つだけ置かれている。古い木製の椅子で、背もたれはついているが、肘掛けはない。実務的 で簡素な椅子だ。その椅子の上には誰かが腰掛けている。画像はまだ完全には落ち着いてい ないので、椅子に座っている人物の姿は、輪郭の滲んだ、曖昧なシルエットとして認められ るだけだ。長いあいだ見捨てられた場所の、寒々しい雰囲気が部屋には漂っている。 その映像をこちらに伝えている ( らしい ) テレビ・カメラは、用心深く椅子に向かって近 寄っていく。体つきからすると、椅子に腰掛けているのはおそらく男だ。その人物はわずか に前屈みになっている。顔を前方に向け、深く考えごとをしているように見える。暗い色の 衣服を着て、革靴を履いている。顔は見えないが、それほど背の高くない、やせぎみの男ら しい。年齢までは判定できない。私たちが不鮮明な画面からそのような情報をひとつひと つ、断片的に収集しているあいだも、ときどき思い出したように画像が乱れる。ノイズがう ねり、高まる。しかしそれらのトラブルが長びくこともなく、画像はまもなく回復する。雑 音も収まる。画面は試行錯誤をかさねながら、間違いなく安定の方向に向かっている。 この部屋の中で、たしかに何かが起ころうとしている。おそらく重要な意味を持っ何か ゝ 0 、刀
浅井エリが眠り続けている。 しかしさっきまで傍らの椅子に座って、エリの顔を熱心に見つめていた、顔のない男の姿 はない。椅子も消えている。あとかたもなく。そのせいで部屋は前よりもさらに素っ気な く、さらに閑散としている。部屋のほば中央にべッドがあり、そこにエリが横になってい る。救命ポートに乗って静かな海を一人で漂っている人のように見える。私たちはその光景 をこちら側から、つまり現実のエリの部屋から、テレビの画面を通して眺めている。あちら cd
する。そこに異変がなく、見知らぬものが隅に身を潜めたりしていないことを抜かりなく点 検する。それからべッドのそばに寄って、熟睡している姉の顔を見下ろす。手をのばしてそ しつもと同じよう の額にそっとあて、小さな声で名前を呼ぶ。しかし反応はまったくない。ゝ に。マリは机の前の回転椅子を枕元に引いてきて、腰を下ろす。前かがみになり、姉の顔を すぐ近くから注意深く観察する。そこに隠された暗号の意味を探るように。 五分ばかり時間が経過する。マリは椅子から立ち上がってレッドソックスの帽子を脱ぎ、 くしやくしやになった髪を整えてから、腕時計をはずす。それらを姉の机の上に並べて置 く。スタジアム・ジャンパーを脱ぎ、フ 1 ドつきのパーカを脱ぐ。その下に着ていた格子柄 のフランネルのシャツを脱いで、白いシャツだけになる。分厚いスポーツ・ソックスを脱 ぎ、プル 1 ジ 1 ンズを脱ぐ。そして姉のべッドの中にそっともぐり込む。布団の中に身体を 馴染ませてから、仰向けに眠っている姉の身体に細い腕をまわす。頬を姉の胸に軽く押し当 て、そのままじっとしている。姉の心臓の鼓動の一音一音を理解しようと、耳を澄ませる。 耳を澄ませながら、マリの目は穏やかに閉じられている。やがてその閉じた目から、何の予 告もなく、涙がこばれ出てくる。とても自然な、大きな粒の涙だ。その涙は頬をつたい、下 278
浅井エリの部屋。 部屋の中の様子に変化はない。ただ、椅子に座った男の姿がさっきより大写しになってい る。私たちはその人物の姿を、かなり明瞭に目にすることができる。電波はまだいくらか障 害を受けており、折に触れてぐらりと画像が揺れ、輪郭が歪み、質量が薄らぐ。耳障りな雑 音も高まる。脈絡のない別の映像が瞬間的に挿入されることもある。しかし混乱はすぐに修 復され、本来の画像が戻ってくる。 4
