外交の根幹が成り立つのか。国滅びて、なんの外交か。自分たちが属している組織が、昨 いいたいのだろうが、「今日の 。それを「まともな仕事ーと 日の通りなんとか動けばいし タイエーを見ても、銀行を見ても、そ 仕事は昨日の通り」で済むような世の中ではない。。 れくらいわかっているはずである。まして環境問題をいうまでもなかろう。ひょっとする と外務省関係者は、そんなことは俺には関係がないと思っているのであろう。べつに俺が 儲かるわけじゃない。それが本音か。 大臣を務めた人から、茶飲み話に聞いた。江沢民主席がやってきたとき、歴史教科書問 題に二時間、経済問題に二時間を割いて、首脳会談をするということだった。だから経済 閣僚は待機せよというので、教科書問題が終わるのを待った。そうしたらすでに四時間が る れ 経ってしまい、経済閣僚は待ち。ほうけ。頭に来たから、中国にとって経済は重要な問題で はないんだなということで、その夜に予定された歓迎パーティーには欠席することにした。 士 ばそうしたら外務省の担当官が飛んできて、どうしても出てくださいと頭を下げられた。出 やていたたかないと、私の首が飛びます。私にはまだ大学生の子どもがいてと、とうとうそ えういう話になってしまった。だからパーティーに出たという。つまり国の問題ではなく、 さ ゲ外務官僚の家庭の私事。 湾岸戦争の時だって、日本の対応が遅れたというが、それにはそれなりの理由がある。
学習とは文武両道である 学問・経済・独創性 現代こそ心の時代そのものだ 真理をいえば身も蓋もないが 教育を受ける動機がない いいたくないこと Ⅱ 一身にして二世を経る ああすれば、こうなる 34 27 ありがたき中立 原理主義い八分の正義 テロリズム自作自演 鉛筆を拾ってはいけない 脳という都市、身体という田舎 Ⅲ 日本の鎖国か、中国の分割か ヒゲさえ生やせば国士になれる 子どもが「なくなった」理由 多頭の怪物の心がわかるか フ 3 66 124 1 17 1 10 103
この時評のシリーズは、『毒にも薬にもなる話』『「都市主義」の限界』に引き続い て、私としては本書で三作目になる。他にも時評は書いているが、いまでも連載が続 いているのは『中央公論』だけである。 そのときどきに書いたものは、そのときの自分を反映している。だから読みなおし てみると、過去の自分に出合って、自分でビックリすることもある。出来事の詳細に 触れてある部分では、数年も経っと、知っていたはずのことをすっかり忘れている。 ェッ、そんなこと、あったつけ。 自分で体験していないことは、そういうふうに忘れやすい。そう思うと、現在の政 治経済がよくわからないのも、無理のないことであるかもしれない。ほとんどの出来 事が間接体験だからである。 個人が直接に体験できることは、こ、 オカが知れている。ここに書いたことも、直接の 場合と、間接の場合がある。直接のことしか本当は書かないほうがいいが、そうそう あとがき 228
しかしその経済だって、変といえば変なのである。神戸の震災のあと、労賃が高騰した わけでもなく、資材が不足したわけでもない。い ってみれば、震災の被害はあっという間 に片付いてしまった。これについて、要するに供給能力が有り余っているのだと専門家は 解説する。 経済の高度成長とは、じつはこれまでなら五年かけて作っていたものを、一年で作ると いう面を含んでいる。それなら経済指標はたしかに右肩上がりだが、じつは将来の先取り だから、結局はものが売れなくなる。供給能力が過剰になるからである。現今のいわゆる 不景気には、そうした面が含まれているに違いな、。 いくら供給を増やしても、使うほうにも限度がある。だから物余りで、それなら家を広 くすれ・よ、 をしいとまでいうようになった。学問の話のはずが経済になったのは、要するに同 じことだからである。ある思想は、他の面がその位置に来るまでは、なかなか理解されな それをどんどん先取りしようとすると、ただいまの経済と似たようなことが起こる。 バブルになってしまうのである。 いまは科学の世界でも、競争で新しいことを発見しようとする。それにあまり意味があ るとは思えない。見つかるものは、いずれ見つかる。それを俺が俺がで見つけることはな いし、自分で埋めておいた偽物を見つける必要など、さらにない。それを早く見つけさせ
