として、桶に人れて湿地に埋めた土葬の死体のなかには、腐らなくて濡れたミイラみた いな状態になっているものもある。保存状態がいいものは髪の毛もちゃんと残っていて、 男か女か、故人がどんな人だったかもわかるようになっています。 ところが、今は火葬以外の埋葬は殆ど見られなくなっている。本来、死体をどのよう に扱うかというのは宗教にも関係する大問題のはずなのに、何となく変わってしまった。 共同体の崩壊 個人にとって見過ごされてきたのが「身体問題」だとすれば、社会にとってのそれは 「共同体」の問題でしよう。デカルトは「良識は全ての人に与えられている」と言って います。 普通にこの世の中、共同体のなかで暮らしていれば「共通了解」に達する、はずでし た。ところがその「共通了解」が戦後の日本では偏ったか失われたかしている、という ことになる。「共通了解」のもとになる共同体が一方で残っていて、一方で壊れてしま っているのが日本の社会の難しいところです。
とを前提にする以外あり得ない。それがお互いに話をすることの意味であり、説明する ことの意味だからです。だから、本来、意識の世界の中に個跿を持ち込まれたらどうし ようもない。 もちろん、共通性を追求するといっても、その時代の人間全員が、一斉に共通の認識 を持つようになるわけではない。タイムラグは必ず存在します。 モーツアルトは、最初に発表されたときは、これが音楽かという批判もあったそうで す。当時としては最先端だったので、すぐに皆に理解されたわけではない。 しかし、それは後に西洋音楽の一種のシンポルになった。基本的には、時間さえたて 変 報ば、完全に理解されるということでしよう。徐々にか、猛スピードでかはケース・ イ・ケースですが、共有化されていく。 転 流意識にとっては、共有化されるものこそが、基本的には大事なものである。それに対 万 して個性を保証していくものは、身体であるし、意識に対しての無意識といってもいい。 四 今の人は夢にもそう思ってない。それどころか、まったく逆に、意識の世界こそが個 第 性の源だと思っている。それだったら、松井選手や長嶋さんの個性は、どう説明される
松井、イチロー、中田 「個性」を発揮すると 第四章万物流転、情報不変 私は私、ではない自己の情報化『平家物語』と『方丈記』「君子 豹変」は悪口か「知る」と「死ぬ」「朝に道を聞かば : : : 」武士に 二言はないケニアの歌共通意識のタイムラグ個性より大切なも の意識と言葉脳内の「リンゴ活動」 the と a の違い日本語 の定冠詞神を考えるとき脳内の自給自足偶像の誕生「超人」 の誕生現代人プラス 第五章無意識・身体・共同体 「身体」を忘れた日本人オウム真理教の身体軍隊と身体身体と の付き合い方身体と学習文武両道大人は不健康脳の中の身 体クピを切る共同体の崩壊機能主義と共同体亡国の共同体
の強い意味をアメリカは持っていないように思える。 ただし、こうしたイデオロギーが人生の意味であるという状態 ( たとえば戦前の日本 もそうでした ) は、もはや終わっていると思います。正当化するつもりもない。しかし、 だからといって人生の意味が無くなったという結論にはならない。 現代人においては、「食うに困らない」に続く共通のテーマとして考えられるのは 「環境問題」ではないでしようか。環境のために自分は共同体、周りの人に何が出来る か、ということもまた人生の意味であるはずなのです。 共同体が機能している時には、人間同士の貸し借りそのものがある種の人生の意味た りえた。生きていくうえでは何らかの付き合いがあって、そこではどうしても貸し借り が生じる。 何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本 もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送 り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。 7 ノ 2
共通了解と強制了解 い「わかる」ということについて、もう少し考えてみます。一口に「わかる」と言っても、 その中身は色々です。ここでは「共通了解」と「強制了解」という分け方で考えてみま しよう。基本的に言語は「共通了解」、つまり世間の誰もがわかるための共通の手段で 性す。この一一一口語のなかから、さらにもっとも共通な了解事項を抜き出してくると「論理」 個 になったり、「論理哲学」になったり、さらに「数学」となったりします。 三数学というのは、証明によって、いやが応でも「これが正しい」と認めさせられる論 第 理です。もはやこれは「強制了解」という領域になります。数学的に証明をされてしま 第三章「個性を仲ばせ」という欺瞞
