時代 - みる会図書館


検索対象: まともな人
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1. まともな人

それなら歴史的「事実」はないのかというなら、それはすでに述べたように、数行でも いくらでも長くなる。しかし百年も生きられない個人が、数 済む。長くしようと隸えば、 千年の歴史を「事実として」語れるわけがない。ただいま現在の社会でも、全面的に把握 できない人間が、過去を全面的に把握できるはずがないではないか。上高森遺跡の事件は、 歴史家には他山の石であろう。そこでは事実ですら「人が作る」のである。 学生時代の私は、社会的責任を負うのを嫌い、社会に出るのをできるだけ後に延ばそう とする傾向があった。それでも大学院を出たら、あとは就職するしかない。それで助手に なったとたん、だまされた、と思った。つまり学生時代に当然と考え、周囲もそう思って いるはすとしていた考え方が、給料を貰うようになったら、とたんに成り立たないという 事実に、うかつな話だが、はじめて気づいたのである。だまされたというのは、それが職 業人には受け入れられず、受け入れられようもない考えだということを、学業にいそしむ 機長い年月のあいだに、だれも教えてくれなかったことに気づいたからである。 動 る もちろんだまされたわけではない。私の考えがまさに未熟だっただけである。しかし十 受歳年上の私の世代にすでにそういう傾向があったとすれば、紛争世代がああなるのは、ほ 育とんど当然であろう。つまりいわゆる「大人」の考え方と、若者の考え方が、それだけズ レていたのである。

2. まともな人

ろだということを知るようになるであろう。それが事実、私が受けてきた教育だった。い つもいうことだが、私の世代は教科書に墨を塗った。だから教科書の記述が間違っていれ さらにいうなら、墨塗りを指示したのは、当時の文部省だっ ば、記述に墨を塗ればいし たはずである。行政の継続性をいうなら、いまだって墨を塗ればいいではないか。 いいたいの 文部科学省と名前が変わったから、文部省時代のことはわかりません。そう であろうか。残念ながら教育は私のように還暦を過ぎても、本人に影響を与え続ける。そ の根幹に関わる教科書の墨塗りに、文部省はどういう意見を持っているのか。それ自体が まさに「歴史問題」ではないか。だれがやったことでもない、文部省自体がやったことで ある。そこに明確な解答がなくて、どうして検定ができるのか。大学紛争時代なら、私は 文部科学省に対して、「お前ら、自分のやったことを総括せよ」と迫りたくなる。 私は政府に金を出せとか、なにか要求をしているわけではない。余計なことをやめたら どうですか、といっているだけである。それで損をする人はだれか。検定という些細な権 中力をもっていると思っている人だけであろう。つまり文部科学省のお役人と、それにつな いかに動かし、が たがる人たちだけではないか。こうした些細な権力が、些細であるだけに、 たいものか、それを私はよく知っているつもりである。だからあえていう。 あ 誤解のないようにいうが、私は墨塗りを批判していない。あれはたいへんよい教育だっ

3. まともな人

うか、そのあたりのことである。そのなにが気になるのか。まずいちばん大きな背景は、 少子化の根本原因と関係している。少子化ということは、多くの人が子どもはいらないと 思っているということである。 そんなことはない、子育てに適切な環境がないのだ。そういう意見も当然あろう。しか し子育てをしなければ、人類はそもそも存続しない。少なくとも日本社会の存続を考える なら、環境が悪いから子育てができないというのは理由にならない。そんなことを理由に して、子育てを実行しないのであれば、もはや日本人が自分たちの存続をあきらめたとし 力、いいようがないではないか。子育てのほうが、本来は環境よりも優先するはずなので ある。 しかも私自身が育った環境を考えれば、戦中から戦後のあの酷い状況の、どこが子育て に適切かと思う。いまより現実ははるかに悪かった。にもかかわらず、子どもは戦後、む やみに増えた。それが団塊の世代になったわけである。 つまり現代のわれわれは、日本の将来について、悲観的なのである。それは世論調査に も明瞭に出た。子どもたちは、われわれよりも悪い時代を生きる。そう思っている人が、 たしか八割を超えていたはすである。大人が未来をそれだけ悲観的に見ていれば、子育て に人気がなくて当然である。 120

