バッグから小さなヘア・プラシを出して髪を整える。髪の生え際はいくぶん後退している が、額のかたちが悪くないので、何かが減衰しているという印象はない。眼鏡をかける。シ ャツのボタンをとめ、ネクタイを結ぶ。淡いグレ 1 のシャツに、紺のペイズリー柄のネクタ イ。鏡を見ながら、シャツの襟をまっすぐにし、ネクタイのディンプルを整える。 白川は、洗面所の鏡に映った自分の顔を点検する。顔の筋肉を動かすことなく、長いあい だ厳しい目つきで自分を凝視している。両手は洗面台の上に置かれている。息を止め、まば たきもしない。そのようにしていたら、何か別のものが出現してくるのではないかという期 待が、彼の心にはある。すべての感覚を客体化し、意識をフラットにし、論理を一時的に凍 結し、時間の進行を少しでもくい止める。それが彼のやろうとしていることだ。自分という 存在を、可能な限り背景に溶け込ませてしまうこと。すべてを中立的な静物画のように見せ かけること。 でもひたすら気配を殺しても、別のものは出現しない。鏡の中にある彼の姿は、現実どお 彼よあきらめて深く息を吸い込み、 りの彼の姿でしかない。ありのままの反映でしかない。 , 冫 191
が乱れていないところをみると、私たちがいないあいだに彼女が目を覚まし、起き上がって とこ力。 / イ ゝこ一丁ってしまったというのでもなさそうだ。べッドはびたりとメイクされたままの状 態である。ついさっきまでそこにエリが眠っていたという形跡はみじんもない。奇妙だ。い ったい何が起こったのだろう ? あたりを見まわす。 テレビのスイッチは入ったままだ。さっきと同じ部屋の風景が映し出されている。家具の ない広い空き部屋。無個性な蛍光灯と、リノリウムの床。しかし今では画面は見違えるほど 安定している。雑音も聞こえず、画像の輪郭は鮮やかで、滲みもない。回線はどこかに それがどこであれーー・揺らぎのない状態で繋がっている。満月の光が無人の草原に注ぐよう に、テレビの明るい画面が部屋の中を照らしている。部屋にある事物はひとっ残らず、多か れ少なかれ、テレビの発する磁力の影響下に置かれている。 テレビの画面。顔のない男が、さっきと同じ椅子に腰掛けている。茶色のスーツ、黒の革 靴、白いほこり、顔に密着した艶のある仮面。姿勢も前に見たときから変わっていない。背 筋を伸ばし、両手を膝の上に揃え、うつむき加減で前方の何かに見入っている。彼の一対の 126
チに負けないほどのフルスピードで動かしている。無駄な動きはない。そこには世紀の精 緻な音楽と、彼と、彼に与えられたテクニカルな問題が存在するだけだ。 ただ右手の甲の痛みがときどき気になるらしく、区切りをつけて仕事を中断し、右手を何 度も開閉し、手首を回す。左手で右手の甲をマッサージする。大きく息をついて、腕時計に 目をやる。ほんのわずか顔をしかめる。右手の痛みのおかげで、いつもに比べて仕事の処理 かいくぶん滞りがちだ。 服装は清潔で、こざっぱりしている。個性的でもないし、洗練された着こなしというので シャツも もないが、身につけるものにはそれなりに神経をつかっている。趣味も悪くない。 ネクタイも高価なものに見える。おそらくプランド品だろう。顔立ちには知的な印象があ り、育ちも悪くなさそうだ。左手の手首にはめられた時計は上品な薄型。眼鏡はアルマーニ 風だ。手は大きく、指は長い。爪はきれいに手入れされ、薬指には細い結婚指輪がはめられ ている。これといって特徴のない顔立ちだが、表情の細部には意志の強さがうかがえる。お そらくは歳前後、少なくとも顔のまわりには、肉のたるみはまったくない。彼の外見に は、よく整頓された部屋のような印象がある。ラプホテルで中国人の娼婦を買う男には見え
