す。 もちろん、自分は自分だという考え方に、ある真実性が人っていないと困るというこ とは間違いない。死ぬまで一個の個体ではあるし、確かに自分は自分です。遺伝子も一 生変わらない。それは同じでしようと言われれば、その通りなのです。 しかし、人と情報、両者の本質的な特性を比較して考えれば、大きく見て変わらない のがどちらであるかは明らかでしよう。だから、若い人には個性的であれなんていうふ うに言わないで、人の気持ちが分かるようになれというべきだというのです。 むしろ、放っておいたって個性的なんだということが大事なのです。みんなと画一化 変 報することを気にしなくてもいい。 情 「あんたと隣の人と間違えるやっ、だれもいないよ」と言ってあげればいい。顔が全然 転 流違うのだから、一卵性の双生児や、きんさん、ぎんさんじゃない限り、分かるに決まっ 万 ている。「自分の個性は何だろう」なんて、何を無駄な心配してるんだよと、若い人に 四言ってやるべきです。 第 それより、親の気持ちがわからない、友達の気持ちがわからない、そういうことのほ
うが、日常的にはより重要な問題です。これはそのまま「常識」の問題につながります。 それはわかり切っていることでしよう。その問題を放置したまま個性と言ってみたっ て、その世の中で個性を発揮して生きることができるのか。 他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成 り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、通るわけがない。 当たり前の話です。 意識と一言葉 意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものであることの代表例が言葉だというこ とは既に記しました。この問題は、特に西洋ではギリシャ哲学の昔から考えられていま す。 そして、ここから、日本人には理解しづらい「定冠詞と不定冠詞」の違い、つまり rthe ( 定冠詞 ) 」と「 a ( 不定冠詞 ) 」の違いも分かってきます。意識の共通性を考える 上で、ここでは一一一「葉を脳がどう処理しているかを考えてみましよう。 0
考えられるのです。 戦後、我々が考えなくなったことの一つが「身体」の問題です。「身体」を忘れて脳 だけで動くようになってしまった。といっても、「そんなわけはない。頭痛もすれば肩 こりもする」「体重が増えて階段を上るのがキツィことを自覚している」と仰しやるか もしれません。ここでいう身体の問題とは、そういうことではありません。 オウム真理教の身体 これについては、まずは犯罪史としてのみならず、戦後思想史上の大事件と考えられ るオウム真理教事件を題材にとってみましよう。 オウム真理教は、言うまでもなくあらゆる意味で大きな問題でした。が、私はそれを どう考えるべきか、なかなか整理がっかなかった。私が教えていた東大生も、ずいぶん 弓つかかった。、 どうして、あんな見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていく のかがわからなかったのです。 しかし、竹岡俊樹氏の『「オウム真理教事件」完全解読』 ( 勉誠出版 ) を読んでようや
尊師が言ったこと、アラーの神の一一一〔葉、聖書に書いてあることが全てを支配する、と いうのは、その人にとってが限りなく大きい、ということになります。 感情の係数 この一次方程式で、行動の大抵のことは説明できる。ここまで述べてきたことは、 「わかる」ということについてでしたが、感情についても同様の説明ができます。 簡単に言えば、がゼロより大きいという場合を好きとすると、がゼロより小さい とき、マイナスになっているから嫌い。誰かを見た時、すなわちそういう視覚情報が 人力されて、がプ一フスならば、Ⅱ行動はプラスになる。 係誰でも、親しい人とか恋人だったら喜び勇んで寄っていったり、徴笑んだりするのが 中普通でしよう。しかし、嫌いな相手や借金取りだったらがマイナスになって、結果と 脳 してもマイナスになる。道の反対側に脱兎の如く逃げていくか、殴りかかるか、嫌な 二顔をするか、ともかくマイナスの行動をするわけです。 第 行動にはプラスマイナスがある。つまり、がプラス一〇にもなれば、マイナス一〇
生に「しか」なれなかった。 そういう社会で、現に先生が子供に本気で面と向かって何かやろうとしたら大変なこ とになってしまう。その気持ちはわかる。親は文句を言うし、校長にも怒られるし、 も文句を言う。自分の信念に忠実なんてとてもできません。仕方がないから適当に やろうということでしよう。 いわゆる 現在、こういう教育現場の中枢にいるのが所謂「団塊の世代」です。大学を自由にす るとか何とか言って闘ってきた年代の人がそうなっちゃっているというのはおかしなこ とに思えるかもしれません。が、私は学園紛争当時から、彼らの言い分を全然信用して いなかった。案の定、その世代が今、教師となり、こういう事態を生んでいる。 し 怪 の 「退学」の本当の意味 育 教 団塊の世代、戦後民主主義の世代から通用しなくなった言葉のひとつが「退学」です。 しかっての共同体では「退学」は復学が前提になっている、というのが暗黙のルールでし ノ 67
