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検索対象: バカの壁
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1. バカの壁

うみ い膿を出すことを期待していました。にもかかわらず「省員の一致団結」とは : かに彼らが世論を考えておらず、共同体の成員としての考え方しかないかというのが、 その一言でわかった気がしました。 この状態は戦時中の日本軍と非常によく似ている。よく勘違いされますが、別に軍の 武力だけが国を滅ぼしたわけではない。いかにも馬鹿馬鹿しい内部での抗争が国益を損 ねていたのです。 戦時中は、陸軍と海軍の両方で張り合って互いに主導権争いをしていて、その合間に 体アメリカと戦争していた、という笑い話があるほど。使える飛行機がもはや零戦しか残 共 っていないという事態になっても、航空予算は陸軍と海軍で半々だった。 身その時も、現在、省庁間でやっている予算の取り合いみたいなことばかりやっていた。 省庁あって国家無し、というのは、今に始まった話ではないのです。 現代ではかってあった大きな共同体が崩壊する一方で、会社や官庁といった小さな共 五同体だけが存在している。そのために、他の共同体から見れば「それはおかしいんじゃ ないの」ということが、閉じられた共同体の中では起こってしまっている。これは「常 い ノ 0 /

2. バカの壁

えば陣痛の痛みを口で説明することが出来るのか」と言ってみたりもします。もちろん、 女性ならば陣痛を体感できますが、男性には出来ない。しかし、それでも出産を実際に 間近に見れば、その痛みが何となくはわかる。少なくとも医学書だの保健の教科書だの の活字のみでわかったような気になるよりは、何かが伝わって来るはずです。 何でも簡単に「説明」さえすれば全てがわかるように思うのはどこかおかしい、とい うことがわかっていない。 この例に限らず、説明したからってわかることばかりじゃない、というのが今の若い か人にはわからない。「ビデオを見たからわかる」「一生懸命サッカーを見たからサッカー は がどういうものかがわかる」 わかるというのはそういうものではない、というこ とがわかってない。 力ある時、評論家でキャスターのピーター バラカン氏に「養老さん、日本人は、″常 識〃を″雑学〃のことだと思っているんじゃないですかね」と言われたことがあります。 一私は、「そうだよ、その通りなんだ」と思わず声をあげたものです。まさにわが意を得 たりというところでした。

3. バカの壁

ているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。 本当は何もわかっていないのに「わかっている」と思い込んで一一一口うあたりが、怖いと ころです。 知識と常識は違う このように安易に「わかっている」と思える学生は、また安易に「先生、説明して下 さい」と言いに来ます。しかし、物事は言葉で説明してわかることばかりではない。い つも言っているのですが、教えていて一番困るのが「説明して下さい」と言ってくる学 生です。 もちろん、私は一一一口葉による説明、コミュニケーションを否定するわけではない。しか し、それだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、というのがわ かっていない。そこがわかっていないから、「聞けばわかる」「話せばわかる」と思って いるのです。 そんな学生に対して、私は、「簡単に説明しろって言うけれども、じゃあ、お前、例 6

4. バカの壁

日本には、何かを「わかっている」のと雑多な知識が沢山ある、というのは別のもの だということがわからない人が多すぎる。出産ビデオの例でも、男たちは保健体育で雑 学をとっくに仕込んでいるから、という理由だけで、「わかっている」と思い込んでい た。その延長線上から、「一生懸命誠意を尽くして話せば通じるはずだ、わかってもら えるはずだ」といった勘違いが生じてしまうのも無理はありません。 現実とは何か もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何 か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなの か、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはい ない。 たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めて あやふやだというのは、私じゃなくても思い当たるところでしよう。 世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は

5. バカの壁

私自身は、マニュアル通りになんかとても出来ないし、読む気もしない。最初からそ んな気は無い。しかし、具体的に仕事をやれば、どういう手順がいいのかなんてことは、 わかってくるものなのです。 私が昆虫の標本を作る際に、昆虫から交尾器を抜く必要が生じることがある。その場 合には、カラカラに乾いた虫の交尾器をいったん柔らかくして元に戻して、体から抜く のが楽です。 本来はとってきたばかりの虫から抜くのが一番いい。そうすれば、跡形もなく綺麗に い抜けて、後から元に戻すことも出来る。だから虫を取ってくるとすぐに抜くという作業 をするわけです。この作業には、家庭で洗濯に使っている漂白剤を使用すればいいので すが、それも経験上、わかってきたことです。 を 距 こんな手順のマニュアルなんかどこにも存在していません。しかし、こうしなくては 個 駄目なことはわかっている。そして硬くなった虫はこうして柔らかくする、というのも、 三仕事をやっていくうちにわかることなのです。

