胞 列の反応が、さらにその隣、 細 こ 列にも伝わります。 〇 こ ①から⑩の中で、受 こ、 胞けた刺激が一定の値 ( 閾 〇値 ) を超えたものは反応し 値値、 て、次の列の、①から 0 応 @まで刺激を伝える、と いう風になる。これで最終 的に列の細胞に伝わった 刺激の総和が、ある一定の値を超えていれば、その神経細胞は発火して、反応をする。 超えていなければ反応をしない。 フル・ネットは簡単に言えば、こういう構造になっています。 しかし、これだけの単純なモデルが、脳のモデルたりうるのです。「ややこしくてよ くわからない」という方は、とりあえずこのモデルによって脳の働きが説明できるとい b a 〇 1 01 ←〇 1 〇 2 02 〇 2 激 03 〇 3 03 732
識」が無いからだ、ということは既に述べました。 では、その常識がどうしてなくなったのかといえば、世間ではなく、小 論理しかわからなくなっているからだ、と考えられます。 理想の共同体 おそらく、社会全体が一つの目標なり価値観を持っていたときには、どのような共同 体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。それゆえに、大 きな共同体が成立していた。 とすると、どういう共同体が理想か、という問題を考える場合、実はその問い自体に 大した意味はないのではないか。 家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として 目指すのかということの結果でしかない。同様に、あくまでも共同体は、構成員である 人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるの ではない。 さな共同体の
というのか。個性は意識に宿っていると思うから、長嶋さんに喋らせようとする。彼の 場合、喋っても個性的ではありますが。 個性より大切なもの ここが現代社会が見落としている、つまり「壁」を作ってしまった大きな問題点だと 思っています。人間は変わらないという誤った大前提が置かれているという点、そして それにあまりに無自覚だという占。 本来、こんなことはだれだって気がつくはずなのです。現に、国語の時間に『方丈 記』だって、『平家物語』だって読ませているはずです。しかし、読ませている肝心の 先生のほうが意味がわかっていない。 昔の人はおそらくはそれを意識しないで、もう体の中にあったということなのです。 そんなことを、難しく突き詰めて考えなくても当たり前に受け止めていた。それは、今 の人が情報は日替わりで、自分は変わらなくて、個性を持っているのは当たり前だろう と思っているのと同じなんです。当たり前なんていうことはどんどん変わるものなので
脳は人によってそんなに違うものではない。脳を構成しているのは、神経細胞とグリ アと血管、それだけ。神経細胞というのは非常に大きな細胞です。 大きな細胞というのはタマゴもそうですけれど、栄養をとるとか、自分ひとりで生き ていくのが難しい細胞なのです。それで、周りに補助的な細胞が張り付いている。グリ アは脳の機能として直接には何もしておらず、神経細胞を生かすために働いているもの 神経細胞とグリアの集合体のようなものが脳を作っていて他に必要な血管が人ってい る。脳を構成しているものはそれだけしかない。脳というものは複雑かというとそんな ことはなくて、組織としては極めて単純なものなのです。 このへんは、「あんなに複雑な思考をするところだから作りも難しいに違いない」と のいう風に勘違いされがちですが、そんなことは無い。ところが、そんな単純なものが意 識を発生させる、というと訳がわからなくなってしまう。 章 第
にもなる。脳はそういうふうに動いていて、行動に繋がるのです。 感情という面でいっても、アメリカ人が、テロリストの親玉、ウサマ・ビンラディン を見た時には、マイナスの係数が大きいから、怒り、憎しみといった感情を持つ。逆に、 同じ人を見ても、おそらくイスラム原理主義者にとっては大きくプラスになっている。 一般に、人を非難しているときは、マイナスの思いがあるということです。ただ、一 方で本気で非難しているということは、少なくともその対象を現実だと思っているとい うことです。 Ⅱゼロではない。だからこそ、行動が相当変わる。憎んでいるとか、嫌っていると いうのは、その情報を現実としてきちんと認識している、ということになります。 適応性は係数次第 男女関係の好き嫌いを考えれば非常にわかりやすい。ずっと嫌いだったはずの人とい つの間にか付き合っていた、なんて話はよく聞きます。嫌よ嫌よも好きのうち、なんて のも似たようなものです。