に落ちて姉のパジャマを湿らせる。それからまた一粒、涙が頬をこばれ落ちる。 マリはべッドに身を起こし、指先で頬の涙を拭う。何かに対して , ーーそれが何なのか具体 的にはわからないのだけれどーーひどく申し訳ないような気持ちになる。自分が取り返しの つかないことをしてしまった、という気がする。それは前後の筋道がっかめない、ひどく唐 突な感情だ。でも切実な感情だ。涙はまだこばれ続けている。マリは手のひらに、落ちてく る涙を受けとめる。落ちたばかりの涙は、血液のように温かい。体内のぬくもりをまだ残し ている。マリはふと思う、私はこことは違う場所にいることだってできたのだ。そしてエリ だって、こことは違う場所にいることはできたのだ。 マリはもう一度念のために部屋の中を見まわし、それからエリの顔を見下ろす。美しい寝 顔ーーーほんとうにきれいだ。そのままガラスケースに収めておきたくなるくらい。意識はた またまそこから失われている。どこかに姿を隠し、身をひそめている。でもそれは地底の水 流として、どこか目に見えない場所を流れているはずだ。マリはそのかすかな響きを聴き取 ることができる。彼女は耳を澄ませる。ここからそんなに遠くない場所だ。そしてその流れ は、どこかできっと私自身の流れと混じり合っているはずだ。マリはそう感じる。私たちは
電気ピアノとウッド・ べースとドラムズのトリオをバックに、高橋が長いトロンポーンの ソロを吹いている。ソニー ・ロリンズの『ソニ 1 ムーン・フォア・トウー』。それほど速く ないテンボのプルース。悪くない演奏だ。テクニックよりは、フレーズの積み重ね方、話の 運び方で音楽を聴かせる。そこには人柄のようなものが出ているのかもしれない。彼は目を 閉じて、音楽の中に浸っている。テナ 1 サックスとアルトサックスとトランペットが、とき どき背後で簡単なリフを入れる。参加していないものは演奏を聴きながら、ポットのコーヒ ーを飲んだり、楽譜をチェックしたり、楽器の手入れをしたりしている。ときどきソロの合 間に声援の声をかけたりもする。 むき出しの壁に囲まれて音の反響が大きいので、ドラムはほとんどプラシだけを使って演 奏している。長い板とパイプ椅子を組み合わせてこしらえた急造のテープルの上には、テ 1 クアウトのピザの箱、コーヒーを入れたポット、紙コップ、そんなものがちらばっている。 楽譜や、小型のテープレコーダーや、サキソフォンのリードなんかもある。暖房がないも同 然なので、みんなコートやジャンパーを着たまま演奏をしている。休憩をとっているメンバ ーの中には、マフラーを首に巻き、手袋をつけているものもいる。なかなか不思議な光景 248
後ろ姿か、顔以外の身体のほかの部分だけだ。光の角度の加減だろうか、それとも意図的に だろうか、顔の部分は常に暗い陰になって、私たちの目の届かないところにある。 男は動かない。 ときおり大きく長く息をつき、それにあわせて両方の肩がゆるやかに上下 するだけだ。長いあいだひとつの部屋に監禁されてきた人質のようにも見える。男のまわり には何かしら、引き延ばされたあきらめのようなものが漂っている。しかし彼はべつに縛り つけられているわけではない。椅子に座って、背筋をのばし、静かに呼吸をしながら、前方 の一点をじっと見つめているだけだ。動かないと自分で決めているのか、それとも何かの理 由で現実的に動けない状態に置かれているのか、そこまでは見てとれない。両手は膝の上に 揃えて載せられている。時刻は不明だ。夜なのか昼なのか、それもわからない。しかし天井 に列をなした蛍光灯の照明のおかげで、部屋の中は夏の午後のように白々としている。 やがてカメラは前にまわりこんで、男の顔を正面から映し出す。それでも男の素性は明ら かにならない。謎はむしろ深まるばかりだ。 , 彼の顔全体が、半透明なマスクで包まれている からだ。それはフィルムのようにびたりと顔に密着しているので、マスクと呼ぶこともため らわれるほどである。しかしどれほど薄くとも、仮面としての目的はじゅうぶんに果たされ
ープルに肘をついたり、シ 1 トに深くもたれかかったりする。顔をあげて深呼吸をし、店の 混み具合を点検したりもする。しかしそれを別にすれば、一貫して読書に集中している。集 中力は彼女の大事な個人的資産のひとつであるようだ。 一人客が多く見受けられるようになっている。ノ 1 ト・ パソコンを使って書き物をしてい るものもいる。携帯電話でメ 1 ルをやりとりしているものもいる。彼女と同じように読書に ふけっているものもいる。何もせず、ただじっと窓の外を眺め、考えごとをしているものも いる。眠れないのかもしれない。眠りたくないのかもしれない。ファミリー・レストラン は、そのような人々にとっての深夜の身の置き所なのだ。 大柄な女が、ガラスの自動ドアが開くのを待ちきれないという様子で、店内に入ってく る。体格はいいが、太っているわけではない。肩幅も広く、見るからにがっしりしている。 黒い毛糸の帽子を深くかぶっている。大きな革のジャンパ ーに、オレンジ色のズボン。手ぶ らだ。その精悍な風貌は人目を引く。店内に入ると、ウェイトレスが「お一人様ですか ? 」 と寄ってくるが、彼女はそれを黙殺する。鋭い目で店内をさっと見回す。そしてマリの姿を 見つけると、見当をつけて、大きな歩幅でまっすぐそちらに向かう。