いまでは患者はたくさんの知識を持っている。しかしそれが本当に役に立つかというな ら、アテにはならない。なにしろ私が医学部の教授をやっていたくらいだから、それはよ くわかっている。問題は知識ではない。智慧である。 日本では、経済のことを「知っている」人が経済の専門家である。医学の知識のある人 が医師。法律の知識のある人が法律の専門家。つまり学問をその対象によって分類してい る。これが変だということは、少し考えたら、わかるはずである。 料理には包丁を使う。包丁の使い方、研ぎ方、選び方には、共通の原則があるはずであ る。学問ではそれを方法論という。包丁をどう扱うか。学ばなくてはならないのは、それ である。経済学を学ぶのではない。経済の取り扱い方を学ぶ。それは女房の扱い方を学ぶ のと、同じか違うか。同じかもしれないし、違うかもしれない。 大学ではそういうことを教えなくてはいけない。私はそう思うが、そうではなくて、医 学を教えたり、経済学を教えたり、法学を教えたりする。これでは役に立たなくて当然で 角ある。べつに学問が役に立っ必要はない。それはわかりきっている。本当に学問そのもの 虫をやるような人が、それなら社会にどれだけ必要か。ほとんどの学生にはそんなものは不 ・フ要である。 カ 包丁の扱い方を覚えたら、それは和洋中華、いずれの台所でも利用できるはすである。 187
ない時間を通過することである。通過していく主体は、二度と同一の状態をとることはな いちごいちえ い。だからすべては一期一会なのである。 教育がそれを忘れて、もはや長いこと経つらしい。現代は情報化社会であり、おおかた の人々はそれでよしとしている。それでも結構だが、そのときに忘れてならないことは、 情報は固定しているが、人は生きて動きつづけているということであろう。情報が変化し ていくのではない。われわれが変化していくのである。それを諸行無常という。鐘は剛体 だから、いっ聞いても同じ振動数で鳴る。つまり同じ高さの音がする。それが違って聞こ えるのは、人の気持ちが微妙に異なってくるからである。それを忘れた世界では、「生き がい」などという妙なものが話題になる。人が変わっていくそのことが、微妙な味わいを 持つ。それが諸行無常の響きであろう。 俺は俺だ。多くの人がそう思って生きているらしい。そんなもの、意識がそう主張して いるだけである。すべては移り変わるが、それを引き起こしているのは自分自身である。 それを忘れて、「生きること」が成り立つはすがない。人間は情報とは違う。停止してい るわけではないのである。 学問とは情報の取り扱いである。つまり生きたものを停め、停めたものを整理する作業 である。そこに大学に行くと馬鹿になるという言葉の真意があろう。それなら経済学が役
庁長官なのであろう。本当にそうだったかどうか、これも私には確信がない。そうだった ような気がする。そのていどである。なぜ「そのていど」かというと、長官であろうがな かろうが、河合氏はそのまま河合氏だからである。 をカにしなしか。そう知り合いが多いわけではない。知っている人の範囲から挙げるし かない。団塊の世代なら、橋本治氏。これ以上「まとも」な人はないというくらい、まと もな人に思える。雑誌『広告批評」に時評を書いておられるが、いつも感心する。 どういうふうにまともか。時評は政治や経済にも触れる。橋本氏は作家で、べつに永田 町や兜町の専門家だなどと、私は思っていない。じつは専門家なのかもしれないが、そう でない可能性が高いと思う。そういう素人が、私つまり橋本治はこう思うと書く。それが たいへんもっともである。素人が自分で判断すると、こういうことになる。それをきちん と書く。それができる人がどのくらいいるかというと、意見を述べる人は多いが、橋本氏 くらいもっともなことをいう人は少ない。 経済についていうなら、先月号の『文藝春秋』にエコノミストの討論が載っていた。そ れを読むと、おたがい同士が意見が合わなくて、喧嘩しているのはわかる。しかし日本の 経済がどうなっているのか、どうすればいいのか、それはついにわからなかった。専門家 というのは、そういうものらしい。橋本氏なら一一一 = ロ、「わからん」と書く。書くのではな
