」に気づくと、人生はうまくいく 無知な人間が全知全能者気取りなのです。しかも本気です。冗談では ありません。そのうえ「自分は全知全能のつもりで生きているのだ」と 隹も気づいていない。 これをもってブッダは、「生命は基本的に無知だ」「無明だ」と 説くのです。「人間は真理に気づかない」と。 けれどあなたは、このことに気づいてください。 気づくだけでよいのです。「謙虚に生きよう」と思っても、そうはな れないでしよう ? でも「自分はどちらかというと全知全能のつ もりなんだなあ」と気づくことはできますね。それだけで問題が起 きてもただちに解決します。人生はたちまちうまくいくのです。 子供が喧嘩を売ってきても、「何だ、お前は」とはなりません。「ちょ っと話を聞いてみようか」となるのです。それで子供の言っていること がチンプンカンプンだったら、「それはね、こういうことじゃないの ? 」 と言えばいい。子供だって話を聞いてもらったあとだから、「なるほど、 そういうことか」となるでしよう。それで子供の人権を守って、自分も 「頭がよく働いて問題を解決できた」と、いい気分になりますよ。「うま くいった」と。それで幸せを感じるでしよう ? このように「人間は全知全能のつもりで生きている」という 1 行は、 皆さまに幸福をもたらすブッダの智慧なのです。 さて、ここまでは皆さまの世界からブッダの世界へ連れて行く話でした。 これからブッダの世界を案内します。 一三ロ 悩むのは、馬鹿げている 27
第 1 章 「ある」から生じる大失敗 苦しみを感じ、苦しみを経て、苦しみを得る。これが人生の実態です。 その「苦」を人間は「幸福」という。人間というものは、じつにアベコ べな生き方をしているのです。 0 あなたは「世界の王」ではありません 「すべては変わる」というのは、動かしようのない事実、真理です。 「変わらないものは、ない」のです。したがって先に挙げた②「変わら ないから悩む」は、あり得ないことになります。 それなのになぜ人間は、変わらないことで悩むのでしようか ? それは自分が期待するように変わらないからです。 しかし変わってほしくても、変わらないでほしくても、それはその人 の勝手な願いです。自分の勝手でものごとが動いてほしいと思っている のです。「主観」「わがまま」です。うまくいくわけがない。 それなのに人間は皆、「全知全能者」気取りなのです。 他人事ではありません。あなたも世界の王か何かのつもりなのですよ。 子供にもっと勉強してほしいと希望する。 給料が上がってほしいと希望する。 店にお客さんがばんばん来てほしいと希望する。 すべて主観的な「わがまま」です。そのことに気づかずに、あなた も「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているのです。 「全知全能」という言葉は、「聖書」からの拝借です。聖書の神は、 「私は全知全能だ」とのたまうのですね。 しかしこの神は、自分の作った人間が失敗作だからといって、大洪水 す。ノアの子孫が我々だそうです。全知全能で失敗するとは、 を起こして、ノアと動物だけを箱船に乗せて、ほかは皆殺しにしたので 25 し、ったい 悩むのは、馬鹿げている
第 3 章 悟らなくても役に立っ しかしすべて同じスピードなので、この変化がわかりにくい のですね。壁をじっと見ていても、壁が変わっていることがわからない のです。それは見ている私も壁も、同じスピードで変わっていくからで す。物質は素粒子のかたまりで、素粒子は同じ速さで変わっているでし よう ? だから「私が見ている」という気持ちしかないのです。問題は 自分と世界の変化のスピードが同じことにあるのです。この「同じスピ ード」という点に、人間は騙されるのです。 毎日、子供を見ているお母さんは、子供の変化にあまり気づきません。 ところが 1 週間のキャンプから子供が帰ってくると、「たくましくなっ た」などと大きな変化を発見して驚くのです。 私も壁も、お母さんも子供も、同じ速度で変化しています。しかし 我々は普段はそのことに気づきません。それは並んでジョギングしてい ると、互いに止まって見えるようなものです。 そこで仏教では集中力を育てて、変化を発見する能力を高め るのです。心の変化は物質よりすっと速く、光の 17 倍です。心の眼で 見ると、心の無常も、物質の無常も見えてきます。心は物質と 変化の速さが違うので、変化していることがわかるのです。 無常を発見すると、いてもたってもいられなくなります。すべてが変 化し、何につかまることもできない。それまでの世界はすべて崩れます。 自分もなくなる。言葉もなくなる。それから心は安定して、怒りも憎し みもなくなるのです。 0 悟りとは「いままで馬鹿でした」と悟ること 無常は稀有な発見です。無常が事実です。無常が真理なのです。 無常を知ることで人の心はたちまち解脱します。一切の苦しみは 消えてしまいます。仏教的な無常がわかると、悟っているのです。 103 釈尊の無常はすごい智慧
聖なる真理は役に立つ 0 悟らなくてもブッダの教えは役に立つ 無常は、仏教の修行者にしか役に立たない教えではありません。完全 に無常を知って悟り、解脱に至らなくても、「存在はすべて無常な のだ」と覚えておくだけで、人生は完全に平穏になり、幸福に なるのです。無常はすごく役に立つのです。 0 無常を知る人は、子育て上手 自分も他人もすべて無常だとわかると、楽しくなるのです。 赤ちゃんの激しい変化、成長が何より楽しいなら、その子供は死 ぬまで同じスピードで変わっていくことを理解しましよう。 普通の世界では、お母さんたちはそうではありません。 赤ちゃんが毎日すくすくと大きくなって、ある日、歩くようになって、 保育園、幼稚園に入って、小学校に入って、もう楽しくてしかたがない のです。 やがてそれが苦しみに変わるのです。 それは無常に反対するからです。 子供は同じ速度で、ノンストップで変わっているのだと知っていると、 ずっと楽しいのです。思春期のとき、若いとき起こる変化は問題になり ません。ちょっと乱暴しても、赤ん坊を見る気分で「そういう歳になっ たのか」と楽しんでいられる。 子育てでは、「常に変われ ! 」「今日と同じではダメだぞ ! 」 と子供の背中を押すとよいのです。そうすると着々と成長するので す。これは大事なポイントです。 あるときは「変われ」、あるときは「変わるな」というのではなくて、 聖なる真理は役に立つ 106