長い - みる会図書館


検索対象: アフターダーク
155件見つかりました。

1. アフターダーク

「うん。ただ : : : 」と言いかけて、マリはため息をつく。「ねえ、悪いけど、やつばりまだ うまく話せないみたい」 「いいよ。うまく話せないんなら、話すことはない」 「疲れているし、頭の中が整理できない。それに、自分の声が自分の声みたいに聞こえない 「いっかでいいよ。いっかべつのときに。今はその話はよそう」 「うん」とマリはほっとしたように一一一一口う。 二人はそれからしばらく何も話さない。ただ駅に向かって歩を運ぶ。高橋は歩きながら軽 く口笛を吹く。 「いったい何時頃に空が明るくなるのかしら ? 」とマリは尋ねる。 高橋は腕時計に目をやる。「今の季節だと、そうだな、 6 時鬨分くらいじゃないかな。い ちばん夜が長い季節だからね、あとしばらくは暗いよ 「暗いのって、けっこう疲れるんだね」 「本来はみんな寝ていなくちゃいけない時間だからね」と高橋は言う。「人類が暗くなった の」

2. アフターダーク

んだ」 「だってそのときは長い時間、二人でお酒を飲みながら親しくお話をしたんでしょ ? つつ こんだ個人的な話を」 「うん。それはそうなんだけどね、でもさ、お話をしたと言っても、実際には僕はそのとき ほとんどしゃべらなかった、 , 彼女がだいたい一人で話して、僕はただ相づちをうっていただ けだ。それにはっきり言って、僕が彼女に対して現実的にしてあげられることは、そんなに たくさんないような気がするんだよ。つまり、もっと深いレベルで個人的に関わらない限り : とい一つことだけど」 「そしてあなたとしては、そこまで深入りしたくはない」 「というか : : : 、僕にはできないと思うんだ」と高橋は言う。手をのばして猫の耳のうしろ を掻いてやる。「その資格はないと言えばいいのかな」 「わかりやすく言えば、あなたはエリに対してそこまでの深い関心は持てないっていうこ と ? 」 「そんなことを言えば、浅井エリだって僕に深い関心を持っているわけじゃない。さっきも 176

3. アフターダーク

「もちろん、何 ? 「君は北京に出発するための準備があって、あれこれ忙しいし、僕と会っているような暇は もちろんーと高橋は言う。「それはよく理解できる。 しいよ、かまわない。僕は待て るから」 「でも日本に帰ってくるのは、半年以上先のことだよ 「僕はこれでけっこう気が長いんだ。時間をつぶすのもわりに得意だ。よかったら向こうの 住所を教えてくれないか。手紙を書きたいから」 「それはいいけど 「僕が手紙を出したら、君も返事を書いてくれる ? 「うん」とマリは言う。 「そして来年の夏に君が日本に戻ってきたら、デートだかなんだかをしよう。動物園やら植 物園やら水族館やらに行って、それからできるだけ政治的に正しい、おいしい卵焼きを食べ よう」 マリはもう一度高橋の顔を見る。何かを確かめるように、まっすぐ相手の目を見る。 270

4. アフターダーク

高橋は続ける。「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどの ような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれてい く。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」 彼はテープルの上の空間を見つめ、大きく息をつく。 「とにかくその日を境にして、こう考えるようになった。ひとっ法律をまじめに勉強してみ ようって。そこには何か、僕の探し求めるべきものがあるのかもしれない。法律を勉強する のは、音楽をやるほど楽しくないかもしれないけど、しようがない、それが人生だ。それが 大人になるということだ 沈黙。 「それがミディアム・サイズの説明 ? 」とマリは尋ねる。 高橋はうなずく。「ちょっと長かったかもしれない。誰かにこの話をしたのは初めてだか : あのさ、その残ってるサンドイッチだけど、もし食べ ら、サイズがっかみづらかった。 ないんならひとつもらっていいかな」 「残ってるのはツナだけど」 141

5. アフターダーク

るかもな」 身なりのいい小柄な中年の男性客が入ってきて、カウンターの端に座り、カクテルを注文 しつもの席と、いつもの飲み物。 し、小さな声でバ 1 テンダーと話をする。常連客らしい。ゝ すみか 深夜の都会を住処とする、よく正体のわからない人々の一人だ。 「カオルさんは女子プロレスをやっていたんですか ? 」とマリは尋ねる。 「ああ、ずいぶん長くやってたな。ガタイも大きかったし、喧嘩も強かったから、高校生の ときにスカウトされて、即デビューして、それ以来悪役一本だよ。派手な金髪にして、眉毛 も剃り落として、肩には赤いさそりの入れ墨まで入ってる。テレビにもちよくちよく出たん だぜ。香港とか台湾にも試合に行ったよ。小さいながら地元後援会みたいなのもついてい た。あんた、女子プロレスなんて見ないんだろ ? 」 「まだ見たことはないですー 「まああれも、何かと大変な商売でね、結局背中を悪くして、四のときに引退した。あたし の場合、手抜きなしのオ 1 ルアウトで無茶やってたから、そりやいっかは身体だって壊れる いくら丈夫にできてると言っても、ものごとには限界がある。あたしの場合さ、性分と

6. アフターダーク

ぶりのシャツに、穴の開いたプル 1 ジ 1 ンズというかっこう。耳に大きなピアス。 「ああよかった、カオルさん。けっこ 1 時間かかりましたね。待ってたんすよ」と赤毛の女 「どうだい ? 」とカオルは尋ねる。 「相変わらず、すけど」 「血は止まった ? 」 「はあ、なんとか。ペー ータオルをしこたま使いましたけど」 カオルはマリを中に入れる。そしてドアを閉める。部屋の中では赤毛の女のほかに、もう 一人の女の従業員がいる。小柄で、黒い髪をアップにして、床にモップをかけている。カオ ルはマリに二人の従業員を紹介する。 「マリさんだよ。さっき話してた、中国語が話せるって人。この髪の赤い子はコムギってい うんだ。変てこな名前だけど、本名。うちで長いこと働いている」 コムギは愛想良くにつこりする。「よろしくね 「よろしく」とマリは一一一一口う。

