第 3 章 悟らなくても役に立っ 的な行為だと知ることです。「これが人生だ」などと馬鹿なことを思 わないことです。 生命は「ただ生きている」のです。生きていること自体に目 的はありません。 では人は、どのように生きるべきでしようか ? 仲良くしたほうがよいでしよう。やさしくしたほうがよいでし よう。自分も皆も楽しく生きたほうがよいでしよう。これが仏教 の提案です。 誰かが悲しんでいれば慰めてあげる。誰かが笑っていれば一 緒に喜ぶ。それで十分です。 「子供が生まれたら育てる」。そんな具合に気軽にやるのです。仕事も 気楽にやるのです。「仕事こそ人生だ」などと思わないことです。 一隹かが「お茶ちょうだい」と言ったら「はい、どうぞ」でよいのです。 それを「そんなことぐらい自分でやってちょうだい ! 」と怒鳴ったりす ると、自分が苦しいでしよう ? そのときそのときの対応で生きていれ ば、すべて楽なのです。 これが「有効に生きる」ということです。とても上等な生き方なの 二一口 です。 0 無常を知る人は、心を育てる 無常を知れば、罪を犯したりはしません。人を怒鳴ろうとか、殴ろう とか、あり得ないのです。 無常を知らない人は感情で束縛されています。怒り、憎しみ、悲しみ、 嫉妬、落ち込みに縛られて、自由がありません。軽快に動けず、何もは かどりません。 結果として、瞬間的に変わるこの世界で、間に合わない、時間がない、 聖なる真理は役に立つ 1 1 1
お母さんに「その服はいまひとつね」と言われた娘さんは、「あ、そ う」と応じるかもしれませんが、好きな男を「あまり信頼できないから、 付き合うのをやめなさい」とけなされたら、お母さんをぶん殴ろうとす るのです。 隹もが、自分の考えは絶対に正しいと思っています。このことを覚え ておいてください。覚えておくだけで十分です。自分を変えようと したら、逆にろくなことになりません。 0 「思考の争い」「信仰の争い」こそが問題 この世で何の解決策もない問題は、「思考の争い」「信仰の争 い」です。信仰といっても宗教に限りません。多くの人がお医者さん を信仰しているし、医学を信仰しているし、現代科学を信仰しているで しよう。 これが大変な問題です。 現在の世界の問題は、ほとんどが「考えの違い」から生じています。 経済的な問題はニ次的です。 ロシアでは学校がテロの標的になりました。イラク、北朝鮮、日本と 中国、イスラエルとパレスチナ。争いはぜんぶ思考の問題です。経済の 問題ではないのです。 パレスチナの経済問題を解決することはできても、イスラエルとパレ スチナが仲良くすることはできません。イスラエル人が自分達を唯一神 に選ばれた民だと固く信じている一方で、パレスチナ人が唯一の正しい 神を信仰しているからです。旧約聖書とコーランの中身はほとんど同じ ですが、信仰している唯一神が違うのです。 一三ロ 知識が不幸の種を蒔く 30
第 5 章 死を認めれば幸福になる 因縁法則こそ人生の操作方法 0 「私はない」というのは仏教だけ 「私」が苦しむ。「私」が悩む。「私」がいらだつのです。 つまり「いま、 こに私がいる」という実感があるからこそ、 自分のこと、世の中のことが気になるのです。 「私は存在しない」なら、世は無常であっても、苦であっても、楽で あっても、ぜんぜん関係ありません。 ですから大事なポイントは、「私はあるのか ? 」「我はあるの か ? 」ということになります。 科学であろうが哲学であろうが、仏教以外の思考はすべて「私はある」 ことを前提にしています。 しかし仏教だけは、「我はない」という立場です。 したがって仏教からみれば、すべては関心に値しません。 「そうはいっても、気になるのです。関心があるのです」というのな ら、「せいぜい自分の役に立っことに限定しなさい」という立場 です。 暮らしていくためにお金が必要なら、いくらか金が儲かるように勉強 すればよいのです。それで十分です。あれもこれも知る必要はありませ ん。 命お釈迦さまが答えない間い お釈迦さまは、「字宙は有限 ? 」「魂はある ? 」「魂と体は同一 ? 」と いった問いには答えません。「そんなことはあなたに関係ない。た だの知識の刺激です。役に立ちません。そんなものは無意味、 無駄です」という態度です。 179 因縁法則こそ人生の操作方法
