黙っ - みる会図書館


検索対象: アフターダーク
225件見つかりました。

1. アフターダーク

「もし見つかったら、どうなるんですか ? つまり、その、コオロギさんが追いかけられて いる人たちに」 「さあ、どうなるかなあ」とコオロギは一一 = ロう。「ようわからんな。あんまり考えたくないけ どね」 マリは黙っている。コオロギはテレビのリモコンを手に持って、ボタンをあれこれといじ っている。しかしテレビをつけるわけではない。 「仕事が終わって布団の中に入るときにね、いつもこう思うんよ。このまま目が覚めんとい てくれと。ずうっとこのまま寝かせといてくれと。そうしたら、もう何も考えんでええやん か。そやけどね、夢を見るんよ。いつも同じ夢。どこまでもどこまでも追いかけられて、と うとうみつかって捕まえられて、どっかに連れて行かれる。そして冷蔵庫みたいなもんに押 し込められて、蓋を閉められてしまう。そこでばっと目が覚める。着てるものはみんな汗で ぐしょぐしょになってる。起きてるときも追いかけられ、寝てても夢で追いかけられ、心を 休める暇もない。 ) しくらかでもほっとできるのは、ここでお茶でも飲みながら、カオルさん とかコムギちゃんと罪のない世間話をしているときだけ : そやけどな、こんな話をした 228

2. アフターダーク

みがえってくるもんやねん。ずっと長いあいだ忘れてたことが、なんかの拍子にばっと思い 出せたりするわけ。それはね、なかなか面白いんよ。人間の記憶ゅうのはほんまにけったい なもので、役にも立たんような、しようもないことを、引き出しにいつばい詰め込んでいる ものなんよ。現実的に必要な大事なことはかたつばしから忘れていくのにね」 コオロギはテレビのリモコンをまだ手に持ったまま、そこに立っている。 彼女は言う、「それで思うんやけどね、人間ゅうのは、記憶を燃料にして生きていくもの なんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとっては べつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書や ろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、火にくべるときはみんなただ の紙きれでしよ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか 『ええおつばいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれ もただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記 憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料ー コオロギは一人で肯く。そして話を続ける。 244

3. アフターダーク

やがてカオルと娼婦とマリの三人が玄関から出てくる。娼婦はばたばたとゴムサンダルの 音を立てながら、疲れた足どりでバイクの方に歩いて行く。気温はさっきより下がってい イクの男が娼婦に向かって鋭い声でなにごとか て、ジャージ 1 の上下だけでは寒そうだ。バ を告げ、女が小さな声で返事をする。 カオルはバイクの男に向かって一言う。「あのさ、お兄さん、うちらはまだホテル代もらっ てないんだけどね」 男はひとしきりカオルの顔を見ている。それから一一一一口う。「ホテル代、うちは払わない。男 が払う」。男の言葉はアクセントを欠いている。平板で、表情がない。 「それは存じあげてるよ」とカオルはしやがれた声で言う。ひとっ咳払いをする。「でもさ、 お互いこうやって狭いとこで顔つきあわせて商売してんじゃないか。今回のことでは、こっ ちもそれなりに迷惑かかったんだ。いちおう暴行傷害事件だからね、警察に電話してもよか ったんだよ。しかしそれだと、あんたらだってちっと困るだろ ? だからさ、とりあえず部 屋代 6800 円払ってくれたら、うちらはそれでいいんだ。ビール代はおまけしてやるよ。 痛み分けだ」

4. アフターダーク

コオロギは腕時計に目をやり、大きくのびをしてから立ち上がる。 「さあて、そろそろ働いてくるわ。あんたもここでひと休みして、明るくなったら、早いと こ家に帰りなさい。わかった ? 」 「うん」 「お姉さんのことはきっとうまく行くよ。私にはそういう気がする。なんとなくやけど 「ありがとう」とマリは言う。 「マリちゃんは、今のお姉さんとはあんまりしつくりといってないみたいやけどね、そうや ないときもあったと思うんよ。あんたがお姉さんに対してほんとに親しい、びたっとした感 じを持てた瞬間のことを思い出しなさい。今すぐには無理かもしれんけど、努力したらきっ と思い出せるはずや。なんといっても家族というのは長いっきあいなわけやし、そういうこ とって、ひとっくらいはどっかであったはずやから 「はい」とマリは言う。 「私はね、よく昔のことを考えるの。こうして日本中逃げ回るようになってからは、とくに ね。それでね、一生懸命思い出そうと努力してると、いろんな記憶がけっこうありありとよ

5. アフターダーク

マリは心を決めかねるように、黙って足もとを見ている。その話をする準備が彼女にはま だできていないのだ。 「 : : : ねえ、少し歩かない ? ーとマリは一言う。 しことだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」 「いいよ。歩こう。歩くのはいゝ 「何、それ ? だ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」 「僕の人生のモットー マリは彼の顔を見る。奇妙なモット 1 だ。でもとくに感想も述べず、質問もしない。彼女 はプランコから立ち上がって歩き始め、高橋もあとに従う。二人は公園から出て、街の明る い方に向かう。 「これからまた『すかいら 1 く』に戻るの ? ーと高橋は尋ねる。 マリは首を振る。「ファミレスでじっと本を読んでるのも、けっこうつらくなってきたみ 「わかるような気がする」と高橋は言う。 「できたら『アルファヴィル』にもう一度行ってみたいんだけど 203