この「まっ逆さま」に転落している状態の代表例が、カルト宗教に身をゆだねている ということです。私の見てきた学生には、オウム真理教をはじめ、随分、こういうのに 引っかかっているのがいました。 こういう学生を何とかするには個人的につき合っていくしかないというのが教師とし ぎやくしやくぶく ての経験則です。逆折伏するしかない。そんな暇はないと言えばないのですが、教師と いう職業だと仕方がない。少しでも逆折伏につながれば、という思いがあるから、今で も教室で喋ることの何割かは、こういうことを色々な形で喋っているのです。 それがどこまで通じるのかはわかりません。そんなことを考えて、単純な見返りを求 めても仕方が無い。 しかし、それを話し続けることが、少なくとも私にとっては「人生の意味」の一つだ と思っている。文句を言いながらも教育の現場にいるというのは、そのために他なりま せん。 知的労働というのは、重荷を背負うことです。物を考えるということは決して楽なこ とじゃないよということを教えているつもりです。それでも、学問について、多くの学
その問題をもう一遍、我々は問い直す必要があるのです。 オバサンは元気 事はホームレスだけでは納まりません。家庭の主婦についても、家事労働がかってよ りも遥かに楽になってしまった。飯炊きはボタンを一回押すだけ、研がずに炊ける米だ って出てきた。洗濯だって似たようなものです。 それでもどういうわけか、「家事は無限にある」「男にはわからないけれど家事は大変 なのよ」と、奥さん方は言います。確かにそうなのかもしれませんし、それをいちいち 議論すると家庭内で問題が起きるでしようが、とりあえず暇な時間が増えたのは間違い ない。 そこまで女性を暇にして、女性に対して次に何を与えるか。あるいは、女性がその暇 を利用してどういうことを作り出していっているか。次はその問題になってくる。 すると、家事労働を随分楽にすることによって、女性は、ただ単純に楽になってしま っただけという結論が出てくる。面白いのは、暇になったオジサンがぐったりするのに
にするかが規定しにくい。そのうえ、脳そのものは均質なので、外形や機能で「賢い」 とか「バカ」とか判断することは実際には難しい、ということになります。 キレる脳 賢さについては、このように脳から判別していくのは非常に難しいのですが、他方、 昨今問題になっている「キレる」という現象については、実はかなり実験でわかってき ています。結論から言えば、脳の前頭葉機能が低下していて、それによって行動の抑制 が効かなくなっている、ということなのです。 これは教育関係の研究で様々なデータが残っていて、明らかになっています。一番わ かりやすい例として、信州大学教育学部が長年にわたって行っている実験があります。 単純化して説明すると、こんな実験です。まず、子供の目の前に赤のランプと黄色の ランプを置き、手元にはスイッチを押せるようにしておく。そして赤が点いたら何もせ ず、黄色が点いた時にだけ、スイッチを押すように指示をしておく。この時、スピード は競わない。ですから、子供はゆっくりでも正確に反応してくれればよいのです。
として、桶に人れて湿地に埋めた土葬の死体のなかには、腐らなくて濡れたミイラみた いな状態になっているものもある。保存状態がいいものは髪の毛もちゃんと残っていて、 男か女か、故人がどんな人だったかもわかるようになっています。 ところが、今は火葬以外の埋葬は殆ど見られなくなっている。本来、死体をどのよう に扱うかというのは宗教にも関係する大問題のはずなのに、何となく変わってしまった。 共同体の崩壊 個人にとって見過ごされてきたのが「身体問題」だとすれば、社会にとってのそれは 「共同体」の問題でしよう。デカルトは「良識は全ての人に与えられている」と言って います。 普通にこの世の中、共同体のなかで暮らしていれば「共通了解」に達する、はずでし た。ところがその「共通了解」が戦後の日本では偏ったか失われたかしている、という ことになる。「共通了解」のもとになる共同体が一方で残っていて、一方で壊れてしま っているのが日本の社会の難しいところです。
の方がはるかに効率が良く、簡単なプログラムで済むことがわかっています。 文武両道 ここで言えるのは、基本的に人間は学習するロポットだ、ということ。それも外部出 力を伴う学習である、ということです。 「学習」というとどうしても、単に本を読むということのようなイメージがありますが、 そうではない。出力を伴ってこそ学習になる。それは必ずしも身体そのものを動かさな くて、脳の中で人出力を繰り返してもよい。数学の間題を考えるというのは、こういう 脳内での人出力の繰り返しになる。 ところが、往々にして人力ばかりを意識して出力を忘れやすい。身体を忘れている、 というのはそういうことです。 江戸時代は、脳中心の都市社会という点で非常に現在に似ています。江戸時代には、 ちこうごういっ 朱子学の後、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえば、「知行合一」。す なわち、知ることと行うことが一致すべきだ、という考え方です。