192 の命法は仮言的 (hypothetical) だ。もしその行為がそれ自体において善く、理性と一致 している意志にとっても必要なものであるなら、その命法は定言的 (categorical) だ」。 「定言的」というと専門用語のように思うかもしれないが、 categorical という言葉の一般 的な意味とそう違わない。カントの言う「定言的」とは無条件のことだ。たとえば政治家 がスキャンダルの噂を ca ( ego ュ ca 一に否定した場合、その否定は断固としたものであるだ けでなく、何の条件も持たない。抜け道も例外もいっさいない。同様に定言的な義務もし くは権利といった場合、それはどんな状況でも適用されることを指す。 カントにとって、定言命法とはいわば無条件に、つまりほかに考慮すべき目的や依存す る目的をいっさい持たすに何らかの行動を命じることだ。「それは行動の実質や予測され る結果ではなく、行動の形式と、行動を生じさせる原理とにかかわっている。その行動に 含まれる本質的な善は、行動の結果がどうあれ、つねにその心的傾向に存する」。定言命 法だけが道徳の命法たる資格を持っとカントは言う。 ここで三つの対比のつながりが明らかになる。自律的自由を実践するためには、仮言命 法ではなく定言命法に従う必要があるのだ。 「ほかの動 しかし大きな問いが一つ残ゑ定一言命法とは何か、何を命しているのかだ。 機をともなわすに、それ自体として絶対的に適用される実践的な法則」という考え方を適 引いに答えられるとカントは言う。個人的な目的を超えて、すべての人間 用すれば、この尸
ことではなく、そのときどきの欲望を満たすことで効用を最大化する方法を見つけること 、、こっこ。 カントは、理性にこのような従属的な役割を与えることを拒んだ。 / 冫 彼ことって、理性は 単なる情熱の奴隷ではない。 もし理性がその程度のものでしかないなら、本能のままに生 きる方がましだとカントは一 = ロう。 カントが考える理性、道徳にかかわる実践理性は、道具としての理性ではなく、「いっ ン 力さいの経験的目的にとらわれずに、ア・。フリオリに法則を定める純粋実践理性」である。 工 ヌ 定言命法対仮言命法 マ イ ← では理性はどのようにしてそれを行なうのか。カントは理性が意志を規定する方法とし 動 て二つの方法、二種類の命法を提示する。一つは仮一 = ロ命法だ。これは多くの人にとってな の じみのあるものだろう。仮言命法は理性を道具として用いる。 >•< が欲しいならば、をせ 重 よというものだ。たとえば会社の評判を上げたいなら、顧客に誠実に対応しなければなら 章 第 カントは、条件をつねに伴う仮言命法を、条件をいっさい持たない定言命法と対比する。 彼はこう記している。「もしその行為が、別の何かの手段としてのみ善いのであれば、そ
202 疑問その 3 【自分が定めた法則に従って行動することが自律だとして、全員が同し道徳法 則を選択する保証はどこにあるのか。定言命法が意志の産物なら、人によって思いつく定 言命法は異なるのではないか。カントは、すべての人間は同じ道徳法則に合意すると考え ているようだが、人びとが異なる判断を下し、ばらばらの道徳法則を導きだす可能性がな いと、どうして確信できるのだろう。 答え】自分の意志によって道徳法則を選ぶとき、われわれは自分やあなたといった特定の 人格としてではなく、理性的な存在、カントの言う「純粋実践理性」にかかわる者として 選んでいる。だとすれば、道徳法則が人によって違うと考えるのは誤りだ。もちろん特定 いくつもの原則にたどりつくだろう。しかし の利益や欲望、目的に基づいて推論すれば、 それは道徳原理ではなく、打算に基づく原理だ。純粋実践理性を用いているかぎり、個人 的な利益にとらわれることはない。そのためつねに同じ結論、つまり特定の ( 普遍的な ) ( 幻 ) 定言命法に到達する。「ゆえに自由意志と道徳法則に基づく意志は同一である」 疑問その 4 【もし道徳が単なる打算以上のものなら、定一言命法の形式を取るはすだとカン トは言う。しかし道徳が権力の行使や個人的な利益から切り離されていると、なぜわかる のだろう。人間には自由意志によって自律的に行動する力があると、どうして確信できる