三日も会わなければ、人間どのくらい変わっているかわからない。だから、三日会わな かったらしつかり目を見開いて見てみろということでしよう。 しかし、人間は変わらない、と誰もが思っている現代では通用しないでしよう。刮目 という一一口葉はもう一種の死語になっている。 いつの間にか、変わるものと変わらないものとの逆転が起こっていて、それに気づい ている人が非常に少ない、という状況になっている。いったん買った週刊誌はいつまで 経っても同じ。中身は一週間経っても変わりはしません。 情報が日替わりだ、と思うのは間違いで、週刊誌でいえば、単に毎週、最新号が出て いるだけです。 西洋では十九世紀に既に都市化、社会の情報化が成立し、このおかしさに気が付いた 人がすでにいた。カフカの小説『変身』のテーマがこれです。 主人公、グレゴール・ザムザは朝、目覚めると虫になっている。それでも意識は「俺 はサムザだ」と言い続けている。 変わらない人間と変わっていく情報、という実態とは正反対のあり方で意識されるよ
もちろん、これだけでは、本当にその子が育てにくい子だったのか、それとも親子関 係や母親に問題があったのかはわかりません。それを調べるには、さらに細かい質問を しておいて、それとの相関関係を調べなくてはいけない、ということになる。この調査 あらかじ の難しいところは、開始の時点で予め、測ることをきちんと細かく決めておかないとい けないというところです。当然、大変な手間がかかります。 赤ん坊の脳調査 ですから、こうした調査は数千人単位、すなわち国家規模で行わなくては意味が無い。 実は教育の問題というのはこうした科学的な調査をきちんと行わなくてはいけないのに、 し殆どそれがなされていない。そして科学的調査抜きで考えるから常に素人談義のレベル のを抜け出ない。文部科学省の役人に払う給料があったら、省を潰してこちらの方に回し たほうが、よほど役に立つはずです。 七むろん、この研究も突き詰めて考えると、さらなる問題に突き当たります。その個人 の背景となる時代というのは一回しかない。昭和二十年生まれの人の二十年間と、四十 7 / 3
逆に⑩より手前、⑩以下のところでぶつかれば左耳に先に人った音、左側の音というこ とになります。ステレオの中央で音を聞くように、真ん中から聞こえてくる音は、丁度 真ん中、⑩の神経細胞でぶつかることになります。 神経の伝達でいえば、軸索の中では刺激が音速で伝わりますが、その後のシナプスの 反応はもっと時間がかかる。こうした速度は全て化学反応ですから、個人差があるわけ ではありません。 暗算の仕組み 脳についての仕組み、また反応の速さについては以上述べたようなことがわかってい ます。要は、脳の形状とか機能で特に個人差があるわけではない、ということです。と のすると、頭の回転が速いとか、反応が速いという人がどうして存在するのか。その仕組 みをどう考えればいいのでしようか。 六世間で言うところの頭の良さとか賢さということには、社会的適応性の問題が大きく / 第 関与するので難しいと書きました。第二章で触れた y Ⅱ ax のが適正かどうか、という
れたようです。結局われわれは、自分の脳に人ることしか理解できない。つまり学問が 最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです。 若い頃に、家庭教師で数学を教えたことがあります。数学くらい、わかる、わからな いがはっきりする学問はありません。わかる人にはわかるし、わからない人にはわから ない。わかる人でも、あるところまで進むと、わからなくなります。もちろん一生をか ければわかるかもしれないのですが、人生は限られています。だからどこかで理解を諦 める。もちろんそうしない人は、専門の数学者になるでしよう。しかしそれでも、数学 のすべてを理解するわけではない。それを考えれば、だれでも「バカの壁」という表現 はわかるはずだと思っています。 あるていど歳をとれば、人にはわからないことがあると思うのは、当然のことです。 しかし若いうちは可能性がありますから、自分にわからないかどうか、それがわからな い。だからいろいろ悩むわけです。そのときに「。ハ力の壁」はだれにでもあるのだとい うことを思い出してもらえば、ひょっとすると気が楽になって、逆にわかるようになる かもしれません。そのわかり方は、世間の人が正解というのと、違うわかり方かもしれ
の程度で丁度いいのかをしつかり見据えておかないと、間違ったほうへ行ってしまう。 私が、昔のことを何度も持ち出すのは、昔の人は、そういうことを考えていたからで す。まず、考えられてきたのは欲の問題。欲というのは、現代社会ではあまり真剣に 議論されていない。欲を欲だと思っていない人が非常に多い。欲を正義だと思ってい 要するに、人間の欲を善だというふうにしてしまうと、行き着く先は、鈴木宗男氏と か、いわゆる金権政治家みたいになってしまう。 欲というのは単純に性欲とか食欲とか名誉欲とかではなく、あらゆる物は欲だといえ てる。権力指向ももちろん欲の表れでしようが、学問では、それが理屈とか思想という形 超で出ているのです。ジャーナリズムにおいても、ある意味では多くの人の意見を自分た 論ちの考えで統一しようという欲が裏にある。 結局、そう考えていくと、全てのものの背景には欲がある。その欲を、ほどほどにせ 八いというのが仏教の一番いい教えなのです。誰でも欲を持っているので、それがなけれ田 ば人類が滅びてしまうのはわかっている。しかしそれを野放図にやるのは駄目だ、と。