第 3 章 悟らなくても役に立つ 0 私は変わる。世界も変わる 自分がずっと変わっているということは、誰もが、いまここで、きわ めて簡単に経験できます。 文字を追いながら意識が変わっているでしよう ? 気持ちが変わって るのなら、それは他人も同じだ」という具合に、類推するので るしかありません。「小さな赤ん坊だったのが、いまの自分にな ただ外の世界を 100 % 観察するのは不可能です。少しだけ推測を入れ いるのだ」と知るのです。 知る世界も、私と同じく、絶えず瞬間、瞬間変化して変わって そこを足場にして、外の世界を見るのです。「私が経験する、 いのない事実です。 このように自分については、 IOO % 観察できるのです。それは疑 になった自分を発見するのです。 する。すると別人になった自分を発見する。痛みが消えたら、また別人 自分の足や腰が痛くなったら、自分の気分がどれほど変わったか観察 に気づくことです。 あの人の怒りより、自分の怒りのほうが、よく観察できる。その怒り それがブッダの無常を知る方法です。 です。それから「世の中も自分と同じく無常である」と知る。 その変わりつづける自分を、しつかりと観察して自分で経験すること 的な現象」なのです。 だから「変わらない自分」は成り立たないのです。「自分」は「一時 そうしたおびただしい変化が、同時進行で、自分に起きているのです。 たびに、息を吸うたびに、刻々と変わっているでしよう ? いるでしよう ? 身体の感覚が変わっているでしよう ? 息を吐く す。 99 釈尊の無常はすごい智慧
根本的に問題を解決するには、仏教的な無常を知るしかあり ません。幸福を手にするには、それしかないのです。 内 ( 自分 ) も外 ( 世界 ) も瞬間的な現象で変わります。執着しようと する対象も、執着する者も一時的な現象にすぎません。 得たいと思う自分と、それを得る自分は違います。「自分」には何も 得ることはできない。自分というものは存在しないのですから、得るこ ともまたできないのです。得る人はまた、別の人なのです。 無常を知らないから、「変わらない自分」を妄想するのです。それを 基準にして怒るのです。世界と同じスピードで変わり続ける「無常なる 自分」なら怒りは成り立ちません。 執着、怒りなどの感情は、「変わらない自分」という妄想に 拠って立った非論理的な妄想です。無知な人の妄想で、本来、成り 立たないものなのです。 無常を悟った人には怒りがありません。怒りを我慢するのではなく、 無我なので、怒りが成り立たないのです。無常を知ると、心は 「無執着」になるのです。 知識は無知の同義語 72
第章 死を認めれば 幸福になる 自分も世界の一部なので、世界の無常を知るには、自分 を観るのがもっとも確実です。では、自分はどう変わります か ? そう、「自分は死につつある」のです。あらゆる生命 は、死につつあるのです。自分の死と向き合うことが、無 常を受け入れ、無上の幸福に到る最短ルートなのです。
第 3 章 悟らなくても役に立つ 「これは古いなあ」 「嫌だ、この団子、賞味期限が切れている」 「あなた、痩せすぎじゃない ? 」 「世間の変動は激しいですね」 我々は、そんなことを何気なく口にします。そのとき我々は、「私」 について棚上げしているのです。団子の賞味期限は気にしても、 自分の賞味期限については触れないのです。 0 死を悲しむのは格好が悪い 自分の子供、親が亡くなったと悲しむとき、「自分は相変わらず元気 だ」という前提があるのです。自分はびくりともしない川岸にい て、流される木の葉を哀れむような傲慢さです。 しかしそんな保証がどこにあるのでしようか ? 人間なんて、いつ死 んでも不思議はありませんよ。 だから人が死んだと悲しむことは、本当はすごく格好の悪い ことなのです。それなのに周りは「この人はやさしい人だ」と褒めた りもする。 本来、人の死に目に泣くなんて、褒めるようなことではありません。 それは、無知で、恐ろしいことなのですよ。 悟った人は泣きません。人が死んでも平静なことは、残酷なこと でも冷酷なことでもありません。悟った人には「私だけ違う」という偏 見まみれの暗黙の了解がないのです。自分も無常、自分も刻々と死 につつあるのだから、他人の死に動じないのは当然の反応なのです。 泣けるはすがないのです。 長年連れ添った人に「冷たい」「愛情が冷めた」と文句を言いますが、 そのとき自分のことは棚上げしているのです。自分はいまも変わらす愛 89 世界は変わるが、自分は変わらない ?
