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検索対象: これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学
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1. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

358 ルはさらに大規模な空輸作戦を敢行し、一万四〇〇〇人のファラシャをイスラエルに搬送 した。 イスラエルがエチオピアのユダヤ人を救出したのは、正しいことだろうか。空輸作戦は、 どう見ても英雄的だ。ファラシャは絶望的な状況にあったし、イスラエル行きを望んでい た。そして、ホロコーストの直後に建国されたユダヤ人の国、イスラエルは、ユダヤ人に 祖国を与えるためにつくられた。だが、こんな異論を唱える人がいたとしよう。何十万人 ものエチオ。ヒア人難民が飢餓に苦しんでいた。資源に限りがあってイスラエルがその一部 しか助けられなかったならば、救出する七〇〇〇人のエチオ。ヒア人をなぜくしで選ばなか ったのだろうか。エチオピア人全般ではなく、エチオピアのユダヤ人を空輸したことは、 なぜ不公平な差別的行為とされなかったのだろうか。 連帯と帰属の責務を受け入れるならば、答えは明らかだ。イスラエルはエチオビアのユ ダヤ人の救出に特別の責任を負っており、その責任は難民全般を助ける義務 ( それはほか のすべての国家の義務でもある ) よりも大きい。あらゆる国家には人権を尊重する義務が あり、どこであろうと飢餓や迫害や強制退去に苦しむ人がいれば、それそれの力量に応じ た援助が求められる。これはカント流の論拠によって正当化されうる普遍的義務であり、 われわれが人として、同じ人類として他者に対して負う義務である ( カテゴリー ま答えを出そうとしている問いは、国家には国民の面倒を見る特別な責任がさらにあるか

2. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

適正な分配法を導き出す。「こうした特性を有する共同体に最も貢献する人たち、は、す ぐれた市民道徳を持つ人たちであり、共通善について熟慮するのに最も長けた人たちだ。 市民として最もすぐれた人たちーーー最も裕福な人たちでも、最も多数派の人たちでも、最 も美しい人たちでもなく が、政治的に最高の評価を受け、最大の影響力を振るうに値 ( 9 ) するのだ。 ス政治の目的が善き生なのだから、最高の地位と名誉は、ペリクレスのような人に与えら テれるべきである。彼は最高の市民道徳を持ち、共通善を見きわめるのに最も秀でていた。 以財産を持つ人にも発言権を与えるべきだ。多数派の意見も無視はできない。だが、最も大 ア きな影響力を持つべきなのは、人格と判断力の両面において、スパルタとの戦いの是非と 時期と方法を決める資質を備えた人物である。 る ペリクレス ( およびェイブラハム・リンカーン ) のような人たちが最も高い地位と名誉 す にふさわしい理由は、賢明な政策を実行し、すべての人の生活を向上させるからだけでは 何よ、 0 オし政治的コミュニティの存在目的の少なくとも一部は、市民道徳に名誉と見返りを与 えることだというのも、理由の一つだ。市民としての卓越性を発揮した人を公的に高く評 章 価することは、すぐれた都市の教育的役割にも資する。ここでもまた、正義の目的論的な 第 面と名誉にかかわる面が一致することがわかる。 一一口

3. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

まつわる現実の物語である。 ますは哲学者による架空の物語について考えてみよう。こうした話の例に漏れず、この シナリオからは多くの現実的で複雑な要素が取り除かれている。それによって、限られた 哲学的問題に焦点を合わせられるからだ。 暴走する路面電車 あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル ( 約九六キロメートル ) で疾走している。 前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするの だが、できない。。 フレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、 る全員が死ぬとわかっているからだ ( はっきりそうわかっているものとする ) 。 とふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。 こ 路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく し 正 どうすべきだろうか ? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ ! 何の罪も 章ない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一 第人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。 さて、もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転士ではなく傍観者で、

4. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

線路を見降ろす橋の上に立っている ( 今回は待避線はない ) 。線路上を路面電車が走って くる。前方には作業員が五人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに五 そのとき、隣にとても太った 人をはねる寸前だ。大惨事を防ぐ手立ては見つからない 男がいるのに気がつく。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行 く手を阻むことができる。その男は死ぬだろう。だが、五人の作業員は助かる ( あなたは 自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている ) 。 ほとんどの人はこう一 = ロう その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか。 だろう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」 誰かを橋から突き落として確実な死にいたらしめるのは、五人の命を救うためであって も、実に恐ろしい行為のように思える。しかし、だとすればある道徳的な難題が持ち上が ることになる。最初の事例では正しいと見えた原理ーー五人を救うために一人を犠牲にす る・ーーが二つ目の事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか。 最初の事例に対するわれわれの反応が示すように、数が重要だとすれば、つまり一人を 救うより五人を救うほうが良いとすれば、どうしてこの原理を第二の事例に当てはめ、太 った男を突き落とさないのだろうか。正当な理由があるにしても、人を突き落として殺す のは残酷なことに思える。しかし、一人の男を路面電車ではねて殺すほうが、残酷さが少 ないのだろうか。

5. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

アリストテレスは、そういう人は存在するという結論を出す。奴隷になるべく生まれつ いた人たちがいるというのだ。彼らは普通の人とは異なる。ちょうど、肉体が魂とは異な るように。そのような人たちは「生まれつき奴隷であり、主人に支配されるほうが : : : 彼 らにとってはよいのだ」 「つまり、他人のものになれる ( それゆえ、実際にそうなる ) 人、みずからは理性を持た スないが他人の理性を理解できる程度に理性に関与する人は、生まれながらの奴隷である」 テ「生まれつき自由な身分である人がいるように、生まれつき奴隷である人もいる。後者に 以とっては、奴隷の状態が有益にして正義なのである」 ア アリストテレスは自分の意見に腑に落ちないものを感じているようだ。なぜなら、急い でこんなただし書きをつけているからだ。「ただし、逆の見解を持つ人びともある意味で ( 四 ) るは正しいことは、容易にわかる」。当時のアテネの奴隷制のあり方を見て、アリストテレ 値スは批判にも一理あると認めざるをえなかった。多くの奴隷が、純粋に偶然の理由によっ 絅てその境遇に陥っていた。以前は自由民だったが、戦争で捕虜になったのだ。奴隷の身分 は彼らがその役割に適しているかどうかとは関係がなかった。 / 彼らにとって、奴隷である 8 ことは自然でなく、悪運のなせる業だった。アリストテレス自身の基準によれば、彼らが 第 奴隷でいるのは不正義である。「現実に奴隷である人、あるいは自由民である人のすべて が、生まれながらに奴隷または自由民であるとはかぎらない」 ふ

6. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

146 二〇〇七年七月、『ロサンジェルス・タイムズ』紙は、イラクでアメリカ政府が契約し ている民間人 ( 一八万人 ) が、アメリカ軍駐留部隊の兵士 ( 一六万人 ) を上回ったと報じ た。契約を結んだ民間人の多くは戦闘を伴わない後方支援業務の担当である。基地を建設 したり、車両を修理したり、物資を配達したり、食事を提供したりしている。とはいえ、 約五万人は武装した警護部隊だ。基地、輸送車隊、外交官の護衛という仕事上、戦闘に巻 ( 四 ) き込まれることも少なくない。イラクではアメリカ政府と契約を結んだ民間人が一二〇〇 人以上殺されたが、彼らがアメリカ国旗で覆われた棺で帰国することはなく、アメリカ軍 の犠牲者数に含まれることもない。 ・ワールドワイド社だ。同社 0 民間軍事企業の最大手の一つが、ブラックウォーター ルズ 0 のエリック・プリンスは、海軍特殊部隊の元隊員で、自由市場の熱心な信奉者だ。彼は、 この表現は彼にとって「中傷的」なのだそ 自社の兵士が「傭兵」とされるのを認めない。 。フリンスはこう説明する。「フェデラル・エクス。フレス社が郵便事業でやったこと を、われわれはアメリカの安全機構でやろうとしているのです」。ブラックウォーター社 は、アメリカ政府からイラクにおける業務を一〇億ドル超で請け負ったが、このことはし ばしば論争の的となっている。同社の役割が最初に注目を浴びたのは二〇〇四年、社員四 人がイラクのファルージャで襲われて殺され、そのうち二人の遺体が橋から吊り下げられ たときだった。この事件がきっかけとなり、当時のジョージ・・ブッシュ大統領は海兵 ひつぎ

7. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

施されていた、ユダヤ人学生の入学を阻止するための定員制限を考えてみよう。公立大学 ではなく私立大学だからという理由で、このような制度を道徳的に擁護できるだろうか。 一九二二年、ハーヴァード大学の学長だった < ・ローレンス・ローウエルは、反ユダヤの ーセント以 風潮をやわらげるという名目で、新入生に占めるユダヤ人学生の割合を一二パ 争下に抑えることを提案した。「学生のあいだでユダヤ人に対する反感が高まっている。ュ をダヤ人の数が増えれば、反感はさらに高まるだろう」。一九三〇年代にはダートマス大学 めの入学事務担当主事が、ユダヤ人学生が増えつつあるという卒業生からの苦情に書面で次 ンのように回答している。「ユダヤ人問題についてのご意見をうれしく拝読しました。ユダ シ ヤ人が一九三八年卒業生の五—六。、 ーセントを超えるような事態になれば、私は言葉では ク ア 言いあらわせないほどの心痛を覚えるでしよう」。ダートマス大学の学長は一九四五年、 イユダヤ人学生の制限を正当化するために大学の使命を引き合いに出し次のように述べてい マる。「ダートマスは、学生にキリスト教の教義を教えるために設立されたキリスト教の大 ア 学である フ ア もし、多様性を根拠とするアファーマティブ・アクション擁護論が主張しているように、 章 大学にはみすから定めた使命を追求するために、選考基準を自由に設定する権利があるな 第 ら、人種差別的な排他主義やユダヤ人の入学制限を非難することはできないのではないか。 人種隔離時代のアメリカ南部が人種を理由に一部の人びとを排斥したことと、こんにちの

8. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

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9. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

360 顔を合わせる慣わしを通じて、また、たがいを結びつける共通の利害を通して、新たなカ を身につけるのはよいことだ」。だが、 もし国民同士が忠誠心と一体感という絆で結ばれ るとしたら、それは外国人に負うよりも多くのものをたがいに負っていることを意味する。 われわれは人民が美徳を持っことを望んでいるだろうか。望んでいるなら、手はじめ に、彼らが国を愛するように仕向けよう。だが、もし国が、彼らにとっても外国人に とっても同じ意味しか持たず、万人に与えざるをえないものしか彼らに与えないとす ( 的 ) れば、どうやって国を愛せと冒つのだろう。 たしかに国は自国民に対し、他国民よりも多くのものを与える。たとえば、アメリカ国 民には、さまざまな形の公的サービスーー公教育、失業手当、職業訓練、社会保障、メデ イケア〔訳注〕主に高齢者を対象とした医療保険制度〔、福祉制度、食糧切符など・ーーが提供さ れるが、これらは外国人には提供されない。実際、移民政策の緩和に反対する人びとは、 新たに人国した移民が、アメリカの納税者の支払いによって維持されてきた社会福祉制度 に便乗するのを懸念している。だが、そうした懸念からは一つの疑問が浮かぶ。なぜアメ リカの納税者は、国外に住む人より、同国人の困窮者に多くの責任を負うのだろうか。 あらゆる形の公的支援を嫌い、社会保障制度の縮小を望む人もいる 。いつぼう、発展途

10. これからの「正義」の話をしよう : いまを生き延びるための哲学

種の弱さと見るだろうか。フランスの解放という大義の下で、民間人の犠牲者は何人まで 正当化されるかというより大きな問いは、ここではひとます措く。このパイロットは、任 彼ことって肝心なの 務の必要性や失われるであろう命の数を問題にしているのではない。 , 冫 イロットが躊躇 は、それら特定の人びとの命を奪う人間にはなれないという点だった。パ ンしたのは、単なる臆病からだろうか。それとも、道徳的に重要な何かの表明だろうか。わ ジれわれがこのパイロットを称賛するとすれば、それは彼の姿勢に村の一員としてのアイデ ンティティを認めるからであり、彼の躊躇に反映されている人格に敬服するからである。 エチオピアのユダヤ人の救出 何 一九八〇年代前半、エチオピアで飢饉が起こった。約四〇万人が隣国スーダンに避難を も余儀なくされて、難民キャン。フで不自由な生活を送っていた。一九八四年、イスラエル政 負府は「モーゼ作戦」と名づけた秘密裏の空輸を決行し、ファラシャと呼ばれるエチオビア の = ダヤ人を救出してイスラエルに搬送し。約七〇〇〇人のエチオピア在住 = ダヤ人が 救出されたあと、作戦は中止された。アラブ諸国の政府がスーダンに、イスラエルの救出 9 活動に協力しないよう圧力をかけたためだ。当時のイスラエル首相、シモン・ペレスはこ 第 う述べた。「エチオピアの同胞がすべて無事に祖国に戻るまで、われわれの心は安まらな 一九九一年、エチオピア国内に残るユダヤ人を内戦と飢饉が襲ったとき、イスラエ