それにしても唯一神を信じる人たちの間のもめごとには、ほとほと愛想が尽きた。それ が私の本音である。唯一神が存在する世界の欠点は、しばしば人間が神を演じることであ る。自分が「正しいーというからである。そういう人たちには、たとえ唯一神を信じるに しても、真実は神のものだということを思い出させるべきであろう。誰が正しいか、そん なことは結局はわからない。われわれにわかるのは、大勢の人たちが、人の手によって 次々に死んでいくことである。その一部でも防ぐことは、人の手でできるはずである。な ぜなら殺していくのは人だからである。 平和主義は理想主義で、現実主義ではないといわれる。そう思う人は、現実があると思 っているのであろう。現実とは人の脳が作り出す物語に過ぎない。脳を変えれば現実が変 わる。少しでも脳を知れば、それは当たり前のことである。 今度の事件も歴史書の上で繰り返し要約されるであろう。しかしその事実を知るのは、 まさに神のみである。人々はそれそれの物語を語るであろう。それが結局は幸福の物語に なりそうもないことが、私を苛立たせるのである。 100
中の人間が世界を渡り歩くわけではない。渡り歩くから普遍的だというわけでもない。人 間は多少とも部族的で、ユダヤ人もその例外ではない。部族性が欠けていたなら、すでに 「ユダヤ人ーは存在していないはずである。部族性が部族性を批判するから、私は政治や 外交を好まない。 日本国首相が日本国のために殉じた人を祀るのは部族的である。部族が部族の習俗を維 持することは、部族がある以上は当然である。いまだに生け贄を捧げているというのなら ともかく、話はすでに死んでしまった人のことである。 ここにも部族問題が露呈している。日本の世間では、死んだ人は人ではない。 日本の世 間は死者をただちに仲間から排除することで成立している。死者を隠語でホトケと呼ぶ。 告別式で塩を撒く。ただちに戒名を与える。そうしたことをよく考えたらわかるはずであ る。そのかわり東郷神社になり、乃木神社になる。 ちゅうたっ 本「死せる孔明生ける仲達を走らす」。逆に中国では、死者もまた人であり、したがって政 の治の対象となる。それが祖先崇拝にも通じる。それならまさしく文化摩擦が生じておかし て しくない。だれを「人ーと見なすか、つまり仲間と見なすか、それが部族の根底をなしてい 族るからである。 死者を人と見なさない。 これは日本世間の原則だが、きわめて特異な原則であることに にえ 219
ルに刻んであると聞いた。碑はできたが、大学の教授会は、学内にそれを建てることを認 めなかった。ただ世話する人があって赤門前の私有地に建っている。 これについても、どうこういう気はない。しかし人々は「国」というが、私はそんなも のは果たしてあるか、という気持ちをしばしば持つ。学徒出陣を命じたのは国である。検 定をやっているのも国であろう。そんな実体が果たしてどこにあるか。検定をする人たち があり、碑を建立したい人たちがあり、それを断る人たちがある。それだけではないのか。 あなたはどちらか。それを大衆の面前で訊けば、つるし上げになる。どういう意見を持と うが、それはかまわない。しかしすべては国ではなく人のする行為だということ、それだ けは記憶してほしいと思う。
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たしかに個性は存在する。その人限りのもの、それはいくらでもある。医学の分野でい うなら、私の心臓は私一人のものである。それを他人に移植することはできる。しかし実 際には、免疫を抑制しなければ、決して定着しない。身体はその心臓が「自分ではない」 と、「だれにも教わらずに」知っているのである。だから免疫系は、移植された心臓を追 い出そうとする。それを個性という。親の皮膚を子どもに移植する。これも定着しない。 親からすれば水くさい話だが、子どもの身体は親の皮膚すら拒否する。それそれの人の身 体は、本来その人限りのものである。それが免疫には典型的に表れている。 世間で個性があると見なされるのは、どういう若者か。高橋尚子、松井、中田、貴乃花、 等々。それなら身体を使う仕事をする人たちではないか。あとの若者はたいてい「その他 大勢」に属する。タレントも有名ではないか。若いタレントに個性があるか。モー娘の区 あ 性別がつくか。 と教育に個性という言葉を持ち込んだとき、この言葉は身体に該当すると思った人がいな 組かったらしい。教育は「頭の教育」たと、ほとんどの人がまさに「頭からー信じていたか ならであろう。教養とは「身につけるーものである。「身」とは身体ではないか。躾という の 的文字もまた、同じ洞察から生じているはずだ。「身が美しい」。身体の動きは表現であり、 そうした身体表現の完成した形を、わが国では伝統的に「型ーと表現した。 しつけ 203