しているとでもいうのでしようか ? じつに失礼な態度です。相手を責 めて喧嘩するなんて、できないはすです。 私はときどき人をつかまえて「あなたすいぶん歳をとったね」とか言 ってみるのです。それで「そう言うあなたは、変わってないつもりです か ? 」と逆襲してきたら、頭がいい人です。話をしても面白い。逆に落 ち込んでしまうような人では、話をする気が失せてしまいます。 私の昔の知り合いはもうポロボロの老人だったりしますが、彼らに 「変わらないね」とでも言おうものなら、「何を馬鹿げたことを」という 感じです。刻々と変わっているのはよくわかっていますからね。 子供が自分を完全に無視するようになったと、私に相談する人がいま す。遅くなって家に帰ってきて、挨拶もせず自分の部屋に入るのだと。 しかしそういう本人は、変わっていないのでしようかね ? 子供が変わるように、親の自分も変わるのです。それなら昔と 同じようにいくわけがないでしよう ? 子供が口をきかなくなった のは、親の自分が変わったからでもあるのです。そういう変化なのです。 0 対照的に発見される無常は「邪見」 人間には比較対照する思考の癖があるのです。それで世間の人は、 「変わる」を発見するために「変わらない」を作ります。最たるものが 「変わらない自分」です。「変わらない自分が、変わる世界を観察 する」という構図です。 「前に住んでいたアパートは古かった」と言うとき、いまの家は新し いのです。 「あなたは変わった」と言うとき、自分は変わっていないのです。 仏教では変わらないものは何一つとしてありません。ですから変わっ てない自分を前提にして、外の世界の変化を発見するのは大失敗です。 世界は変わるが、自分は変わらない ? 90
第 2 章 それは「無常」ではありません りません。陽の射し方が変わっている。植物は 1 日の仕事をして疲れて いる。自分も疲れているのです。 花を見て無常を感じたのは、本人がそのように疲れているからです。 それに気づかない。自分を含めて全体的に見ていない。だから俳 句で外の世界の無常を語っても、真に無常を語ったことにはならないの です。 我々は、自分の無常に徹底的に逆らうのです。歳をとること、疲 れること、お腹が空くこと。観察能力が乏しいので、自分の無常に気づ くときには遅いのです。すでにガンは進行してしまっているのです。 人は流れる川を観察する。水の流れで、泡が現れて弾けていくことを 観察する。自分も変わっているのだと理解する人も、たまにはいます。 10 万人に 1 人くらいでしようか ? それ以外の愚か者は、「きれいだ」「落ち着く」「風情がある」などと 喜ぶだけです。自分自身の無常には気づかない。自分も同じスピードで 変化していくものだという事実に、気づくことができない。 では、自分も変化してゆくと気づくことができた人には、川は どのように見えるのでしようか ? それは通常の人間とは別の世界です。 その人は、瞬間、瞬間、別の人です。川も自分も同じスピードで 変化しつづけることを知るその人は、川も「川だ」と認識できない。 認識のレベルが、ほかの人とまるで違います。言葉は存在しません。人 に語ることもできません。それが悟りの世界なのです。 0 「絶え間ない変化」が見えない ものごとは一定のスピードで絶えず変化しています。人はこのことに 気づかす、変化の「点」と「点」を捉えて、その間をざっくり 63 問題は乏しい観察カ
世界は変わるが、自分は変わらない ? 0 「私は変わらない」という身勝手な前提 世間一般の人も、一応、現象が変わることを知っています。しかしそ れは「知識として」なのです。「変わるのでしよう ? 知っていますよ」 という感じなのです。それで時々気まぐれに外の世界の現象をとらえて、 悦に入ったり、感動したり、悲しんだり、はかなくなったりしているの です。認識の仕方はきわめていい加減で、身勝手です。まともな 観察はありません。世界を見る目は、著しく公平さを欠いています。 ただの偏見なのです。 どうして我々の観察は偏見になってしまうのでしようか ? きちんと 世界に向き合えないのでしようか ? 最大の失敗は、「自分の無常」を観察しないことにあるのです。 大きな駅では、電車が事故で 1 時間もストップすると大騒ぎになりま す。なぜなのでしようか。いつどこに何が起きても不思議はないでしょ う ? 自分に何が起きても不思議はないでしよう ? それなのに自分が 乗りたい電車が遅れるくらいのことで、なぜ大騒ぎするのでしようか ? すべてが無常だと知っている人は、平静なまま別の手段でさっさと移動 するか、本でも読んで待っているでしよう。 世界に向き合うときに人間が犯す最大の失敗は、自分自身を脇に置い て、外の世界の変化を発見することです。「自分が変わる」という ことは、気にも留めません。何の疑いもなく、「私はそのままで、 変わっていない」「私は無常ではない」と決めつけているのです。それ でひどく見方が偏ってしまうのです。 「あなたずいぶん歳をとったね」 「ウチの旦那はすっかりお爺さんになってしまった」 世界は変わるが、自分は変わらない ? 88