6. アフターダーク

「母が死んで、三カ月後くらいだっけな。事情が事情だから早期の仮釈放が認められた。当 たり前のことだけど、父が帰ってきてくれてそれは嬉しかったよ。もう孤児じゃなくなった わけだからね。なにしろでかくて力強い大人だ。ほっとすることができた。戻ってきたと き、父親は古いツィードの上着を着ていて、ざわざわした生地の手触りと、そこにしみた煙 草のにおいを今でもよく覚えている」 高橋はコートのポケットから手を出して、首のうしろを何度かさする。 「でもさ、父親に再会しても、心の底から安心することはできなかった。うまく言えないん だけど、ものごとが僕の中でそんなにびったりとは収まらなかった。なんていうか、自分が 適当にごまかされているんじゃないか、みたいな気がいつまでもしていた。つまり、本物の 父親は永遠にどっかに消えてしまって、そのつじつまをあわせるために、べつの人がとりあ えず父親のかたちをして僕のところに送り込まれてきた、みたいな感じだよ。わかるか な ? 」 「なんとなくとマリは一一一一口う。 高橋はしばらく黙って間を置く。それから話の続きをする。 209

7. アフターダーク

れみたいなものもあったしね。でもその頃にはあの人は、とんでもなく忙しかったの。当時 から少女雑誌のモデルをしていたし、お稽古ごともたくさんあったし、まわりからちやほや されていた。私にはつけいる隙がなかった。つまり、私がそれを求めていたときには、その 求めに応じるような余裕はエリにはなかったのよ」 高橋は黙ってマリの話を聞いている。 「私たちは姉妹として、生まれてからずっと同じ屋根の下に住んできたけど、育った世界は 実際にはずいぶん違っているわけ。たとえば食べるものひとっとっても、同じじゃなかっ た。ほら、いろんなアレルギ 1 があるから、ほかのみんなとは違う特別な献立をあの人は食 べていたの」 少し間があく。 マリは一一一一口う。「べつに非難して言っているんじゃないのよ。お母さんはエリのことを甘や しいことなの。私が言 かしすぎていると私は思っていたけど、今となってはそれはどうでもゝ いたいのは要するに、私たちのあいだにはそういう歴史というか、経緯みたいなものがある ってこと。それで今ごろになって、もっと親しくなりたかったとか言われても、私としては

8. アフターダーク

高橋は続ける。「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどの ような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれてい く。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」 彼はテープルの上の空間を見つめ、大きく息をつく。 「とにかくその日を境にして、こう考えるようになった。ひとっ法律をまじめに勉強してみ ようって。そこには何か、僕の探し求めるべきものがあるのかもしれない。法律を勉強する のは、音楽をやるほど楽しくないかもしれないけど、しようがない、それが人生だ。それが 大人になるということだ 沈黙。 「それがミディアム・サイズの説明 ? 」とマリは尋ねる。 高橋はうなずく。「ちょっと長かったかもしれない。誰かにこの話をしたのは初めてだか : あのさ、その残ってるサンドイッチだけど、もし食べ ら、サイズがっかみづらかった。 ないんならひとつもらっていいかな」 「残ってるのはツナだけど」 141

9. アフターダーク

ういうの、タカハシがいりゃあ、一発でやってくれるんだけどな」 「でもさ、カオルさん。その男の顔がわかったとしてですね、それでいったいどうすんです か ? 警察に届けるわけじゃないでしよう ? 、とコムギが言う。 「自慢じゃないが、警察関係にはなるったけ近寄らないことにしてる」 「じゃあ、どうすんですか ? 」 「それについてはあとでおいおい考える」とカオルは一一一一口う。「でもな、あたしの性分として、 こういう悪質なやつを黙ってそのまま見過ごすわけにはいかねえんだよ、とにかく 0 戸「みに つけこんで女をぶん殴って、身ぐるみはいでもっていっちまって、おまけにホテル代まで踏 み倒す。男の屑だ」 「そういうキンタマの腐ったサイコ野郎は、とっ捕まえて半殺しの目にあわせなあきません ねーとコオロギは一一一一口う。 カオルは大きくうなずく。「望むところではあるが、いくらなんでも、このホテルにまた 顔を見せるようなアホな真似はしねえだろう。少なくとも当分のあいだはな。かといって、 こっちも歩いて探しまわるほど暇じゃないしな」

10. アフターダーク

高橋はそれについて頭の中で真剣に検討する。「そうだな、そうかもしれない 二人はそれ以上何も語らない。黙って歩を運ぶ。白い息を吐きながらうす暗い階段を上 り、ホテル「アルファヴィルーの前に出る。その派手な紫色のネオンが、マリには今では懐 かしくさえ感じられる。 高橋はホテルの入り口で立ち止まり、いつになく真剣な目で正面からマリの顔を見る。 「君にひとっ打ち明けておくことがあるんだ」 「何 ? 「僕の考えてることは君と同じだよ」と彼は言う。「でも今日はだめなんだ。きれいな下着 をつけてないから」 マリはあきれたように首を振る。「疲れるから、そういう意味のない冗談はやめてくれな 高橋は笑う。「 6 時くらいにここに迎えに来るよ。もしよかったら一緒に朝飯でも食べよ う。うまい卵焼きを出してくれる食堂が近くにあるんだ。ほかほかの柔らかな卵焼き : : : あ のさ、卵焼きには何か食品として問題があると思う ? たとえば、遺伝子組み換えとか、組 214