134 反論その 1 【公正と自由 最初の反論は、限られた選択肢しかない人間にとっては、自由市場はそれほど自由では ないというものだ。極端な例を考えてみよう。橋の下で暮らすホームレスは、ある意味で は自分でそう生きる道を選んだのかもしれない。しかし、われわれは彼の選択が自由なも のだとは必すしも考えない。また、彼は部屋で寝るより橋の下で寝るほうが好きなのに違 いないと想定するのは、まともではない。彼がそうすることを選んだのは、野外で寝るの が好きだからなのか、それとも部屋を借りる金銭的余裕がないからなのかを知るには、彼 の境遇について何かしら知っていなければならない。彼がそうしているのは自分の意思な のか、それとも必要に迫られてなのか。 市場における選択一般について、同し問題を問うことができる。人びとがさまざまな仕 事を引き受ける際の選択も、そこに含まれる。兵役について考える場合、この問題はどう いう形をとるだろうか。背景となる社会状況についてもっと情報がないと、志願兵制が正 義にかなっているのかいないのかを決めることはできない。妥当なレベルの機会の均等は 確保されているのだろうか、それとも、人生の選択肢がないに等しい者もいるのだろうか。 すべての人が大学教育を受ける機会に恵まれているのだろうか、それとも、大学に行くに は軍隊に入るしかない者もいるのだろうか。
市場の論理という観点からすれば、志願兵制の魅力は大きい。強制的な徴兵が避けられ るからだ。兵役も合意の上ということになる。しかし、全員が志願兵からなる軍隊に所属 していても、軍隊に入っていない人と同じくらい兵役が嫌いな者もいるかもしれない。貧 困や経済的ハンディが社会に広がっている場合、軍隊に入るという選択は選択肢がない状 況の表われにすぎない可能性がある。 この反論にしたがえば、志願兵といっても志願の気持ちは意外に強くないかもしれない ということになる。それどころか、志願兵制には強制という側面があるのだ。社会のなか でほかにましな選択肢がない場合、兵役に就くのを選ぶ者は、実質的には経済的必要性に 迫られて徴兵されるようなものだその場合、徴兵制と志願兵制の違いは強制か自由意思 市かという違いではない。双方の強制の仕方が違うのであるーー前者は法律の力によって、 一後者は経済的な圧力によ「て強制されるのだ。報酬のために兵士になるという選択がみす っ からの意思によるものであり、選択肢が限られているためにやむをえす選んだわけではな 助 わいと言えるのは、まともな仕事がある程度選べる状況があってこそなのだ。 雇 現在の志願兵の出身階級の構成を見れば、少なくともある程度、こうした主張を裏付け 4 られる。戦地勤務の新兵には、低所得者層から中所得者層 ( 平均世帯収人が三万八五〇ド ( 8 ) 第 ルから五万七八三六ドル ) の多い地域出身の若者がすば抜けて多い。最も少ないのが、下 位一〇パーセントの貧困層 ( 必要な教育や技能が欠けている者が多い ) と上位二〇パーセ
の人の本性に適した社会的役割を与えることだ。 現代の政治理論は、適性という概念とは相性が悪い。カントからロ ] ルズにいたるリべ ラル派の正義論の悩みの種は、目的論的構想と自由が相容れないことだ。リべラル派の正 義論では、正義は適性ではなく選択にかかわる。権利の割り当ては、その人の本性に合っ た役割を割り振ることではない。人びとにみすからの役割を選ばせることだ。 この観点からすれば、目的と適性という概念は疑わしく、危険でさえある。どんな役割 テが私に合っているかとか、私の本性にふさわしいかとか、誰冫、 こ決める権利があるというの スだろうか。自分の社会的役割を自分で選ぶ自由がなければ、みすからの意志に反した役割 を押しつけられることも十分にありうる。そのため、ある集団がなんらかの理由で従属的 役割に適していると権力者が判断すれば、適性という概念は容易に奴隷制につながってし るまう。 噸そうした憂慮から、社会的役割は適性ではなく選択にしたがって与えられるべきだと、 リべラル派の政治理論は主張する。その人の本性にふさわしいと思われる役割を他人が割 り振るのではなく、本人にみすからの役割を選ばせるべきだというのだ。この考え方にし 8 たがえば、奴隷制は間違っている。なぜなら、本人が選んでいない役割を人に押しつける からだ。解決策は、テロスと適性の倫理を捨て、選択と合意の倫理に従うことだ。 だが、そう結論づけるのは性急すぎる。アリストテレスの奴隷制擁護論は、目的論的思