198 は違う。共感、連帯感、仲間意識とも違う。こうした感情を他者にかけるのは、相手が自 分にとって特別な存在だからだ。われわれは配偶者や家族を愛し、自分を重ねられる相手 に共感を覚え、友人や仲間に連帯感を持つ。 しかしカントの言う尊敬は、人間性そのものへの尊敬であり、すべての人に平等に備わ っている理性的な能力への尊敬だ。だから自分自身の人間性を侵害するのは、他者の人間 性を侵害するのと同じように好ましくない。だからこそカントの尊敬の原理は、普遍的人 権主義に一役買っているのである。カントにとっては、すべての人間の人権を守ることが 正義だ。相手がどこに住んでいようと、相手を個人的に知っていようといまいと関係ない。 ただ相手が人間だから、合理的推論能力を備えた存在だから、したがって尊敬に値する存 在だから、人権は守られるべきなのだ。 道徳と自由 ここで、カントの考える道徳と自由のつながりが見えてくる。道徳的に行動することは、 義務から行動することーーー道徳法則のために行動することだ。道徳法則を構成しているの は定言命法である。定言命法は、人格自体を究極目的として尊重することを求める原則だ。 定一言命法に従って行動しているときのみ、私は自由に行動している。仮言命法に従ってい
を理性的な存在として拘束している法則があると考えればいいのだ。それは何だろうか。 カントは定一言命法をいくつかの表現で定式化している。彼の考えでは、どれもつまると ころは同しである。 定一言命法その 1 【自分の格律を普遍化する 一つ目は、カントが普遍的法則の方式と呼ぶものだ。「汝の意志の格律が、つねに同時 ン ( 四 ) 力に普遍的法則となるように行為せよ」。カントの言う「格律」とは、行動の理由となる規 則や原理のことだ。つまり彼は、万人に当てはめても矛盾が生しないような原則のみに従 工 ヌ マ うよう求めている。この抽象的試験のような表現でカントが言わんとしていることを理解 するために、具体的な道徳問題を一つ考えてみよう。守れないとわかっている約束をする 機のは、果たして正しいだろうか。 私がひどく金に困っていて、あなたに金を貸してくれと頼んだとしよう。すぐに返せな の いことは自分でもよくわかっている。この場合、すぐ返すという嘘の約束、守れないとわ 重 かっている約束をして金を貸してもらうのは、道徳的に許されるだろうか。嘘の約束は定 5 言命法と一致するのか。カントの答えは当然、否だ。嘘の約束が定言命法と相容れないか 第 どうかは、自分が行動の基準としようとしている格律が、普遍的法則となりうるかを考え てみればわかる。 なんじ
はめ、かつ自分もその格律に従って行動し続けられるかどうかを考えることは、それがも たらす結果を予測するための方法ではなく、自分の格律は定一一 = ロ命法と一致しているかどう かを知るための試験だ。嘘の約束が道徳的に誤りなのは、それがひいては社会の信頼を損 なうからではなく ( そうなる可能性は大いにあるが ) 、他者の要求や欲望よりも、自分の 要求と欲望 ( この場合は金 ) を優先しているからだ。つまり普遍化という試験は、自分が 取ろうとしている行動が、ほかのすべての人の利益や状況よりも、自分の個人的な利益と ン カ状況を優遇するものかどうかを調べる強力な道徳的方法なのである。 工 ヌ 定一言命法その 2 【人格を究極目的として扱う マ イ 定一 = ロ命法が持っ道徳の力は、二つ目の方式によって、さらに浮き彫りにされる。それは、 ← 人間性を究極目的にせよというものだ。カントは、定言命法の第二方式を次のように説明 動 する。道徳法則の基準を特定の利益、目的、あるいは目標に置いてはならない。そのよう の なな基準は、その当事者にしか該当しないからだ。「しかしそれ自体に絶対的価値があるも 重 の」、それ自体を究極目的とするものがあるなら、「そのなかに、もっと言えばそのなか ( 幻 ) 章 にだけ、定一言命法となりうるものの根拠が存在する」 第 絶対的な価値を持ち、それ自体が究極目的となるものとは何だろうか。カントの答えは 人間性だ。「私は人類、そしてすべての理性的な存在は、その都度の意志によって恣意的