いすれ病気になる可能性はある。それが医師会の殺し文句だが、だれでもいずれかならす 死ぬ。そこはあまりいわない。 医師会に問題があるとすれば、それはどこか。診療報酬の議論ばかりするところであろ う。脳死に関する医師会の意見はどうか。らい予防法についての意見はどうたったか。血 友病患者の感染に対する意見はどうか。どうもあまり聞いた覚えがない。 それに対して、診療報酬は経済の問題であろう。それなら経済関係の人の意見が重要な はずである。脳死やらい予防法やについて、政治経済の専門家集団が意見を述べて も、あまり意味がないような気がする。それどころか、仮に意見をいったとすると、医者 は素人がなにをいうか、というであろう。 それなら自分たちの専門以外のなにものでもない、右のような問題について、医師会は る明確な意見をます述べたらどうか。お金の話はその次ではないのか。 東京大学名誉教授の山本俊一氏が東京大学出版会から『日本らい史』を出版されたとき、 大谷藤郎氏も出席された小さな出版記念会があった。当時私はたまたま出版会の理事長で あったため、同席の栄にあずかった。山本氏ご自身が主催された会ではなかったかと思う。 あ出席者は十人足らずだったと記憶する。初版部数は八百部。 私がなにをいおうとしているか、おわかりの方はおわかりのはすである。しかしもうい
それと経済と、どういう関係があるか。銀行の危機も、どこか似ているという気がする からである。そもそも銀行は駅前に立派な建物を持っている。カプトムシの角である。こ れだけの元手をかけられるのだから、信用できるでしようが。それがだんだん通用しなく なったのであろう。 そもそも土地の価格は、その土地を利用して、どれだけの利潤が上げられるかが、経済 的な基準となるはすである。それだけの利潤が上げられなくなれば、それは余分な負担以 外の何物でもない。頭取の退職金、銀行員の給料も同じである。それだけの給料を払うこ と自体が銀行の信用になっている。退職金を払わない、給料は下げる。それに銀行が抵抗 するのは当然である。カプトムシに角は要らないじゃないかといっていることになるから である。角がなければ、カプトムシではない。だからデパ ートでも、雌のカプトムシの値 やす 段は廉いのである。 190
に立たなくて当然である。経済学説は停止しているが、世間は動いているからである。医 者は患者の検査結果しか見ない。患者は生きて動いているから、面倒くさいのであろう。 いまどきの若い医師は診察が終わるまで、パソコンの画面と紙しか見ていない。それが患 者さんの文句である。それは当然で、大学では「医学」を教えるからである。経済学と同 わいざっ じで、そこには「生きた人間」、つまりたえず変化する、奇妙で猥雑なもの、そんなもの が入り込む余地はな、。 ほとんどの医師は、論文を書こうとする。学位を貰うためには、それが必要だからであ る。さらにそうした論文を書くのがもっとも得意な人が、大学では偉い医師になる。しか し論文をいくら集めても生きた人にはならない。そんなことはあたりまえであろう。論文 はそのまま停止しているが、患者は生きて動いているからである。 生きた人間を扱 0 ている人を、そろそろ昼間に提灯でも灯して探し回らなくてはいけな 道い時代になったらしい。教育とはまさに生きて動いていく人間を扱うことだからである。 武子ども以上に変化の激しい人間はない。情報化社会の人がなぜ教育が不得意か、以上でお 文 わかりいただけると思うのだが。 習 『中央公論」連載タイトル「鎌倉傘張り日記」。 学