正は善に優先するというロールズの主張は、「道徳的人間は、みすから選んだ目的を持 っ主体である」という信念を反映している。われわれは道徳的行為者として、目的ではな く選択能力によって定義されるのだ。「何よりもますわれわれの本性を明らかにするもの は、われわれの目標ではなく」、正の枠組みである。目標を捨象できるとした場合に、わ 「なぜなら自己は、自己によって確定される目的に先立っ ンれわれが選ぶはすの枠組みだ。 ジ存在だからだ。最優先の目標でさえ多数の候補のなかから選ばなければならない : の れゆえ、われわれは目的論の教理が提示する正と善の関係を逆転させ、正を優先して見る べきなのである」 善き生の概念に対して正義は中立的であるべきだという考え方は、人間は自由に選択で はきる自己であり従前の道徳的束縛から自由であるという発想を反映している。こうした考 もえ方が、すべてまとめて、現代のリべラル政治思想の特徴である。「リべラル」という言 コンサーヴァティブ 葉によって私は、アメリカの政治論争で使われる場合とは異なり、「保守主義」の対語を 意味しているわけではない。実のところ、アメリカの政治論争の顕著な特徴の一つは、中 立的国家と自由に選択できる自己という理想が、さまざまな政治思想に広く見られること 9 だ。行政府と市場の役割をめぐる論争の多くは、個人がみすからの目的を追求できるよう 第 にする最良の方法をめぐる論争である。 平等主義のリべラル派のお気に人りは、市民的自由と、社会・経済における基本的権利
て他者の政治的権力に従うことは誰にもありえない」 その一世紀後、イマヌエル・カントが、選択する自己のさらに強力なタイ。フを提示した。 功利主義と経験主義の哲学者に対抗し、カントは、われわれはみずからを単なる嗜好や欲 求の塊以上のものと考えるべきだと主張した。自由とは自律的ということであり、自律的 ンとはみすから与えた法により統治されることだ。カント流の自律は、同意よりも厳しい ジ私が道徳法則を望むとき、単に偶発的な欲求や忠誠心に従ってそれを選ぶわけではない。 誠個人的利害や愛着から一歩距離を置き、純粋で実践的な理性の主として法則を望むのだ。 二〇世紀に人り、ジョン・ロールズはカントの自律的自己の概念を取り入れ、みすから の正義論に利用した。カント同様ロールズも、われわれの選択はしばしば道徳的には恣意 何 的な偶発性に左右されると述べた。たとえば、ある人が労働条件の劣悪な工場で働くこと もを選んだとすれば、それは切迫した経済上の必要の反映であり、どう考えても自由な選択 負ではないだろう。つまり、われわれが社会を自由意志によって運営したいと思っても、真 の同意に基づく社会をつくるのは不可能だ。われわれが代わりに問うべきなのは、個人の 関心と利益を脇に置き、無知のべールに覆われたまま選ぶとしたら、どんな正義の原理に 9 同意するかということである。 第 カントの自律的意志という発想とロールズの無知のべールに覆われた仮説的同意という 発想には、以下のような共通点がある。いすれも道徳的行為者を独自の目的や愛着から独
402 ートナーと結婚する」権利だとマ 人が選択する権利、つまり、原告が「みすから選んだパ シャルは説く。 だが、自律と選択の自由だけでは、同性婚の権利を正当化するのに十分ではない。仮に、 自発的に結ばれたあらゆる親密な関係の道徳的価値について行政府が真に中立的だとすれ ば、国や州には、結婚を二人に限る根拠がなくなる。合意による一夫多妻あるいは一妻多 夫も認められる。実際、もし、国や州が真に中立であろうとし、個人が望むどんな選択も 尊重するならば、マイケル・キンズレ ] の提案を採用し、あらゆる結婚の承認から手を引 くべきだ。 同性婚論争の真の争点は選択の自由ではなく、同性婚が名誉とコミご一ティの承認に値 するかどうかーーーっまり、結婚という社会制度の目的を果たせるかどうかだ。アリストテ レスの言葉で言えば、問題は地位と名誉の正しい分配である。社会的承認にかかわること なのだ。 選択の自由を強調したにもかかわらす、マサチ = 】セッツ州最高裁判所は、一夫多妻と 一妻多夫の結婚に道を開く意図はないことを明確にした。行政府はある形の親密な結びつ きには社会的承認を与え、別の形には与えなくてもいいという考え方について、裁判所は 疑問を呈さなかった。結婚の廃止すなわちディスエスタブリッシ = メントも求めなかった。 それどころか、マーシャル裁判長は結婚を絶賛し、「われわれのコミご一ティの最も有
378 ある自己としてのわれわれの本性を反映しているのだ。 そうしたことのすべてが正義とどのようにかかわるのか、疑問に思えるかもしれない。 その疑問に答えるために、そもそもこの方向にわれわれを導いた問いを思い出してみよう。 われわれはこれまで、人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか、解 明しようとしてきた。私は、できないと主張してきた。われわれは、選択とは無関係な理 由で連帯や成員の責務を負うことがある。それは物語と結びついた理由であり、その物語 を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミご一ティについて解釈するのである。 道徳的行為の物語的説明と、意志と同意を強調する説明とのあいだのこの論争の争点は いったい何だろう。争点の一つは、人間の自由をどうとらえるかという問題だ。連帯と成 員の責務の好例とされる事例について考えをめぐらすうちに、それらに対して反感を抱い ていることにあなたは気づくかもしれない。あなたが私の教え子の大半と似ているならば、 人間はみすから選んでもいない道徳的絆に縛られているという考えを嫌悪するかもしれな いし、信しないかもしれない。そのせいで、愛国心、連帯、共同責任などの要求をはねっ けるようになるかもしれない。あるいは、そうした要求をなんらかの合意から生するもの こうしたはねつけや再定義に気持ちが傾くのは、そうす として定義し直すかもしれない。 れば、自由というなしみ深い考えと矛盾しなくなるからだ。これは、人間はみすから選ん でもいない道徳的絆には縛られないという考え方である。自由であるということは、自分
