尋ねる - みる会図書館


検索対象: アフターダーク
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1. アフターダーク

ん、後ろにも引かれへん。それで仕事も捨てて、親も捨てて」 マリは黙ってコオロギの顔を見ている。 「えーと、ごめん、あんたなんちゅう名前やったかな ? 」とコオロギは尋ねる。 「マリです」 「マリちゃん。私らの立っている地面いうのはね、しつかりしてるように見えて、ちょっと 佃かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん。それでいったん抜けてしもた ら、もうおしまい、二度と元には戻れん。あとは、その下の方の薄暗い世界で一人で生きて いくしかないねん」 コオロギは自分の言ったことについてあらためて考え、それから反省するように静かに首 を振る。 「いやもちろん、それは私が人間として弱かったとゆうだけのことかもしれんね。弱いから こそ、成りゆきみたいなことにずるずると流されてしもたんや。どっかで気がついて、目を 覚まして踏みとどまるべきやったのに、それができんかった。あんたに偉そうにお説教する 資格はないんやけど : : : 」 227

2. アフターダーク

マリは少し間をおいてから、質問する。「あの、ちょっと個人的なことを尋ねてもいいで すか ? 」 「かまへんよ。まあ、答えにくいこともあるかもしれんけどね」 「気を悪くしたりしない ? 」 「しない、しない」 「コオロギさんは本名を捨てたって言ってましたよね ? 」 「うん。言うた」 「どうして本名を捨てたわけ ? コオロギはティーバッグを取り出して灰皿に捨て、湯飲みをマリの前に置く。 「それはね、本名を使こてたらやばいからや。いろいろとわけがあってね。まあぶちまけた 話、逃げてるわけや。ある方面から」 コオロギは自分のお茶を一口飲む。 「それでね、たぶんあんたは知らんやろけど、もし本気で何かから逃げようと思たらね、ラ プホの従業員ゅうのはなかなか便利な仕事なんよ。そら、旅館の仲居さんの方がずっとお金 224

3. アフターダーク

マリは心を決めかねるように、黙って足もとを見ている。その話をする準備が彼女にはま だできていないのだ。 「 : : : ねえ、少し歩かない ? ーとマリは一言う。 しことだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」 「いいよ。歩こう。歩くのはいゝ 「何、それ ? だ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」 「僕の人生のモットー マリは彼の顔を見る。奇妙なモット 1 だ。でもとくに感想も述べず、質問もしない。彼女 はプランコから立ち上がって歩き始め、高橋もあとに従う。二人は公園から出て、街の明る い方に向かう。 「これからまた『すかいら 1 く』に戻るの ? ーと高橋は尋ねる。 マリは首を振る。「ファミレスでじっと本を読んでるのも、けっこうつらくなってきたみ 「わかるような気がする」と高橋は言う。 「できたら『アルファヴィル』にもう一度行ってみたいんだけど 203

4. アフターダーク

カオルは残っていた生ビールを飲み干す。そして腕時計を見る。 「仕事のほうはいいんですか ? 」とマリは尋ねる。 「ラプホってとこはね、このへんの時間がいちばん暇なんだ。もう電車も走ってないから、 今いる客はほとんど泊まりで、朝まで動きらしい動きはない。正式にはまだ勤務中だけど、 ビールの一杯くらい飲んだってばちはあたらないよ」 「朝まで仕事して、うちに帰るんですか ? 」 「いちおう代々木にアパートを借りてるんだけどさ、帰ったって何があるってわけじゃな し、誰が待っているわけじゃなし、ホテルの仮眠室で寝て、起きてそのまま仕事をすること の方が多いな。あんたはこれからどうするんだい ? 」 「どこかで本を読んで時間を潰しますー 「あのさ、よかったらこのままうちにいてもいいんだよ。今日は満室じゃないし、朝まで空 いてる部屋にいさせてあげることはできる。ラプホの部屋に一人でいるってのも、なかなか わびしいもんではあるけどさ、寝るにはいいぜ。べッドだけは充実しているからな」 マリは小さく肯く。しかし彼女の気持ちははっきりしている。「ありがとう。でも自分で