って、そこではそもそもオリジナリティーが成立しない。なにがなんだかわからないから である。 モーツアルトの曲は、はじめはこれでも音楽か、といわれたという話がある。しかし、 いまではあれをオリジナルとはいうまい。むしろ西洋音楽の代名詞みたいになってしまっ ている。だれよりも早く、ある形式を創り出す。それがオリジナリティーなら、つまり早 い者勝ちであろう。オリン。ヒックの徒競走みたいなものである。私は若いときから、競争 に興味がない。賭け事もきらいである。競馬、競輪、競艇には関心がない。だからオリジ ナリティーがないのかもしれない。 じつは職業柄、私はきわめてオリジナルな人たちを知っている。そのほとんどは自分自 身の理屈で、自分独自の感情に従い、個性的に行動した人たちである。そういう人たちは たいてい精神科の病院で治療を受けている。ときどきそういう人を理解しようと努力する 倉カほとんどムダに終わる。そういう人であっても、人間の常として、考えがかならずし 独 も固定していないからである。昨日はこういっていたかと思うと、翌日は違うことを主張 磴する。そのそれそれの内容が普通人にはきわめて理解しづらいから、結局は全体としてよ 問くわからないままに終わる。 学 脳のはたらき、すなわち人々がふつうには「心」と呼ぶもの、これは個人間の共通性が
いなら、返事ができる。あのマッタケは、金正日が山に入って自分で採ってきたというも のではあるまい。それなら採ってきた人は、食うや食わずの人たちのはずである。その状 況を考えたら、焼けない。私なら焼かない。 どうするか。好意だけはまずいただき、現物はお返しする。それが礼儀であり、そこで なにをいうかが外交であろう。相手が礼儀もクソもないから、自分もそうなる。それは人 ではない。泥棒にあったから、自分も泥棒になる。そういうものではなかろう。人が人で あることを示すために、本来は儀礼が存在するのである。相手の問題ではない。 いや、まさしくそうであろう 。北朝鮮と 北朝鮮問題自体が戦後の総決算かもしれない。 は、いまだ具体的に存在する日本の戦時である。偉大なるわれらが首領様という言葉一つ をとっても、戦争中を知る人にはわかるはずである。死んだと思った亡霊が、目の前に現 に立ち現れている。古い日本の破片がまだ残っている。これが不発弾の処理で済むのか、 爆発するか。結末は見たくもあり、見たくもなしである。 * 二〇〇二年九月十七日、小泉首相が訪朝し、金正日国防委員長と首脳会談を行う。 176
この人か。北朝鮮か、日本か。 日本人誘拐が北朝鮮の仕業であることは明瞭だが、実行犯に日本人が絡んでいることを 忘れるべきではない。 この面では、日本共同体は「自分たちの仲間が悪いことをしてい る」といいたがらない。村から縄付きは出さない。その心理であろう。あいつらなんて、 日本人じゃない。 とりあえずそう決めこんでいるのか。 戦後五十年という節目の年に、外務省絡みで「不戦決議」が議論されたところにも、そ れがみごとに出ている。あの年はオウムの連中がサリンを撒いた年である。それを知りな がら、戦争みたいなあんなことを私たちはもうしませんという議決をしようとした。 それならオウムとはなんだ。あれは日本人がやったことではないのか。まったくふつう の市民たちが、特段の理由もなく自由意思で集まり、毒ガスを生産して、大量殺人を試み た。それが「日本人じゃない」と、どうしていえるのか。そこに不戦決議とは、能天気も 城きわまるではないか。 人折しも国会は有事関連法案である。瀋陽のおかげで、勢いづいた人もいるらしい。この 垣狭い国内で戦乱がいちばん厳しかった時代、最強といわれる甲州軍団を率いた武田信玄は いっさい論じなかったであろう。 はなんといったか。人は石垣、人は城。有事関連法案など、 さて、人はどこにいるのか。 リ 7
その道の先達なら、まずかならずいるものである。傘張り日記の先達といえば兼好法師 がそうかもしれない。兼好は傘は張らなかったと思うが、原稿料も締め切りもない時代に、 あれこれよく文字を書き連ねたと感心する。 なぜ先達かというなら、今回は学問のオリジナリティーという話題のつもりなのである。 兼好は「先達はあらまほしきもの」と書いたように思う。それならべつに独創を評価して いるわけではなかろう。先達がいないから、やむを得ず自分で独創するのである。 自慢ではないが、私にオリジナリティーはない。そんなものがあったら原稿は売れない。 あまりにオリジナルなものは、誰も理解しない可能性があるからである。誰かが理解する ようなもの、そんなものはオリジナルではないではないか。 現代数学のいくつかの分野は世界で数人しか理解する人がいないという。それをもっと 独創的にすれば、世界で一人しか理解する人がいないという分野ができる。それをオリジ ナルというのは勝手だが、定義により、それを評価できる人がいないことになる。したが 経 済 独 性
久しぶりに頭が暇になった。本が読めるから、そう思う。これまでなぜ忙しかったかと ともかく頼まれ仕事を片付けるだけで精一杯だった。それがや いうと、よくわからない。 っと一息ついたらしい。実際に忙しいというよりも、人生の余裕の問題であろう。気持ち し , いーなのである。 に余裕がない。そういうときには、ただひたすら「にし、思 いくらか余裕ができた。それなら今回は当たり前について考えようと思う。言い換えれ ば、「まともなこと」といってもいい。「まとも」とはなにか。まともな人とは、どういう 人だろうか。 、、。とはいえ「隣のおしさん」がそ こういう話題なら、具体例を挙げたほうがわかりしし 、し , カ / し これならきわめて具体的だとはいうものの、そんなこと れだ、というわけこま、 とういう人か、「隣のおじさん」では、それがわからない。 をいっても一般性がない。。 河合隼雄氏ならどうか。お目にかかると、駄洒落ばかりいうから、いわゆる「まとも かどうか、いまひとっ確信はない。しかしたいへんまともな人だと私は思う。だから文化 まともな人 177