目 - みる会図書館


検索対象: アフターダーク
250件見つかりました。

1. アフターダーク

だ。彼女は定期的にコーヒーカップを手にとって口に運ぶが、とくにその味わいを楽しんで いるようには見えない。目の前にコーヒーがあるから、いわば役目としてそれを飲んでいる だけだ。思い出したように煙草を口にくわえ、プラスチックのライターで火をつける。目を 細め、無造作に煙を宙に吹きだし、灰皿に煙草を置き、それから頭痛の予感を鎮めるよう に、指先でこめかみを撫でる。 小さな音で店内に流れている音楽はパーシ 1 ・フェイス楽団の『ゴー・アウェイ・リト ル・ガール』。もちろん誰もそんなものは聴いていない。様々な種類の人々が深夜の「デニ ーズ」で食事をとり、コーヒ 1 を飲んでいるが、女性の一人客は彼女だけだ。ときどき本か ら顔を上げ、腕時計に目をやる。しかし時間は思うように進まないらしい。誰かと待ち合わ せをしているというのでもなさそうだ。店内を見まわすこともないし、入り口に目を向ける こともない。ただ一人で本を読み、ときどき煙草に火をつけ、機械的にコーヒーカップを傾 け、時間が少しでも早く経過していくことを期待している。しかし言うまでもなく、夜明け がやってくるまでには、まだずいぶん時間がある。 本を読むのを中断し、窓の外に目をやる。二階の窓から、にぎやかな通りを見下ろすこと

2. アフターダーク

側の部屋に存在するらしいカメラが、エリの寝姿を写し、こちらに伝えている。定期的にカ メラの位置と角度が変化する。わずかに接近し、わずかに遠ざかる。 時間が経過するが、何ごとも起こらない。彼女は身動きひとっしない。物音ひとったてな 波もなく流れもない純粋な思惟の海面に、彼女は仰向けに浮かんでいる。にもかかわら ず、私たちは送られてくる画像から目を離すことができない。、 とうしてだろう ? 理由はわ からない。しかし私たちはある種の直感を通して、そこに何かがあることを感じ取ってい る。何かがそこにいるのだ。それは存在の気配を消して、水面下に身を潜めている。その目 に見えぬもののありかを見定めるために、私たちは動きのない画面を注意深く眺めている。 今、浅井エリの唇の隅が微かに動いたようだ。いや、動きとも呼べないかもしれな 見えるか見えないかの、細かな震えだ。ただの画像のちらっきかもしれない。目の錯覚 かもしれない。何らかの変化を求める心が、このような幻視をもたらしたのかもしれない。 私たちはそれを確認するために、い っそう鋭く目をこらす。 エリのロもとがアップに カメラのレンズはその意志を汲むように被写体に接近していく。 1 ラ 2

3. アフターダーク

ってこられない。 の洗面所でマリが手を洗っている。今は帽子もかぶっていない。眼鏡もか 「すかいら 1 く けていない。天井のスピ 1 カーからはペット・ショップ・ポ 1 イズの古いヒットソングが小 音量で流れている。『ジェラシー』。大きなショルダーバッグが洗面台のわきに置いてある。 彼女は備え付けの液体石鹸を使って丁寧に手を洗っている。指と指のあいだにこびりついて しまった、粘着性のある何かを洗い落としているようにも見える。ときどき目を上げて、鏡 に映った自分の顔を見る。蛇ロの水を止め、明かりの下で十本の指を点検し、ペ 1 ルでそれをごしごしと拭く。それから鏡に顔を近づける。何かが起こるのを予期しているよ うな目で、鏡に映った自分の顔を見つめている。そこにあるどんな細かい変化も見落とすま いと。でも何も起こらない。彼女は洗面台に両手をついて目を閉じ、いくつか数を数え、そ れから目を開ける。もう一度、自分の顔を子細に点検する。しかしやはり、そこには何の変 , 1 、も、ない 彼女は手で簡単に前髪を整える。スタジアム・ジャンパ 1 の下に着たパーカのフ 1 ドを直 す。それから自分を励ますように唇を噛み、何度か軽くうなずく。それにあわせて鏡の中の

4. アフターダーク

「さっきそこに電話したらいなかったから、ひょっとして今夜は早く帰れるのかなと思った んだけど」と女が言う。 「さっきって、何時くらい ? 「Ⅱ時過ぎかな。メッセージを残したんだけど」 白川は電話機に目をやる。たしかにメッセージ・ランプが赤く点滅している。 「悪い。気がっかなかった。仕事に集中していたから、と白川は言う。「Ⅱ時過ぎね。その ときは夜食をとりに外に出てたんだ。それからスターバックスに寄って、マキアートを飲ん だ。君はずっと起きてたの ? 」 白川は話をしながらも、両手を使ってキ 1 ポードを叩き続けている。 「いちおうⅡ時半に寝たんだけど、いやな夢を見て、ついさっき目が覚めちゃって、あなた がまだ帰ってなかったから。 ・ : それで今日は何だったの ? 」 白川は質問の趣旨がわからない。キ 1 ポードを叩くのをやめ、電話機に目をやる。目尻の しわが一瞬深くなる。「何だった ? 」 「夜食に何を食べたのかってこと」

5. アフターダーク

目にしているのは都市の姿だ。 空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、私たちはその光景を上空からとらえている。広い視野 の中では、都市はひとつの巨大な生き物に見える。あるいはいくつもの生命体がからみあっ て作りあげた、ひとつの集合体のように見える。無数の血管が、とらえどころのない身体の 末端にまで伸び、血を循環させ、休みなく細胞を入れ替えている。新しい情報を送り、古い 情報を回収する。新しい消費を送り、古い消費を回収する。新しい矛盾を送り、古い矛盾を