マーシャルは判決文の冒頭で、この問題が提起する根深い道徳的・宗教的不一致を認め、 裁判所はこの論争においていすれの側にも与しないことをにおわせている。 多くの人が、根強い宗教的・道徳的・倫理的信念によって、結婚は男性と女性の結び つきに限られるべきであリ、同性愛は不道徳な行為だと考えている。多くの人が、同 じくらい強い宗教的・道徳的・倫理的信念によって、同性のカップルにも結婚の権利 はあるし、同性愛者も、異性愛者の隣人と少しも違わない処遇をされるべきだと考え ている。どちらの見解も、われわれの目の前にある問いに答えてはいない。「われわ れの責務は万人の自由を定義することであり、自分たちの道徳律を強制することでは ない」 善 共 マーシャルは法廷で、同性愛をめぐる道徳的・宗教的論議に踏み込むのを避けるかのよ と 義うに、道徳問題をリべラル派の用語を使って表現したーーー自律と選択の自由の問題と言っ たのだ。同性カツ。フルを結婚から排除するのは、「法の下での個人の自律と平等の尊重」 章 と相容れないと、彼女は書いている。もしも州が「独占的なかかわり合いを共有する相手 第 を選ぶ自由を個人に与えない」ならば、「結婚するかどうかを決めたり、誰と結婚するか ( 引 ) を選んだりする」自由は、「有名無実となる」。問題は、選択の道徳的価値ではなく、個
156 をもたらす取引は支持されるべきである。 では、先の反論について読者はどう考えるだろうか。これらの反論はどれほどの説得力 があるだろう。 反論その 1 【瑕疵ある同意 最初の反論は、メアリー ・ベス・ホワイトヘッドによる契約への同意が、本当に自発的 なものと言えるかということだった。ここでは、人びとが選択をなす際の状況について門 題が提起されている。つまり、自由な選択が可能となるのは、不当な圧力 ( たとえば金に 困っていることを原因とするもの ) にさらされていない場合にかぎられるし、別の選択肢 についてもある程度の情報がある場合だというのだ。何をもって不当な圧力とし、また情 報を得たうえでの同意の欠如とするかには、議論がある。だが、こうした議論で肝心な占 は、自発的とされる同意が本当に自発的なのはどんな場合か、また自発的ではないのはど んな場合かを判断することだ。これはベビー事件における大きな問題だった。志願兵制 についての議論でも同様である。 これらの事例を一歩退いて眺め、有意義な同意に必要な背景条件をめぐるこうした議論 は、実は正義に対するあるア。フローチの内部での争いだと知ることが大切である。それは 本書で取り上げる正義への三つア。フローチのうちの一つで、正義とは自由を尊重すること
らに重要なのは、自由についてのカントの解釈が、正義をめぐる現代の議論にも頻繁に登 場することだ。本書の導入部で、私は正義へのア。フローチを三つ挙げた。一つ目は功利主 義者のア。フローチで、福祉、すなわち社会全体の幸福を最大化する方法を考えることで、 正義を定義し、なすべきことを見きわめる。二つ目のア。フローチは、正義を自由と結びつ リバタリアンは、完全な自由市 ける。これはリバタリアンを例に考えるとわかりやすい 場で財やサービスを自由に交換することが、収入と富の正義にかなう分配につながると考 かえる。市場を規制することは、個人の選択の自由を侵すことになるので正義にもとる。三 つ目のア。フローチは、道徳的な観点から見て人びとにふさわしいものを与えることーー美 工 ヌ 徳に報い、美徳を促すために財を与えることを正義とみなす。美徳に基づくア。フローチは、 マ イ 第 8 章のアリストテレスのくだりにあるように、正義を善き生に関する考えと結びつける。 機 カントは、一つ目のア。フローチ ( 福祉の最大化 ) と三つ目のア。フローチ ( 美徳の奨励 ) 動 を認めていない。彼の考えでは、どちらも人間の自由を尊重していないからだ。彼が熱心 の に勧めるのは、正義や道徳を自由と結びつける二つ目のア。フローチだ。しかし、カントが 要 重 定義する自由は厳格だ。市場で物を売買する際の選択の自由よりも厳しい。カントに言わ 章 せれば、大多数の人が市場の自由や消費者の選択だと考えているものは真の自由ではない。 第 なぜなら、そこで満たされる欲望はそもそも、自分自身が選んだものではないからだ。 カントの崇高な自由観については、もうしばらく後で検討するとして、ますは幸福を最