いかもしれないな。しかしそれはそれとして、あんたみたいな子が、どうして真夜中にこん なところを一人でうろうろしてんだい ? 」 「私みたいな ? 「なんていうか、見るからにまともな子ってことだよ 「うちに帰りたくなかったんです」 「家族と喧嘩したとか ? 」 マリは首を振る。「そういうんじゃないんです。ただ一人でどっか家じゃないところにい たかったんです。夜が明けるまで」 「こういうの、前にもやったことあるの ? マリは黙っている。 カオルは一言う。「余計なお世話かもしれないけど、正直な話、この街はまともな女の子が 一人で夜を明かすのに向いたところじゃないからね。危いやつらもうろうろしてる。このあ たしだって、何度かやばい目にあいかけた。終電車が出ちまってから、始発電車がやってく るまで、ここは昼間とはちょっと違う場所になるんだよ
ぶりのシャツに、穴の開いたプル 1 ジ 1 ンズというかっこう。耳に大きなピアス。 「ああよかった、カオルさん。けっこ 1 時間かかりましたね。待ってたんすよ」と赤毛の女 「どうだい ? 」とカオルは尋ねる。 「相変わらず、すけど」 「血は止まった ? 」 「はあ、なんとか。ペー ータオルをしこたま使いましたけど」 カオルはマリを中に入れる。そしてドアを閉める。部屋の中では赤毛の女のほかに、もう 一人の女の従業員がいる。小柄で、黒い髪をアップにして、床にモップをかけている。カオ ルはマリに二人の従業員を紹介する。 「マリさんだよ。さっき話してた、中国語が話せるって人。この髪の赤い子はコムギってい うんだ。変てこな名前だけど、本名。うちで長いこと働いている」 コムギは愛想良くにつこりする。「よろしくね 「よろしく」とマリは一一一一口う。
バンドが深夜練習のために使わせてもらっている、倉庫のような地下室。窓はない。天井 は高く、配管が露出になっている。換気装置が貧弱なので、部屋の中で煙草を吸うことは禁 止されている。夜もそろそろ終わりに近づき、正式な練習は既に終了し、今は自由な形式の ジャム・セッションが進行中だ。部屋の中にいるのは全部で十人ばかり。そのうち女性が二 人、一人はピアノを弾き、もう一人はソプラノ・サックスを手に休んでいる。あとは全員が 男だ。 247
あるんだー マリは彼の顔を見る。「いつのこと ? 」 「今年の四月頃かな。夕方、捜し物があってタワ 1 レコードに寄ったとき、その前でばった り浅井エリと出会ったんだ。僕も一人で、向こうも一人だった。しばらくごく普通に立ち話 をしてたんだけど、立ち話では収まりきらなくなって、近くの喫茶店に入った。最初のうち は当たり障りのない世間話だった。高校の同級生が久しぶりに道で会ってやりそうな話だ よ。誰がどうしたとか、こうしたとかさ。でもそのあと、どこかお酒を飲めるところに場所 を移そうと彼女が言い出して、わりにつつこんだ個人的な話になっていった。なんていう か、彼女には話したいことがたくさんあったみたいだった」 「つつこんだ個人的な話が ? 」 「そう」 マリはよく理解できないという顔をする。「どうしてあの人はあなたにそういう話をした のかしら ? あなたとエリとはそれほど親しい間柄にはないという印象を持ってたんだけ ど」 170
「ちょいと怪我しててね。この近くなんだよ。歩いてすぐ。そんなに手間はとらせない。何 があったのか、おおまかなところを通訳してくれるだけでいいんだ。恩に着るよ」 マリは少し迷うが、相手の顔を見て、悪い人間ではないだろうと見当をつける。本をショ ルダ 1 バッグに入れ、スタジアム・ジャンパ 1 を着る。テ 1 プルの上の勘定書をとろうとす るが、その前に女が手を伸ばす。 「これはうちが払うよ 「いいです。私が頼んだものだから」 ) って、それくらい。黙ってあたしに払わせてくれ」 立ち上がると、女がマリに比べてずっと大きいことがわかる。マリは小柄な娘だし、相手 の女は農具を入れる納屋並みに頑丈にできている。身長は 175 センチはあるだろう。マリ はあきらめて、女に勘定を払わせる。 二人はデニ 1 ズの外に出る。この時刻になっても、外の通りはまだ相変わらずにぎやか だ。ゲ 1 ムセンタ 1 の電子音、カラオケ・ショップの呼び込み。バイクの排気音。三人連れ