5. アフターダーク

マリは少しだけ顔をしかめる。「そういうことって、まず最初に尋ねるものじゃないの ? 」 男は言われたことの意味について考える。「誰かと待ち合わせしているの ? 」 「そういうことじゃなく」とマリは一言う。 「つまり、礼儀の問題としてー 「そう」 男はうなずく。「そうだな。たしかに、相席していいかどうか最初に尋ねるべきだった。 それは謝るよ。でも、店も混んでるし、長くは邪魔しないから。 マリは小さく肩をすばめるような動作をする。お好きにという感じだ。男はメニューを広 げて眺める。 「もう食事は済ませた ? 「お腹は減ってないの」 男はむずかしい顔でメニューをひととおり見渡してから、ばたんとしめて、テープルの上 に置く。「本当はメニューなんて開く必要もないんだけどね。いちおう見ているふりをして いるだけ」

6. アフターダーク

男が払っていくものなんだけど、払わないでそのまま行っちまいやがった。ビール代までつ いてる」 「迎えに来た人に払ってもらいますか ? 」とマリは尋ねる。 「うーん」と言って、カオルは考え込む。「そううまくいけばいいけどね カオルは急須にお茶の葉を入れ、ジャーから湯を入れる。それを三つの湯飲みに注いで、 ひとつを中国人の娼婦に渡す。娼婦は礼を言ってそれを受け取り、飲む。唇が切れているの で、熱いお茶は飲みにくいようだ。ひとくち飲んで眉をしかめる。 カオルはお茶を飲みながら、娼婦に向かって日本語で話しかける。 「しかしあんたも大変だよな。はるばる日本まで密航して来て、そのあげくあいつらにこう やってしゃぶられ続けるんだもんな。故郷での暮らしがどんなだったのか知らないけど、こ んなとこ来ない方がよかったんじゃないの ? 」 「通訳しますか ? ーとマリは尋ねる。 カオルは首を振る。「しなくていいよ。ただのしがない独り一言だ」 マリは娼婦に話しかける。「作几夛了 ? 〈歳はいくつなの ? 〉」

7. アフターダーク

彼女は無言だ。庭の隅の茂りすぎた灌木を眺めるような目で、相手の顔を見ている。 「前に一度会ったよね」と男は続ける。「えーと、君の名前はたしかュリちゃん。お姉さん と一字違いなんだ」 彼女は用心深い視線を維持したまま、事実を簡潔に訂正する。「マリ」 一字違い。僕のこ 男は人差し指を宙に向ける。「そうそう、マリちゃんだ。エリとマリ。 とはきっと覚えてないよね ? 」 マリはかすかに首を傾げる。イエスなのかノ 1 なのか、わからない。眼鏡をとって、コー ヒーカップのとなりに置く。 ウェイトレスが戻ってきて尋ねる。「ご一緒ですか ? 「うん、そう」と彼は答える。 ウェイトレスはメニューをテープルの上に置く。男はマリの向かい側に腰を下ろし、楽器 のケースをとなりのシートに置く。そのあとで思い出したようにマリに尋ねる。「ちょっと のあいだここに座ってていいかな。食事したらすぐ行っちゃうから。よそで待ち合わせがあ るんだ」

8. アフターダーク

人けのない深夜の公園の二台のプランコに、マリと高橋が並んで座「ている。高橋はマリ の横顔を見ている。よく理解できない、 という表情が彼の顔に浮かんでいる。さっきの会話 の続きだ。 「目を覚まそうとしない ? 」 マリは何も言わない。 「それはどういうこと ? 」と彼は尋ねる。 202

9. アフターダーク

「たとえば、どんな ? 」とマリは尋ねる。 「たとえば : : : そうだな、家族のこととか」 「家族のこと ? 」 「たとえば」と高橋は言う。 「そこには私のことも含まれているわけ ? 」 「そうだね」 「どんな風に ? 」 高橋はどのように話すべきか少し考える。「たとえば : : : 、彼女は君ともっと親しくなり たいと思っていた」 「私と親しくなりたい ? 」 「彼女は君が自分とのあいだに、意識的に距離を置いているみたいに感じていた。ある年齢 を過ぎてからずっと マリは手のひらでそっと子猫を包み込む。彼女はそのささやかな温かみを手の中に感じ る。 17

10. アフターダーク

マリと高橋が並んで通りを歩いている。マリはショルダーバッグを肩にかけ、レッドソッ クスの帽子を深くかぶっている。眼鏡はかけていない。 「どう、眠くない ? 」と高橋は尋ねる。 マリは首を振る。「さっき少しうとうとしたから」 高橋は言う。「一度こんなふうに徹夜練習あけで、うちに帰るつもりで新宿から中央線に 乗って、目が覚めたら山梨県だったな。山の中だよ。自慢じゃないけど、どこでもすぐに熟 1 263