4. まともな人

る。それに対して日本、西欧、米国は、石油時代における新興都市文明である。現在われ われが抱えている問題の多くは、すでに先進地域が、数千年前に経験したことに違いない。 いまではおそらくだれもまじめに読まない古典の内容が、実際に読むと驚くほど腑に落 ちる思いがするのは、じつはそのためである。 都市環境では、若者の教育に時間がかかる。その理由は、すでに述べたことでおわかり であろう。都市は籠の中だから、子どもが上手に、速やかに育たない。 いまでは若者は大 人しく、完全に子ども化した。よくいえば大器晩成、これからゆっくり育つ。 そこまで教育が行き届くまでの切り替わりの時期に、大学紛争が吹き荒れた。あの世代 にはまだ野生ネズミの気分が残っていたのであろう。ところが与えられた環境が籠の中だ けだったから、若者の気に入らなかったらしい すいぶん乱暴に文明史をまとめてしまったが、これが理科系のいいところである。文科 的に論じたら際限がない話が、数行で終わってしまう。ただいま現在では、歴史の教科書 問題がうるさい。あれは歴史を数行で済ませないからである。 未来と同様に過去もまた不確定である。これは英国の小説家ロく ート・ゴダ 1 ドの意見 である。私もかねがねそう思っている。歴史はつねに現在の人間が書く。フランス語では 歴史と物語は同じ単語 h 一 st 三 re になる。現在が変われば、歴史が変わる。

5. まともな人

内は目を丸くしていた。世界はどんどん動く。動かない面は年寄りがよく見る必要がある が、動く面は若者にまかせるしかない。そもそも団塊の世代あたりは現役から引退してい い。私は五十五歳で仕事をやめようと思っていた。解剖学のようにおよそ古臭い学問でも、 六十に近くなれば時代に遅れる。それで年寄りの仕事がなくなるかというなら、いまでも 忙しくて困る。年寄りなりに、することはいくらでもある。 若者ができる仕事を、老人がやっている。これが現在の日本「衰退」の要因の一つであ ろう。イチローや高橋尚子の活躍を見てみればいい。 若者が世界を舞台に活躍できないは すがない。田中長野県知事の良否はともかく、年齢は若い。私はそれを買う。老人は若者 を支え、手伝うのが仕事であって、老人が若者を押しのけたって意味がない。外務省も改 革するなら、せめて四十代以下で固めたらどうか。それが将来、悪い日本を作るようなら もはや手がない。そうなって当然という国に成り下がった。それだけのことである。とも あれ、後生畏るべし。いずくんそ来者の今にしかざるを知らん。 * 二〇〇二年一月二十九日、アフガニスタン復興支援国際会議における zeo 排除問題で、事 態紛糾の末に田中真紀子外相が野中義二外務事務次官とともに史迭された。鈴木宗男議員は二 月四日に衆院議院運営委員長を辞任し、翌月自民党を離党。 116