ホテル「アルファヴィル」の一室。マリが一人がけの椅子に深く身を沈めて、仮眠をとっ ている。低いガラス・テープルの上に、白いソックスをはいたふたつの足が載せられてい る。ほっとしたような寝顔。テ 1 プルの上には半分あたりまで読まれた分厚い本が伏せてあ る。天井の明かりはついたままだ。しかしマリには部屋の明るさは気にならないようだ。テ レビはスイッチを切られ、沈黙を守っている。きれいにメイクされたべッド。天井のエアコ ンの単調なうなりのほかには、、 とのような物音も聞こえない。 2 5 2
テレビの画面はやはり『深海の生物たち』を映し出している。しかし白川の家のテレビで はない。画面はずっと大きい。ホテル「アルファヴィル。の客室に置かれたテレビだ。それ をマリとコオロギが二人で、見るともなく見ている。彼女たちはそれぞれ一人掛けの椅子に 座っている。マリは眼鏡をかけている。スタジアム・ジャンパーとショルダ 1 バッグは床に 置かれている。コオロギはむずかしい顔つきで『深海の生物たち』を見ているが、そのうち に興味を失い、リモコンを使ってチャンネルを次々に換える。しかし早朝の時間なので、と 222
公園のべンチに一人で座っている高橋。さっきの、猫のいた小さな公園だ。 , 彼のほかには 誰もいない。 二つ並んだプランコ、地面を覆っている枯葉。空に浮かんだ月。コートのポケ ットから自分の携帯電話を取り出し、番号を押す。 マリのいるホテル「アルファヴィル」の部屋。電話のベルが鳴る。彼女は四度目か五度目 のベルで目を覚ます。顔をしかめ、腕時計に目をやる。椅子から立ち上がって、受話器をと 「もしもし」とマリは不確かな声で言う。 ませる。 259
白川の働いているオフィス。 白川は上半身裸で床に横になり、ヨガマットの上で腹筋運動をしている。シャッとネクタ イは椅子の背にかけられ、眼鏡と腕時計は机の上に並べて置かれている。身体は痩せている が、胸は厚く、胴のまわりには余分な肉はま「たくついていない。筋肉は硬く盛り上が「て いる。裸になると、服を着ているときとは印象がずいぶん違う。深く、しかし簡潔に呼吸を しながら、速いスピ 1 ドで身体を上に起こし、左右に曲げる。胸や肩に細かい汗が吹き出 cd
白川の家のキッチン。時報が鳴り、午前 5 時の Z ニュースが始まる。アナウンサー が、正面のテレビ・カメラに向かって律儀にニュースを読み上げている。白川は食堂のテー プルの前に座り、小さな音量でテレビをつけている。聞こえるか聞こえないかというくらい の音だ。ネクタイははずされて椅子の背中にかけられ、シャツの袖は肘のところまでまくり あげられている。ヨーグルトの容器は空になっている。とくにニュースが見たいわけでもな 興味を惹かれるニュースなんてひとつもない。それは最初からわかっている。彼はた だ、うまく眠れないのだ。 「うん、ちょっと用事があるからさ」と高橋は言う。「後かたづけとか、悪いけど頼むな」 250
「これも使いな。そこのトイレの中で着替えておいで」、そう言って、洗面所のドアを顎で 示す。 娼婦はうなずいて、「ありがとう」と日本語で一一一一口う。そして手渡された衣類を抱えて、洗 面所に入る。 カオルは机の前の椅子に座り、ゆっくり首を振り、長いため息をつく。「こんな商売をし てるとさ、まあね、いろんなことがあるんだよ」 「日本に来て、まだ二カ月ちょっとなんだそうです」とマリは一言う。 「不法滞在なんだろ、どうせ ? 「そこまでは聞いてませんけど、言葉からすると、北の方の出身みたいです」 「昔の満州の方か」 「たぶん」 「ふうん , とカオルは言う。「それで、とりあえず誰かがここまで引き取りに来てくれるの かな ? 」 「この仕事を仕切っている人がいるみたいです」