7. アフターダーク

ない声で一方的に話し続ける。留守番電話のテープにメッセージを吹き込むみたいに。 「わたしたちは、あんたの背中を叩くことになる。顔もわかっているんだ」 「ねえ、なんかそれって : : : 」 男は一一一一口う。「いっかどこかであんたの背中を叩く人間がいたら、それはわたしたちだよ」 何を言えばいいのかわからず、高橋はそのまま黙っている。保冷ケ 1 スに長く置かれてい た電話は、手の中でいやに冷たく感じられる。 「あんたは忘れるかもしれない。わたしたちは忘れない」 「だからさ、よくわかんないけど、人違いだって : : : 」と高橋は = 一一口う。 「逃げ切れない」 電話がぶつんと切れる。回線が死ぬ。最後のメッセージが無人の波打ち際に置き去りにさ れる。高橋は手にした携帯電話をそのまま見つめている。男のロにする「わたしたち」とい うのがどのような人々のことなのか、本来その電話を受けるはずの人間がどこの誰なのか、 見当もっかないけれど、男の声は後味の悪い、不条理な呪いのような残響を彼の耳に ( 耳た ぶが変形した方の耳だ ) 残していく。手の中に、蛇を握ったあとのようなぬめぬめとした感

8. アフターダーク

だ。高橋の長いソロが終わり、べ 1 スが 1 コ 1 ラスのソロをとる。それが終わったところで 4 ホーンのテーマの合奏になる。 曲が終わると十分の休憩になる。長い練習のあとで、さすがに疲れが出てきたのだろう、 一一口もかいつもよりいくぶん寡黙になっている。それぞれに身体をストレッチしたり、温かい 飲み物を飲んだり、ビスケットのようなものを食べたり、外に出て煙草を一服したりしなが ら、次の曲にかかる準備をしている。ピアノを弾いている髪の長い女の子だけは休憩時間の あいだもずっと楽器の前に座って、いくつかのコード進行を試している。高橋はパイプ椅子 に腰をおろして楽譜を揃え、トロンポ 1 ンを分解し、たまった唾液を落とし、布で簡単に拭 いてからケースにしまい始める。どうやら次の演奏に参加するつもりはないようだ。 べースを弾いていた背の高い男がやってきて、高橋の肩をとんと叩く。「よう、今のソロ、 よかったね。しみじみしていたよ」 「ありがとう」と高橋は言う。 「高橋さん、今日はもうこれでおしまいにするの ? 、とトランペットを吹いていた髪の長い 男が声をかける。 249

9. アフターダーク

容しようとしている。わずかに吐き気を感じる。胃が収縮し、何かがせり上がってくるよう な感覚がある。でも長い呼吸を何度か繰り返して、それをやり過ごす。ようやく吐き気が去 ると、かわりにいくつかの別の種類の不快感が明らかになる。手足のしびれ、かすかな耳鳴 り、筋肉の痛み。あまりに長い時間、ひとつの姿勢で眠っていたせいだ。 再び時間が経過する。 やがて彼女はべッドの上に身を起こし、曖昧な視線であたりを見まわす。ずいぶん広い部 ここはいったいどこなのだろう ? 私はここで何をしているのだろ 屋だ。人の姿はない。 う ? 記憶をたどってみる。しかしどの記意も、短い糸のようにすぐに途切れてしまう。彼 女にわかるのは、自分が今までここで眠っていたらしい、ということだけだ。その証拠に私 はべッドの中にいて、。ハジャマを着ている。これは私のべッドであり、私のパジャマだ。間 違いない。でもここは私の場所ではない。身体じゅうがしびれている。もし私が眠っていた のだとしたら、ずいぶん長く、ずいぶん深く眠っていたのだろう。でもどれくらい長い時間 つきつめて考えようとすると、こめかみが疼き始める。 だったのか、見当もっかない 思い切って布団から出る。裸足の足を用心深く床に下ろす。彼女はパジャマを着ている。 巧 7

10. アフターダーク

次々に、手際よく剥奪されていく。その結果、自分がもう何ものでもなくなり、ただ外部の ものごとを通過させるための便利なだけの存在になり果てていくのがわかる。全身の肌が粟 立つような激しい孤絶感に襲われる。彼女は大声で叫ぶ。いやだ、私はそんな風に変えられ たくはない。しかし大声で叫んだつもりで、喉から現実に出てくるのは、消え入るような小 さな声でしかない。 もう一度深く眠り込んでしまいたい、 と彼女は願う。ぐっすり眠って目覚めたら、本来の 私の現実に戻っていた、ということになったらどんなに素敵だろう。今のところそれが、エ リに思いつける、この部屋からの唯一の脱出方法だ。試してみる価値はあるはずだ。でもそ のような眠りは、簡単には与えられないだろう。なぜなら彼女はついさっき、眠りから覚め たばかりなのだから。そしてあまりにも長い時間、あまりにも深く眠り続けていたのだ。本 来の現実をどこかに置き忘れてくるくらい深く 拾った銀色の鉛筆を指のあいだにはさんで、くるくるとまわしてみる。その感覚が何かの 記憶を導くのではないかと、漠然と期待しながら。でも彼女が指先に感じるのは、果てしな い心の渇きだけだ。彼女はその鉛筆を思わず床に落としてしまう。べッドに横になる。布団 はくだっ