6. まともな人

籠の中のネズミを教育しようと思っても、相手が教育を受ける動機を持たないのだから、 気合いの入れようがない。水も餌もねぐらも、とりあえずある。それ以上に、なにが必要 、、ことし、つのカ 私が大学院を修了して、はしめて助手になった年の夏休みが終わったとたん、いわゆる 大学紛争が起こった。この騒ぎは、世界中に広がった。な。せ世界中に広がったか、その理 いくつか説はある。 由がはっきりしていない。 その一つが興味深い。この頃から、世界的に子どもたちの教育期間が延長されたという のである。そもそも大学紛争では、騒ぐ主体は二十歳前後の学生である。その年齢なら、 それ以前の時代には、もう水と餌とねぐらを自分なりに確保させられたのである。 私が若い頃もそうだったが、多くの若者が中卒で就職した。職人になる人ならそれで当 然だったし、中卒で工場に就職するのもふつうだった。十六歳ともなれば、女の子はお嫁 に行っておかしくなかった。そういう時代を覚えている人も、まだいるであろう。その年 齢の若者たちを、大学という環境に隔離する。それが世界的に始まったのが大学紛争の時 代たったのである。 なぜそうなったか。それはかって考えたことがある。世界中で都市化が進行したからで ある。都市化が広く可能になったのは、安い石油を大量に供給できるようになったからで

7. まともな人

学習とは文武両道である 学問・経済・独創性 現代こそ心の時代そのものだ 真理をいえば身も蓋もないが 教育を受ける動機がない いいたくないこと Ⅱ 一身にして二世を経る ああすれば、こうなる 34 27 ありがたき中立 原理主義い八分の正義 テロリズム自作自演 鉛筆を拾ってはいけない 脳という都市、身体という田舎 Ⅲ 日本の鎖国か、中国の分割か ヒゲさえ生やせば国士になれる 子どもが「なくなった」理由 多頭の怪物の心がわかるか フ 3 66 124 1 17 1 10 103

8. まともな人

新しい宗教施設を抱え込むなら だれか。外部の施設で行うのであれば、やめたいときにはいつでもやめられる。靖国なら 首相が行かなきや いいのである。国が施設を「抱え込めば」、どういうことになるか。想 像するまでもあるまい。 少なくとも靖国を建てた人たちは、その時代に、建立の必然性を強く感じていたであろ う。いま「それに代わる」場所を作ろうとする人たちの気持ちに、それだけの必然性があ るか。それがなければ、できてくるものの正体の想像すらっくような気がする。 この前の戦争の死者を弔う。それなら私はやはり靖国に行く。死者には中国人も含まれ ている。そう私が考えて靖国に詣でて、なにが悪いのか。祈りも信仰も結局は個人のもの であり、思想と同じように、だれもその内容を強制することはできないのである。 199

9. まともな人

学問・経済・独創性 ようという時代が要請した概念が、一般化された独創性であろう。そんなものを信じたら 被害者になるだけである。優れた論文とは他人の見つけてくれた面白い話だが、それなら 本当に楽しんで読める。とくに私のような老人であれば、面白い論文が出るまで、のんび り傘を張って待てばいい。 、上高森遺跡 ( 宮城県築館町 ) は、日本の前旧石器文化が七十万年前までさかの・ほることを実 証する画期的な遺跡として注目を浴びていたが、二〇〇〇年十月、毎日新聞のスクープにより、 藤村新一東北旧石器文化研究所副理事長が発掘成果を捏造していたことが発覚した。

10. まともな人

その道の先達なら、まずかならずいるものである。傘張り日記の先達といえば兼好法師 がそうかもしれない。兼好は傘は張らなかったと思うが、原稿料も締め切りもない時代に、 あれこれよく文字を書き連ねたと感心する。 なぜ先達かというなら、今回は学問のオリジナリティーという話題のつもりなのである。 兼好は「先達はあらまほしきもの」と書いたように思う。それならべつに独創を評価して いるわけではなかろう。先達がいないから、やむを得ず自分で独創するのである。 自慢ではないが、私にオリジナリティーはない。そんなものがあったら原稿は売れない。 あまりにオリジナルなものは、誰も理解しない可能性があるからである。誰かが理解する ようなもの、そんなものはオリジナルではないではないか。 現代数学のいくつかの分野は世界で数人しか理解する人がいないという。それをもっと 独創的にすれば、世界で一人しか理解する人がいないという分野ができる。それをオリジ ナルというのは勝手だが、定義により、それを評価できる人がいないことになる。したが 経 済 独 性