たしかに個性は存在する。その人限りのもの、それはいくらでもある。医学の分野でい うなら、私の心臓は私一人のものである。それを他人に移植することはできる。しかし実 際には、免疫を抑制しなければ、決して定着しない。身体はその心臓が「自分ではない」 と、「だれにも教わらずに」知っているのである。だから免疫系は、移植された心臓を追 い出そうとする。それを個性という。親の皮膚を子どもに移植する。これも定着しない。 親からすれば水くさい話だが、子どもの身体は親の皮膚すら拒否する。それそれの人の身 体は、本来その人限りのものである。それが免疫には典型的に表れている。 世間で個性があると見なされるのは、どういう若者か。高橋尚子、松井、中田、貴乃花、 等々。それなら身体を使う仕事をする人たちではないか。あとの若者はたいてい「その他 大勢」に属する。タレントも有名ではないか。若いタレントに個性があるか。モー娘の区 あ 性別がつくか。 と教育に個性という言葉を持ち込んだとき、この言葉は身体に該当すると思った人がいな 組かったらしい。教育は「頭の教育」たと、ほとんどの人がまさに「頭からー信じていたか ならであろう。教養とは「身につけるーものである。「身」とは身体ではないか。躾という の 的文字もまた、同じ洞察から生じているはずだ。「身が美しい」。身体の動きは表現であり、 そうした身体表現の完成した形を、わが国では伝統的に「型ーと表現した。 しつけ 203
若者の極端な犯罪を見聞きして、しばしば人は心の問題を語る。私はむしろ身体を語り たい。癒しは心の問題ではない。世上伝えられる奇妙な凶悪犯罪もまた、身体がらみであ ることは、 いうまでもない。現代人が抱えているのは、心ではなく、身体の取り扱いの問 題である。現代社会はまさに心の社会、意識中心の社会だから、身体という無意識の声が 聞こえない。オリン。ヒックという騒ぎは、その意味では害悪でしかない。ふつうの人には、 ああした身体の使用はとうていできない。あれは日常とは、まったく無関係なのである。 メタ欲望が肥大するのは、それが単純な身体的欲求を置換するからであろう。しかし単 純な欲求は、単純であるだけに別なものでそれを満たすことができない。別なものでそれ を満たそうとしたとき、無限欲求の地獄におちいる。満腹中枢が壊れているならともかく、 それが機能している人なら、食べ過ぎるはずはない。別な欲望を食べることによって満た そうとして過食におちいる。なぜそうなるかというなら、自分の身体の声が素直に聞こえ てこないからであろう。その意味で、現代こそ心の時代そのものだ、というしかない。 『中央公論』二〇〇一年二月号掲載「欲望の倫理学」。 * * 宮城県仙台市の医療機関で患者の点滴に筋弛緩剤が混入されたとする事件。二〇〇一年一 月、以前勤務していた准看護士が殺人と殺人未遂容疑で逮捕されたが、本人は犯行を否認。
マッサージとは変なもので、要するに精神に影響する。肉体の状態が、精神に直接に影 響することを、これほど明確に示すものはない。それを一部の宗教は嫌うのかもしれない。 マッサージ中に突然怒り出す客というのは、まずいないであろう。平穏な精神は、平穏な 身体から生まれる。 メタ欲望の無限性と身体性は相反する。身体はそもそも有限であり、あらゆる意味で質 素なものである。いくら美食を好んだところで、個人の食欲など、たかが知れている。も いくらでも食べるようになる。しかしだれかがそう ちろん満腹中枢を破壊してしまえば、 をし力ない。しば なったところで、世界が食糧に不自由することはない。メタ欲望はそうま、 しば世界を破壊する危険を孕む。 歳をとったせいか、近頃よくこういうことを思う。身体が統御できないのは若い時代で の のある。力がありすぎて、若者はときどき困ったことになる。七十歳にでもなれば、身体に のり 代関するかぎり、孔子様のいう、己の欲するところに従って矩を踰えずであろう。 時 の いまでは癒しが、ひそかにか、公にか、流行している。もともとこれは宗教が与えてい をたものの一つである。その宗教がはっきりいえば役に立たないから、癒しが流行する。マ 代ッサージも一種の癒しであろう。宗教のいう救いに比較すれば、癒しは軽い。その軽いも のが社会的に要求されるのは、身体の欲求のつつましさを示している。 はら