( もしくは母親 ) がこうした状況でどう感じるかではなく、人格を尊敬に値する理性的な 存在として扱うとはどういうことかだ。思いやりの観点から見た場合と、カントの言う尊 敬を重視した場合とでは、答えはおのずと変わってくる。定言命法の観点からすれば、母 親の気持ちを気遣って嘘をつくのは、母親を理性的な存在として尊敬しているのではなく、 心の安らぎのための手段として使っていることになる。 ン カ 疑問その 2 【カントは、義務を果たすことと自律的に行動することは同じだと主張してい るようだが、そのようなことがありうるだろうか。義務に従うことは、法則に従うことだ。 工 ヌ 法則に従属することを自由と呼べるだろうか。 マ イ 機答え【義務と自律が両立するのは、特別な場合ーー従うべき法則をつくったのが自分であ る場合のみだ。自由な人格としての私の尊厳は、道徳法則に支配されていることではなく、 の 私が「まさにその法則」を定めた者であり、「それのみを根拠として、その法則に従って 重 いる」ところにある。定言命法を遵守することは、自分が選択した法則を遵守することだ。 章 「人間の尊厳は、普遍的法則をつくる能力にある。ただし、その場合は自分のつくった法 第 則に自分自身が従っていなければならない
214 カントは罪のない嘘を認めない。それは結果主義的な発想から、道徳法則に例外をつく ることだからだ。他者の感情に配慮するのは立派な目的だが、この目的は定言命法と一致 した方法、つまり自分だけでなく、全員に採用してもらいたいと思える原理に従って追求 するべきだ。もっともな目的だからという理由で例外を設けていたら、無条件に適用され るという道徳法則の性質が破綻してしまう。しかし真実だが誤解を招く表現なら、そのよ うな形で定言命法を脅かすことはない。カント自身も、苦しい選択を迫られたときにこの 手を使った。 カントならクリントン大統領を弁護したか コンスタンとの応酬からさかのぼること数年前、カントは。フロイセン国王フリードリヒ ・ヴィルヘルム二世を相手に窮地に陥ったことがあった。国王と同国の検閲官たちは、宗 教についてのカントの著作がキリスト教を中傷していると考え、宗教に対する発言を控え るよう彼に求めた。そこでカントは慎重に言葉を選んで、次のような声明を出した。「現 しもべ 国王陛下の忠実な僕として、私は今後、宗教を題材にした一般講演や論文の発表をいっさ い控えることにいたします この声明を出したとき、カントには国王の命がそう長くないことがわかっていた。数年 後に国王が亡くなると、カントはもうこの約束に縛られる必要はないと考えた。約東は
最大幸福の問題点朧 自由とは何か 人格と物 道徳的か否かを知りたければ動機を見よ 道徳の最高原理とは何か 定言命法対仮言命法 道徳と自由 カントへの疑問 セックスと嘘と政治 第 6 章 平等の擁護・ーージョン・ロールズ 契約の道徳的限界 同意だけでは不十分な場合ーーベースポールカードと水漏れするトイレ 同意が必須ではない場合ーーーヒュームの家とスクイジー・マン 利益か同意か ? 自動車修理工サムの場合蜥 完璧な契約を想像する 正義のニつの原理圸 道徳的恣意性の議論 平等主義の悪夢 179 2 引
196 に使うための単なる手段としてではなく、それ自体が究極目的として存在すると考える」。 これが人格と物との決定的な違いだとカントは指摘する。人格は理性的な存在であり、相 対的な価値だけでなく、絶対的な価値、本質的な価値を持つ。つまり理性的な存在には尊 厳があるのだ。 この理屈から、カントは定一一一一口命法の第二方式を提示する。それは、「汝の人格において も、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に 目的として扱うように行為せよ」。これは人間性を究極目的と見なす方式である。 再び嘘の約束の例を考えてみよう。定一 = ロ命法の第二方式は、嘘の約束が誤りである理由 を少し異なる角度から説明している。すぐに返せないとわかっていながら、返すから金を 貸してくれと頼むのは、相手を操っていることになる。相手を自分の財布扱いし、尊敬に 値する目的として扱っていない。 次に自殺の例を考えてみよう。興味深いことに、殺人も自殺も定言命法とは相容れない。 しかも理由は同じだ。殺人と自殺は、道徳的にはまったく別の行為だとみなされているこ とが多い。他人を殺すのは、相手の命をその意志に反して奪うことだが、自殺は本人の選 択だ。しかし人間性を究極目的として扱うというカントの考え方に従えば、殺人も自殺も い。ない。たとえば殺人を犯す人は、何らかの個人的な利益のために相手の命を奪う。 その利益とは、銀行強盗をすることかもしれないし、自分の政治権力を強固にすることか