6. バカの壁

共通了解と強制了解 い「わかる」ということについて、もう少し考えてみます。一口に「わかる」と言っても、 その中身は色々です。ここでは「共通了解」と「強制了解」という分け方で考えてみま しよう。基本的に言語は「共通了解」、つまり世間の誰もがわかるための共通の手段で 性す。この一一一口語のなかから、さらにもっとも共通な了解事項を抜き出してくると「論理」 個 になったり、「論理哲学」になったり、さらに「数学」となったりします。 三数学というのは、証明によって、いやが応でも「これが正しい」と認めさせられる論 第 理です。もはやこれは「強制了解」という領域になります。数学的に証明をされてしま 第三章「個性を仲ばせ」という欺瞞

7. バカの壁

生が、考えることについて楽をしたいと思っているのであれば、そこにはやはり、もう どうしようもない壁がある。それはわかる、わからないの能力の問題ではなくて、実は、 モチベーションの問題です。それが非常に怖い。 崖を一歩登って見晴らしを少しでもよくする、というのが動機じゃなくなってきた。 知ることによって世界の見方が変わる、ということがわからなくなってきた。愛人とか 競走馬を持つのがモチベーションになってしまっている。そうじゃなければカルト宗教 の教義を「学んでいる」と言って楽をしているか。 て人間の常識 え 超話を広げれば、日本国共同体が、世界の中でどの程度、意味を持っているのかという 論ことを考え直さなくてはいけない。一元論を否定するのであれば、我々は別の普遍原理 を提示しなきゃいけない。日本が、ある普遍的な原理によって立つ。それはどういう原 八理かということを考えていく。 一神教の世界というのは、ある種の普遍原理です。万能の神様が一人。イスラム教に

8. バカの壁

イルカは目が殆ど見えないが、その代わり耳の機能が素晴らしく発達している。コウ モリも同様に、目は退化してしまっているが、耳の機能だけで張り巡らされたピアノ線 の間を縫って飛ぶ、というような芸当が出来る。大の嗅覚も同じことです。 従って、ある種の特殊な領域で秀でているからといって、「賢い」とはいえない。こ う考えると、果たして何で頭の良し悪しを測るべきか、というのは非常に難しい問題だ ということがおわかりでしよう。 社会的に頭がいいというのは、多くの場合、結局、バランスが取れていて、社会的適 応が色々な局面で出来る、ということ。逆に、何か一つのことに秀でている天才が社会 的には迷惑な人である、というのは珍しい話ではありません。 脳のモデル こうした特殊な能力というのは脳を調べてもわかりません。わからない理由には、そ ういう調べ方が一種のタブーになっているから、という面もあります。が、最大の問題 は、脳というのは非常に均質なものだということです。

9. バカの壁

るのか、という興味が自然に湧いて来る。 ある種の「超人」を作ったらどうなるのか。これは非常に興味深いテーマです。この ときにできた新しい人間は、今の我々と同様に考え、感じられるのはもちろん、それに プラスがついている可能性が十分ある。 乱暴に言えば、そういう人間ができた時には、現代人のある種の役割は終わりになる のかもしれません。チン。ハンジーの後に現代人があるのと同じです。そうなったらどう なるのかといえば、もはや普通の人間である私の想像外。そいつに聞いてくれ、としか 言いようがない。 変 報チン。ハンジーに我々の気持ちがわからないのと同様、我々にプラスの人間の気持ち がわかるはずがない。我々の知っていることを我々は知っているし、考えること、感じ 転 流ることはわかっているけど、プ一フスの方はそれ以上のことを知っているから、後はあ いつに聞いてくれ、としか言えない。 四 第

10. バカの壁

積んでいく。しかし、ある程度の大人になると、人力はもちろんですが、出力も限定さ れてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。 仕事が専門化していくということは、人出力が限定化されていくということ。限定化 するということはコンピュータならば一つのプログラムだけを繰り返しているようなも のです。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な人出力をして いることなのかもしれません。 私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃない か、というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な意見を在職中から自 由に言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていた かがよくわかった。この制限は外れてみないとわからない。それこそが無意識というも のです。 「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうる さいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新 しい世界を知ることに繋がるわけです。