目 - みる会図書館


検索対象: アフターダーク
250件見つかりました。

1. アフターダーク

なる。私たちは息をひそめ、テレビの画面を見つめる。次にやってくるはずのものを辛抱強 く待ち受ける。再び唇の震えがある。瞬間的な筋肉のひきつり。そう、さっきと同じ動き だ。間違いない。目の錯覚なんかじゃない。浅井エリの身に、何かが起こりつつあるのだ。 こちら側からただ受動的にテレビの画面を眺めていることに、私たちは次第に飽き足らな くなってくる。自分の目で直接、その部屋の内部を確かめたいと思う。エリの見せ始めたか すかな動きを、おそらくは意識の胎動を、より間近に見てみたいと思う。その意味をより具 体的に推測してみたいと思う。だから思い切って、画面の向こう側に移動してみることにす る。 決断さえすれば、そんなにむずかしいことではない。肉体を離れ、実体をあとに残し、質 量を持たない観念的な視点となればいいのだ。そうすればどんな壁だって通り抜けることが できる。どんな深淵をも飛び越すことができる。そして実際に、私たちは純粋なひとつの点 となり、二つの世界を隔てるテレビ画面を通り抜ける。こちら側からあちら側に移動する。 壁を通過し、深淵を飛び越えるとき、世界は大きく歪み、裂けて崩れ、いったん消失する。 1 5 3

2. アフターダーク

目は仮面の奥に隠されている。しかし彼が何かを凝視していることは、気配でわかる。 たい何を、それほど熱心に見つめているのだろう ? 私たちの思いにこたえるように、テレ ビ・カメラは男の視線をたどって移動していく。その視線の先には、べッドがひとっ置かれ ている。簡素な木製のシングル・べッドーーそこに浅井エリが眠っている。 私たちはこちらの部屋に置かれている無人のべッドと、テレビの画面に映っているべッド とを見比べてみる。細部をひとつひとっ比較してみる。どう見てもそのふたつは同一のべッ ドだ。べッドカバーも同じべッドカバーだ。しかしひとつのべッドはテレビの画面の中にあ り、もうひとつは , 。ちらの部屋にある。そしてテレビの中にある方のべッドに、浅井エリが 眠っている。 たぶんあちらが本物のべッドなのだろうと、私たちは推測する。本物のべッドは、しばら く目を離しているあいだに ( 私たちがこの部屋を離れてから、二時間以上が経過している ) 、 エリごとあちら側に運びさられてしまったのだ。こちらには身代わりのべッドが残されてい るだけだ。おそらくは、そこにあるはずの虚無のスペースを埋めるためのしるしとして。 異なった世界のべッドの上で、エリはこの部屋にいたときと同様、昏々と眠り続けてい 127

3. アフターダーク

を作り出している。とりあえず私たちは判断を保留し、その状況をありのまま受け入れるし かなさそうだ。彼を「顔のない男」と呼ぶことにする。 カメラのアングルは今ではひとつに固定されている。カメラは「顔のない男」の姿を正 面、 いくぶん下方から見据えたまま動かない。茶色のス 1 ツを着た男は身動きひとっせず、 テレビのプラウン管から、ガラス越しにこちら側を見ている。つまり彼は向こう側から、私 たちのいる部屋の中をまっすぐのぞき込む格好になっているわけだ。もちろん彼の目は、艶 のあるミステリアスな仮面の奥に隠されている。しかしそれでもその視線の存在を、その重 みを、ありありと感じることができる。彼は揺らぐことのない決意を持って、前方にある何 かを見つめている。顔の角度からすると、どうやら浅井エリのべッドのあたりを見つめてい るようだ。私たちはその仮説的な視線を注意深く辿ってみる。そう、間違いない。仮面の男 がかたちのない目で見つめているのはやはり、こちら側のべッドで眠り続けているエリの姿 だ。というか、彼は最初から一貫して、彼女の姿だけを眺め続けてきたのだ。その事実を私 たちはここでようやく理解することになる。彼にはこちらを見通すことができるのだ。テレ ビの画面は、こちら側の部屋に向かって開いた窓として機能している。

4. アフターダーク

姉妹なのだから。 彼女は身をかがめて、エリの唇に短く口づけをする。頭を上げ、姉の顔を再び見下ろす。 心の中に時間を通過させる。もう一度ロづけをする。今度はもっと長く。もっと柔らかく。 一字違い。彼 なんだか自分自身とロづけしているみたいだ、とマリは感じる。マリとエリ、 女は微笑む。そして姉の身体のわきで、ほっとしたように身を丸めて眠る。姉と少しでも密 着して、身体のぬくもりを伝え合おうとする。生命の記号を交換し合おうとする。 エリ、帰ってきて、と彼女は姉の耳元で囁く。お願い、と彼女は言う。それから目を閉 じ、身体の力を抜く。目を閉じると、柔らかな大波のように、眠りが沖合からやってきて、 彼女を包み込む。涙はもうとまっている。 窓の外は急速に明るさを増している。窓に下ろされたシェードの隙間から、鮮やかな光の 筋が部屋に入り込んでくる。古い時間性が効力を失い、背後に過ぎ去ろうとしている。多く の人々はまだ古い言葉を口ごもり続けている。しかし姿を見せたばかりの新しい太陽の光の 中で、言葉の意味あいが急速に移行し、更新されようとしている。たとえその新しい意味あ いのおおかたが、当日の夕暮れまでしか続かないかりそめのものだとしても、私たちはそれ 280