四月のはじめに、八十歳を超えられた恩師を囲む会があった。そこで恩師の口癖ともい える、人の心がわかる心を教養という、という一一一一口葉にあらためて出合った。いつの頃から ししオしイスラエ か、その言葉が私自身の口癖にもなりつつある。それでどこが悪いと、 ルの人にアラブの人の心がわかるか。その逆は可能か。 教養はものを識ることとは関係がない。やつばり人の心がわかる心というしかないので ある。それがいわば日本風の教養の定義であろう。自分だけの考え、自分だけの理屈、自 分たけの感情、そんなものがあったところで、他人に理解され、共感されなければ、まっ たく意味を持たない。そういう徹底的に「個性的」な心を持つ人は、精神科の病室に入っ ている。それなら個性とは、 いったいなにものか。個性を伸ばすとは、どういうことか。 だれも他人と自分を間違えはすまい。自分の皮膚を、親にすら提供することはできない。 免疫を抑制しなければ、拒絶されるからである。それなら個性は身体にまかせればいし 心こそ人類が共有するものなのである。 「マルコボーロ」一九九五年二月号に掲載された記事「ナチ『ガス室』はなかったーに対し、 米ユダヤ人団体が抗議、同誌は廃刊に至る。 * * 二〇〇二年三月、イスラエル軍が。ハレスチナ自治区に侵攻し、アラファト議長を以後一カ 月余にわたって監禁状態においた。 130
つぎに自分の聴覚で捉えられる。その聞こえ方によって、ふたたび筋運動を調整する。そ の意味では言語であれ歩行であれ、脳における大ざっぱな原理は同じである。 これが「学習」だということは、強調されなくてはならない。なぜなら現代では、たと ヒデオを えば乳幼児教育用のビデオすら存在するからである。まだ寝たままの乳幼児に、。 見せておくという。これが入出力のループになっていないことは、ただちに理解されるで あろう。身体とは無関係に、勝手に視界のなかの事物が動く。それを私は学習とは呼ばな い。これはある種の経験ではあるが、学習ではない。 乳幼児が自分の手をしげしげと眺めている。そうした光景は、人によっては見覚えがあ ろう。その手を乳幼児はいろいろに動かす。その動きと、動きの感覚が、視覚に起こって いる変化と連合する。こうして乳幼児は身体と視覚の関係を理解していく。最終的にはそ れが自己の認識につながっていくとしても、私は不思議とは思わない。 私が大学に入ろうとしていた頃、つまりいまから半世紀近く以前、世間には大学に入る と馬鹿になるという「常識」があった。そういう記憶が残っている。あんたは大学に行く というが、大学に行くと馬鹿になるよ。こうしたことをいうのは、世間で身体を使って働 いている人たちだった。そうした発言の真の意味は、いまではまったくわからなくなって しまったと思う。座って本を読んでいると、生きた世間で働くのが下手になってしまう。
ない限り、そもそも他人に理解できない。ゆえにまったく個人的な心というものがあった としても、それは社会的意味を持たない。ふつうそこに誤解がないか。多くの人は心を自 分独自のものと思うらしいのに、そのくせ同時に、他人の共感を求めるらしいからである。 心とは、つねに共感を要求する。はっきり規定すれば、万人に共通のもの、それが心であ る。 友の喜びをともに喜び、友の憂いをともに憂う。それが真の友だという。そこには、む というものの共通性がはっきり表現されている。なぜ心が自分独自のもの、個性をあらわ すものになったか、それがわからない。「心が通う」ことが大切なのであって、俺の心は 俺だけの心だと頑張っても、他人には関係がない。じつはこのこととオリジナリティーと は、関係があるはずである。 自分だけのものとは、心ではなく、じつは身体である。これはことごとくオリジナルで ある。遺伝子の組み合わせが、クローンを別にすれば、かならず違うからである。将来に わたって、自分とまったく同じ遺伝子の組み合わせが偶然に生じる可能性は、まずないで あろう。 身体は心と違って、個人間の共有性がない。たとえば私の心臓だけが勝手に停まる。だ からどうしても生きていたいと思うなら、他人の心臓を借りてくる必要が生じる。それで