するように、間隔をおいてアングルが切り替わる。彼女のかたちの ) しい小さな唇は、まっす ぐひとつに結ばれている。一見して、息をしている気配はうかがえない。しかし目をこらし ていると、ときおりかすかな、ほんのかすかな動きを喉もとに認めることができる。呼吸は おこなわれているのだ。 , 彼女は枕に頭を載せ、天井を見上げる姿勢をとっている。でも実際 には何も見てはいない。 まぶたは冬の堅い蕾となって閉じられている。眠りは深い。たぶん 夢さえ見ていないはずだ。 浅井エリの姿を眺めているうちに、その眠りの中には何かしら普通ではないところがある と、次第に感じるようになる。彼女の眠りはそれほど純粋であり、完結的である。顔の筋肉 ひとつ、まっげひとっ動かすわけでもない。 ほっそりとした白い首は工芸品のような濃密な せいひっ 静謐を守り、小さなあごはかたちのよい岬となって、端正な角度を指している。いくら熟睡 するにせよ、人はここまで奥深く眠りの領域に足を踏み入れはしない。 ここまで全面的に意 識を放棄することはない。 しかし意識の有無とは別のところで、生命を保っために必要な身体機能は維持されてい る。必要最低限のレベルでの呼吸と心拍。彼女の存在はどうやら、無機性と有機性を隔てる
トバッグを下げている。中には楽譜やらその他細々したものが詰め込まれているようだ。右 の頬の上に、人目を引く深い傷がある。尖ったものでえぐられたような短かい傷跡。それを こく普通の青年だ。道に迷った性格のいし べつにすれば、とくに目立ったところはない。、 しかしあまり気の利かない雑種犬のような雰囲気がある。 案内係のウェイトレスがやってきて、彼を奥の席に案内する。読書をする女の子のテープ ルの横を通り過ぎる。若い男はいったんそこを通り過ぎてから、何か思いあたったように立 ち止まり、フィルムを巻き戻すみたいにゆっくり後ずさりして、彼女のテ 1 プルのわきに戻 る。そして首を傾げ、興味深そうに彼女の顔を見る。頭の中で記憶を辿っている。思い出す までに時間がかかる。何をするにも時間がかかりそうなタイプだ。 女の子はその気配に気づき、本から顔を上げ、目を細め、そこに立っている若い男を見 る。相手の背が高いので、仰ぎ見る感じになる。二人の視線が合う。男はにつこりと微笑 む。悪意がないことを示すための微笑みだ。 彼は声をかける、「ねえ、間違ってたらごめん。君は浅井エリの妹じゃない ?
けのテープル席に座って本を読んでいる。フ 1 ド付きのグレーのパーカにプルージーン、何 度も洗われたらしく色のあせた黄色いスニーカー。隣の椅子の背中にスタジアム・ジャンパ がかけてある。これも決して新品には見えない。年齢は大学の新入生というあたり。高校 生ではないけれど、まだどこかに高校生の雰囲気を残している。髪は黒くて短く、まっす ぐ。化粧気はほとんどなく、アクセサリ 1 らしきものもつけていない。ほっそりとした小さ な顔。黒縁の眼鏡をかけている。眉のあいだにときどき、きまじめそうなしわが寄る。 彼女はずいぶん熱心に本を読んでいる。ほとんどページから目をそらさない。分厚い ドカバーだが、書店のカバ 1 がかかっているので、題名はわからない。真剣な顔をして読ん でいるところを見ると、堅苦しい内容の本なのかもしれない。読み飛ばすのではなく、 一行をしつかりと噛み締めている雰囲気がある。 テープルの上にはコーヒーカップがある。灰皿がある。灰皿の横には紺色のべースポー ル・キャップ。ポストン・レッドソックスののマーク。彼女の頭には少しサイズが大きす ぎるかもしれない。隣のシートには茶色い革のショルダ ーバッグが置いてある。ふくらみ方 からすると、いろんなものが短時間のうちに、思いっきのまま次々に放り込まれたみたい