5. アフターダーク

「じゃあこれから一路、哲学堂に向かいます」 「少し寝るかもしれないから、近くに着いたら起こしてもらえるかな ? 」と白川は言う。 「通り沿いに昭和シェルのガソリンスタンドがあって、その少し先なんだけど」 「わかりました。ごゆっくり 白川は牛乳とヨーグルトの入ったビニール袋を鞄の横におき、腕を組んで目を閉じる。た ぶん眠りは訪れないだろう。しかしうちに着くまで、運転手とこのまま世間話を続ける気に はなれない。彼は目を閉じたまま、何か神経にさわらないことを考えようとする。日常的な こと、深い意味のないこと。あるいはただ純粋に観念的なこと。しかしひとっとして思いっ けない。空白の中で、ただ右手の鈍い痛みを感じる。それは心臓の鼓動にあわせて疼き、海 鳴りのように耳に響く。不思議だな、と彼は思う。海なんてずっと遠くにしかないのに。 白川の乗ったタクシーは、しばらく進んだところで赤信号で停止する。大きな交差点で、 長い赤信号だ。タクシーのとなりで、中国人の男の乗った黒いホンダのバイクがやはり信号 待ちをしている。二人のあいだにはわずか一メートルほどの距離しかない。しかしバイクの 男は、まっすぐ前を見ており、白川には気づかない。白川はシ 1 トの中に深く沈み込んで、 200

6. アフターダーク

人けのない深夜の公園の二台のプランコに、マリと高橋が並んで座「ている。高橋はマリ の横顔を見ている。よく理解できない、 という表情が彼の顔に浮かんでいる。さっきの会話 の続きだ。 「目を覚まそうとしない ? 」 マリは何も言わない。 「それはどういうこと ? 」と彼は尋ねる。 202

7. アフターダーク

する。そこに異変がなく、見知らぬものが隅に身を潜めたりしていないことを抜かりなく点 検する。それからべッドのそばに寄って、熟睡している姉の顔を見下ろす。手をのばしてそ しつもと同じよう の額にそっとあて、小さな声で名前を呼ぶ。しかし反応はまったくない。ゝ に。マリは机の前の回転椅子を枕元に引いてきて、腰を下ろす。前かがみになり、姉の顔を すぐ近くから注意深く観察する。そこに隠された暗号の意味を探るように。 五分ばかり時間が経過する。マリは椅子から立ち上がってレッドソックスの帽子を脱ぎ、 くしやくしやになった髪を整えてから、腕時計をはずす。それらを姉の机の上に並べて置 く。スタジアム・ジャンパーを脱ぎ、フ 1 ドつきのパーカを脱ぐ。その下に着ていた格子柄 のフランネルのシャツを脱いで、白いシャツだけになる。分厚いスポーツ・ソックスを脱 ぎ、プル 1 ジ 1 ンズを脱ぐ。そして姉のべッドの中にそっともぐり込む。布団の中に身体を 馴染ませてから、仰向けに眠っている姉の身体に細い腕をまわす。頬を姉の胸に軽く押し当 て、そのままじっとしている。姉の心臓の鼓動の一音一音を理解しようと、耳を澄ませる。 耳を澄ませながら、マリの目は穏やかに閉じられている。やがてその閉じた目から、何の予 告もなく、涙がこばれ出てくる。とても自然な、大きな粒の涙だ。その涙は頬をつたい、下 278

8. アフターダーク

マリと高橋が並んで通りを歩いている。マリはショルダーバッグを肩にかけ、レッドソッ クスの帽子を深くかぶっている。眼鏡はかけていない。 「どう、眠くない ? 」と高橋は尋ねる。 マリは首を振る。「さっき少しうとうとしたから」 高橋は言う。「一度こんなふうに徹夜練習あけで、うちに帰るつもりで新宿から中央線に 乗って、目が覚めたら山梨県だったな。山の中だよ。自慢じゃないけど、どこでもすぐに熟 1 263

9. アフターダーク

浅井エリの部屋。 部屋の中の様子に変化はない。ただ、椅子に座った男の姿がさっきより大写しになってい る。私たちはその人物の姿を、かなり明瞭に目にすることができる。電波はまだいくらか障 害を受けており、折に触れてぐらりと画像が揺れ、輪郭が歪み、質量が薄らぐ。耳障りな雑 音も高まる。脈絡のない別の映像が瞬間的に挿入されることもある。しかし混乱はすぐに修 復され、本来の画像が戻ってくる。 4

10. アフターダーク

前と同じ「デニ 1 ズ」の店内。マーティン・デ = 1 楽団の『モア』がとして流れて いる。分前に比べると、客の数は目に見えて少なくなった。話し声も聞こえない。夜が一 段階深まった気配がある。 マリがテ 1 プルに向かって、相変わらず分厚い本を読んでいる。彼女の前にはほとんど手 のつけられていない野菜サンドイッチの皿が置かれている。空腹だからというよりは、時間 稼ぎのために注文されたものらしい。ときどき思い出したように本を読む姿勢を変える。テ