臓器移植が始まったのである。 それなら脳の移植も、と考える人があろう。脳の移植は意味がない。脳は脳だけで生き ているわけではないからである。末梢神経につながっていなければ、脳はまったく機能し ない。知覚と運動という両面に連絡していなければ、脳は意味を持たない。キイボードも 画面もないコン。ヒ = ータと同じである。そういう脳の中に、なにか入っていたとしても、 取り出しようがない。末梢神経をつなぐことができれば脳移植は可能だが、それなら脳移 植ではなく、身体移植になってしまう。脳に対して、残りの身体を移植することになる。 意識の側から見れば、脳のほうが中心だからである。 このあたりは、妙な錯覚が生じやすい。たとえば心臓移植は、ドナーに対する殺人だと いう印象を述べる人がある。しかし移植されたドナーの心臓は生きている。脳中心主義な ら心臓だけが生きていても意味がないと主張するだろうが、それなら臓器移植を殺人だと 性 いうのは、脳中心主義ではないか。移植すれば、ドナーについては、心臓は生きているか 独 らである。脳死を放置しておくと、やがて心臓まで死んでしまう。だから心臓だけをとも 経かく助けよう。ドナーの側からすれば、そう考えることもできる。その際、心臓が生きて いるだけでは生きている意味がないじゃないかと主張するのであれば、それは脳中心主義 学 なのである。脳中心主義なら、脳死を死と認めなければならない。話がややこしいのは、
学習とは文武両道である 学問・経済・独創性 現代こそ心の時代そのものだ 真理をいえば身も蓋もないが 教育を受ける動機がない いいたくないこと Ⅱ 一身にして二世を経る ああすれば、こうなる 34 27 ありがたき中立 原理主義い八分の正義 テロリズム自作自演 鉛筆を拾ってはいけない 脳という都市、身体という田舎 Ⅲ 日本の鎖国か、中国の分割か ヒゲさえ生やせば国士になれる 子どもが「なくなった」理由 多頭の怪物の心がわかるか フ 3 66 124 1 17 1 10 103
脳という都市、身体という田舎 どうやらテロ騒ぎも、 いくらか下火になった。三カ月を過ぎると、その時々の大事件も、 過去のことになる。まことに世は諸行無常である。 あれからいくつか本が出て、テロの筋道がようやく呑みこめた。自分が国際情勢にいか に無知・無関心だったか、それがよくわかる。とはいえ、事件について考えていた大筋を 訂正する必要はなかった。話に詳細が付け加わり、筋書きが複雑化しただけである。 もちろん政治の世界は複雑怪奇、わかったと思っても、さらにそのまた裏があるのだろ うと思う。政治的事件の裏といえば、たとえばジェイムズ・エルロイの『アメリカン・デ ス・トリップ』 ( 文藝春秋 ) が、ケネディ暗殺を扱っている。小説を本当だと信じている わけではないが、こうした「お話」でも、筋書きはなかなか複雑である。 ケネディの暗殺には、マフィアが絡んでいる。それにキーバ奪回をもくろむ亡命キ ーパ人たちと、それを支援する 0 —の一部がさらに絡む。マフィアが関係している理由 は、弟のロ、、、 ート・ケネディ司法長官のためである。ロく ートはマフィアを目の仇にして
私のせいではない。 個性とは身体だが、一般にはそう思われていない。この話題がなぜ重要かというと、若 者を教育するときに、なにを前提にするかという問題があるからである。若い人に個性は 心や思考だと教えるのは可哀想である。若者の頭の中は、それほどものが詰まっているわ けではない。そこで個性を発揮しようとすると、妙なことを無理にすることになる。 たしかに数学や理科系の特殊な分野では、若い人が大きな業績をあけることがある。そ れは考えることができる能力があるからであって、それなら長嶋監督だって貴乃花だって、 オリジナリティーを主張する権利がある。なぜなら運動選手もまた、脳の能力によって選 手になっているからである。卒中になれば、運動はできない。つまり運動とは脳の機能な のである。 独創とは、ほかの人が考えていないことを考えることである。それをオリジナルという ならそれでも結構だが、その考えをほかの人が理解した段階では、考え自体は共有となっ てしまう。学者はときどき、アイディアを盗ったの盗られたのと喧嘩するが、そうした喧 嘩にあまり意味はない。 ェイズ・ウイルスの発見について、アメリカとフランスで先取権論争があり、ついには アメリカ大統領とフランス首相の話し合いにまでなった。この件は本当はフランスの勝ち