6. アフターダーク

公園のべンチに一人で座っている高橋。さっきの、猫のいた小さな公園だ。 , 彼のほかには 誰もいない。 二つ並んだプランコ、地面を覆っている枯葉。空に浮かんだ月。コートのポケ ットから自分の携帯電話を取り出し、番号を押す。 マリのいるホテル「アルファヴィル」の部屋。電話のベルが鳴る。彼女は四度目か五度目 のベルで目を覚ます。顔をしかめ、腕時計に目をやる。椅子から立ち上がって、受話器をと 「もしもし」とマリは不確かな声で言う。 ませる。 259

7. アフターダーク

き延ばし、薄めていく。こちら側にいる私たちは懸命に目をこらすのだけれど、浅井エリの 唇がかたちづくる言葉と、彼女の唇がかたちづくる沈黙を見分けることすらむずかしい。リ アリティーは砂時計の砂のように、彼女の細い十本の指のあいだからこばれ落ちていく。そ こでは時間は、彼女の味方をしてはいない。 彼女はやがて外に向かって語りかけることにも疲れ、あきらめたように口を閉じる。そこ にある沈黙の上に、新たな沈黙が重ねられる。それから彼女はこぶしで内側から、ガラスを 軽くとんとんと叩いてみる。できるだけのことを試してみようと。しかしその音もこちら側 にはまったく届かない どうやらエリの目には、テレビのガラス越しにこちら側の情景が見えているらしい。視線 の動きから、そのことが推測できる。彼女は ( こちら側の ) 自分の部屋にあるものを、ひと つひとつ目で追っているようだ。机ゃべッドや本棚を。その部屋は彼女の場所であり、本 来、彼女はそこに属しているべきなのだ。そこに置かれたべッドで安らかな眠りについてい るはずなのだ。しかし今の彼女には、その透明なガラスの壁を通り抜けて、こちら側に戻っ てくることはできない。何らかの作用によって、あるいは佃らかの意図によって、眠ってい 218

8. アフターダーク

男は感情を欠いた目でひとしきりカオルを見ている。顔を上げてホテルのネオン看板を見 る。「アルファヴィル」。それからもう一度手袋を取り、ジャンパーのポケットから革の札入 れを取り出し、千円札を七枚数え、足下に落とす。風がないので、紙幣はまっすぐ地面に落 ち、そこに留まっている。男はまた手袋をはめる。腕を上げて腕時計に目をやる。ひとつひ とつの動作は不自然なくらいゆっくりしている。男は決して急いでいない。彼は自分の存在 の重さを、そこにいる三人の女たちに見せつけているように見える。何をするにせよ、彼は 好きなだけ時間をかけることができるのだ。そのあいだバイクのエンジンは、気の急いた獣 のようにばろばろと深い音を立て続けている。 「あんた、度胸あるな」と男はカオルに一一一一口う。 「ありがとうよーとカオルは一一 = 粤つ。 「警察に電話すると、このあたりで火事が出るかもしれない と男は一一一一口う。 しばらく深い沈黙が続く。カオルは目をそらさず、腕組みをし、相手の顔を見ている。顔 に傷をつけられた娼婦は、やりとりを理解できないまま、不安げに二人の顔を見比べてい

9. アフターダーク

プルーの無地のパジャマ。生地はつるつるしている。部屋の空気は肌寒く、彼女は薄いべッ ドカバーをとって、パジャマの上からそれをケープのようにまとう。歩こうとするが、まっ すぐ前。、 」こ進むことができない。筋肉が本来の歩き方をうまく思い出せないのだ。でも努力し て、一歩一歩前に進んでいく。のつべりとしたリノリウム張りの床は、きわめて事務的に彼 女を査定し、詰問する。おまえは誰でここで何をしている、と彼らは冷ややかに問う。しか しもちろん、彼女にはその質問に答えることができない。 彼女は窓際に行って窓枠に両手をつき、目をこらしてガラス越しに外を眺める。しかし窓 の外には風景というものがない。そこにあるのは純粋な抽象概念のような、色のない空間 だ。両手で目をこすって、大きく息をつき、もう一度窓の外に目をやる。でもやはり空白の ほかには何も見えない。彼女は窓を開けようとするが、窓は開かない。すべての窓を順番に 試してみるが、どの窓も釘付けでもされたみたいに、びくともしない。ひょっとしてこれは 船かもしれない、と彼女は思う。そういう考えが頭に浮かぶ。身体の中に穏やかな揺れのよ うなものを感じるからだ。私は今、大きな船に乗っているのかもしれない。波が室内に入ら ないように、窓が閉めきりになっているのだ。 , 彼女は耳を澄ませ、エンジンのうなりや、船

10. アフターダーク

エリは今ではいささかの迷いもなく、端正にべッドの中で眠り続けている。彼女の黒い髪 は、エレガントな扇となって、枕の上に無言の意味を広げている。朝が近づいていることが 気配として感じられる。夜の闇のいちばん深い部分は既に過ぎ去ってしまったのだ。 でも本当にそうだろうか ? 「セプンイレプン」の店内。高橋はトロンボーンのケ 1 スを肩にかつぎ、真剣な目つきで食 料品を選んでいる。アパ 1 トの部屋に戻って眠り、目を覚ましたときに食べるためのもの だ。店内にはほかに客の姿はない。天井のスピ 1 カーからはスガシカオの『バクダン・ジュ 1 ス』が流れている。彼はプラスチックの容器に入ったツナサラダのサンドイッチを選び、 2 ラ 5