る会社員ってまずいません。とするとこいつ、これから会社に戻ってもう一回仕事するんや ないかな。そう思たわけです コムギ「真夜中に会社で仕事をする ? コオロギ「明け方まで会社に残って仕事してる人、世の中にはわりかしいるんですよ。と くにコンピュ 1 タ・ソフト関係とかね、そういうことが多いです。ほかのみんなが仕事を終 えて帰ってしもてから、誰もおらへんとこで、一人でぐじぐじとシステムをいじるんです わ。みんなが仕事してるときに、システムを全部停めて作業するわけにはいきませんから ね。それで二時、三時まで残業して、タクシーで家に帰るんですわ。そういう人にはタクシ ー・チケット、会社から出ますから」 コムギ「なるほど。そういえば、こいつって、なんかコンピュータおたくつばい顔してる かもな。でもコオロギさん、なんでそんなことよく知ってるの ? 」 コオロギ「私、こう見えて、実は前は会社で働いてたんよ。ちゃんとしたとこで、いちお う O '--äやっとったんです コムギ「マジで ? 」 103
「送っていこう。どうせ練習場の近くだ 「いつでも来ていいって、カオルさんは言ってくれたんだけど、迷惑じゃないかな ? 」とマ リは一 = ロ一つ。 高橋は首を振る。「ロは悪いけど、正直な人だよ。あの人がいつでも来ていいって一一一一口うの なら、それはいつ行ってもゝ しいってことなんだ。そのまま受け取ってかまわない」 「うん」 「それにあそこ、どうせこの時間はやたら暇なんだ。君が遊びにいけば喜ばれると思うな」 「あなたはまだバンドの練習があるんでしょ ? 」 高橋は腕時計を見る。「オールナイトの練習に参加するのも、これがたぶん最後だからね、 あと一山がんばって盛り上がろうと思う」 二人は街の中心部に戻る。さすがにこの時間になると、通りを歩く人の姿もほとんどな 午前四時、都市がもっとも閑散とする時刻だ。路上にはいろんなものが散乱している。 ビールのアルミニウム缶、踏まれたタ刊紙、つぶされた段ボール箱、ペットボトル、煙草の 204
テレビの画面はやはり『深海の生物たち』を映し出している。しかし白川の家のテレビで はない。画面はずっと大きい。ホテル「アルファヴィル。の客室に置かれたテレビだ。それ をマリとコオロギが二人で、見るともなく見ている。彼女たちはそれぞれ一人掛けの椅子に 座っている。マリは眼鏡をかけている。スタジアム・ジャンパーとショルダ 1 バッグは床に 置かれている。コオロギはむずかしい顔つきで『深海の生物たち』を見ているが、そのうち に興味を失い、リモコンを使ってチャンネルを次々に換える。しかし早朝の時間なので、と 222
「あなたはエリと話をして、そういう印象を受けたわけ ? 」 「彼女はいろんなトラブルを一人で抱えて、うまく前 ! こ進めず、助けを求めている。そして 自分を痛めつけることで、その気持ちを表現している。それは印象というよりは、もっとは つきりしたことだよ」 マリはべンチから立ち上がり、夜の空を見上げる。それからプランコのところに行って座 る。黄色いスニ 1 カ 1 が枯れ葉を踏む乾いた音が、誇張されてあたりに響き渡る。彼女は、 プランコの太いロープの強度を確かめるように、しばらく触っている。高橋もべンチを立 ち、枯れ葉の上を歩き、マリのとなりに行って座る。 「エリは今、眠っているのよーとマリは打ち明けるように言う。「とても深く」 「みんなもう眠ってるよ、今の時間は」 「そうじゃなくて」とマリは言う。「あの人は目を覚まそうとしないの」 188
「私はそういうのはとくに何もない とマリは一言う。「病気ひとっしたことないし : からうちではお姉さんが感じやすい白雪姫で、私は丈夫な山羊飼いの娘なわけ」 「白雪姫は一家に二人もいらないから」 マリはうなずく。 高橋は一一一一口う、「でも、健康な山羊飼いの娘というのも悪くないよ。ペンキの塗り具合をい ちいち気にせずにすむし」 マリは高橋の顔を見る。「そんなに簡単なことでもないんだけど」 「もちろんそんな簡単なことじゃない」と高橋は一一 = ロう。「それはわかってるんだけど : : : ね え、ここ寒くない ? 」 「寒くないよ。大丈夫」 マリはツナサンドをまた一切れちぎって、子猫にやる。子猫はずいぶんおなかがすいてい たらしく、熱心にそれを食べる。 高橋はその話を持ち出すべきかどうか、しばらく迷っている。でも結局話すことにする。 「実を言うとさ、一度だけだけど、君のお姉さんとけっこう長く、二人で話し込んだことが 169