かっては「誰もが食うに困らない」というのが理想のひとつの方向でした。今はそれ が満たされて、理想とするものがパラバラになっている。だからこそ共同体も崩壊して いる。昨今の風潮でいえば、こうした。ハラバラであることそのものが自由の表れである かのような考え方もあります。これはどこか「個性」礼賛と似ている。 しかし、そうではないのではないか。「人間ならわかるだろ」という常識と同様、人 間にとって共通の何らかの方向性は存在しているのではないでしようか。 私は、一つのヒントとなるのは「人生には意味がある」という考え方だと思っていま 体す。アウシビッツの強制収容所に収容されていた経験を持っ > ・・フランクルとい 共 う心理学者がいます。彼は収容所での体験を書いた『夜と霧』 ( みすず書房 ) や、『意味 身への意志』『〈生きる意味〉を求めて』 ( 春秋社 ) など、多数の著作を残している。 そうした著書や講演のなかで、彼は、一貫して「人生の意味」について論じていまし た。そして、「意味は外部にある」と言っている。「自己実現」などといいますが、自分 五が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自 9 第 分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、というこ
うと、とにかく結論を認めざるを得ないわけです。 この数学に、自然科学では「実証」という要素を加えました。実験室で調べてみたら こういう結論になりました、と言われるともっと認めざるを得ない。逆らいようがない。 強制的に認めさせられることになる。これは「実証的強制了解」と呼ぶことが出来ます。 人間の脳というのは、こういう順序、つまり出来るだけ多くの人に共通の了解事項を 広げていく方向性をもって、いわゆる進歩を続けてきました。マスメディアの発達とい うのは、まさに「共通了解」の広がりそのものということになります。 マスメディアによって、かっては考えられなかったくらい多くの人間が同じシーンを 見る、という事態が発生してきた。一一一「語だけではなく、マスメディアのおかげで、多く の人がある事象について、共通の情報を受けるようになったのです。共通了解が、多く の人とわかり合えるための手段だということを考えれば、それが発展していくことは自 然な流れでしよう。 ところが、どういうわけか、そうした流れに異を唱える動きがあります。「個性」の 尊重云々というのがその代表です。
うが、日常的にはより重要な問題です。これはそのまま「常識」の問題につながります。 それはわかり切っていることでしよう。その問題を放置したまま個性と言ってみたっ て、その世の中で個性を発揮して生きることができるのか。 他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成 り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、通るわけがない。 当たり前の話です。 意識と一言葉 意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものであることの代表例が言葉だというこ とは既に記しました。この問題は、特に西洋ではギリシャ哲学の昔から考えられていま す。 そして、ここから、日本人には理解しづらい「定冠詞と不定冠詞」の違い、つまり rthe ( 定冠詞 ) 」と「 a ( 不定冠詞 ) 」の違いも分かってきます。意識の共通性を考える 上で、ここでは一一一「葉を脳がどう処理しているかを考えてみましよう。 0
その歌は、こういう歌詞でした。 「この間、選挙で投票して当選した人は、あれもする、これもするっていろんな約束し たけど、何にもしない。きのう、お土産を持ってくるって約束したお客はちゃんと持っ てきた」 我々からすれば、まだ自然の中で生活している、都市化されていないはずの彼らの世 界ですら、すでに約束についての概念が日本の政界と変わらなくなっている。脳化Ⅱ都 市化が世界中に広がっているわけです。 共通意識のタイムラグ 世の中が曲がった理由の一つは、この「あべこべの状態」について自覚が無いからで しよう。意識中心の世界ゆえの状況だと思う。 生きている人間というのはひたすら変わっていくのに、俺は「不変の情報だ」と頑張 る人。個性尊重という一言葉はここから出てくるわけです。 意識の世界や心の世界に関しては、感情であろうが、理屈であろうが、共通であるこ
マニュアル人間 「個性」を発揮せよと求められるのは、子供に限りません。学者の世界でも同じです。 学問の世界でも、やたらに個性個性と言うわりには、論文を書く場合には、必ず英語で 書け、と言われる。 い学術論文には「材料と方法」という欄があります。論文を書くにあたっては、その言 語も、「方法」の基礎のはず。ところが、学者の世界では大概、英語を共通語として、 せ それを使うように求められる。一体どこが個性なのでしようか。 性英語で書かなくてはいけないという規則は存在しません。しかし、「英語で書かない 個 と評価されない」と言う人がいます。そもそも誰が評価されないといけない、などと決 三めたのかもわからないのですが。 第 今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通了 今の日本人のやっていることでしよう。だとすれば、そういう現状をまず認めるところ からはじめるべきでしよう。個も独創性もクソも無い。