ういう状態を私たちは幸福だと感じるのか、というテーマになる。 我々は今日まで一生懸命、単調な社会を延々と作ってきた。例えば、かっては働かな くても食える状態に近づきたいという気持ちが共通の原動力となって、これだけ生活が 便利になった。 以前なら、十軒で耕していた田んぼを今は一軒でやっている。そうすると、九家族は 遊んでいるわけです。農村人口が減っていくのは当たり前で、合理化すれば、九家族は 別なことをしなければいけない。機械化等の合理化によって、一家族が働いただけで、 かってなら十家族が働いていただけの上がり、収穫が出てしまう。今よりさらに肥料を てよくして、機械をよくすれば、もっと収穫が上がるかもしれない。 超では、その遊んだ分は一体どうするのかということを本当に考えてきたか。合理化、 を 論合理化という方向で進んできて、今もその動きは継続している。が、それだけ仕事を合 理化すれば、当然、人間が余ってくるようになる。 八 この余ってきたやつは働かないでいいのか。仮に、その分は働かなくていいという答 / 第 えを出すのなら、今度は働かない人は何をするかということの答えを用意しなければい
これは、要するにべクトルの向きが逆になるから好きになったということ。Ⅱゼロ、 無関心の場合、こうはなりません。相手にはなから興味が無い、現実として捉えていな いのですから。「眼中にない」とはまさにこの状態です。 の値がどう出るかによって、ある状況において、その人が適しているか、適してい ないかということも基本的に決まってくると考えられる。の値が適切であれば環境適 応性があるし、不適切であればその環境には合わないということです。 「この会社にはどうしても合わないから辞める」というのは、その人のの値が、所属 している会社という環境からの人力に対してどうもうまくいっていない。うまい値に設 定されていないということになる。 係まあ、どの会社に行ってもすぐ辞めるとなると、その人はそもそも「会社」というと 中ころから共通して発信される情報に対して常に適切なの値を設定出来ていない、とい うことになります。「おやじの説教」を聞き流すのと同じように、「上司の指導」につい 二て常にゼロで反応する若者は、もはや会社に向いていない。 第 たとえマイナスであっても、コミュニケーションにおいては、が存在していた方が
す。 「確実なことは何も無いじゃないか」と言っている人だって、実際には今晩帰宅した時 に、自分の家が消え去っているなんてことは夢にも思っていない。本当は火事で全焼し がいぜんせい ている可能性だって無い訳ではないのですが。全ては蓋然性の問題に過ぎないのです。 「もう何も信じられない」などと頭を抱えてしまう必要は無いのです。そういう不安定 な状態から人は時にカルト宗教に走ったりもする。 別に「全てが不確かだ。だから何も信じるな」と言っているわけではないのです。温 暖化の理由が炭酸ガスである可能性は高い、と考えていてよい。毎日の天気予報では、 「降水確率六〇 % 」という表現がされていて、それを普通に誰もが受け止めています。 それと同じで、「八〇 % の確率で炭酸ガスと思える」という結論を持てばよい。 ただし、それは推測であって、真理ではない、ということが大切なのです。なぜこの 点にこだわるかといえば、温暖化の問題の他にも、今後、行政に科学そのものが関って いくことが多くなる可能性がある。その時に科学を絶対的なものだという風に盲信する と危ない結果を招く危険性があるからです。
あるのではないか。 ところが、司法当局、検察は、それをやるのを非常に嫌がります。なぜならこの手の 裁判は、単に彼を死刑にするという筋書きのもとに動いているものだからです。延々と やっている裁判は、結局のところある種の儀式に近い。そこに横から、 o 云々といえ ば、心神耗弱で自由の身ということに繋がるのではないか、という恐れがある。だから、 検察は嫌がる。 犯罪者の脳を調べよ 本来ならば、そういう法律的な結論とは別のところで、彼の脳はどういう脳か、とい うデータはとっておくべきなのです。こういう犯罪に関しては強制的に脳の検査をされ Ⅳ凶 のても仕方が無い、ということを法律的に決めてもよい、と思っています。それは、「こ ういう脳だからこの人は人を殺してもやむを得ない、だから無罪」ということにするた 六めではありません。 第 犯罪者の脳について科学的にデータをとっておくということ自体は、社会にとって有 こうじゃく 75 プ
ということが逆によくわかる。大人にしてみれば、危ないから家の中で何かをしてくれ たほうがずっといいなんてつい考えてしまう。それで団地なんかにいたら、虫に会うわ けでもないし、何にもない。そうすると、ちょっと子供は不自然に育ってしまう気がす 別にそれは都会の子に限らない。田舎の子だからそれができるかというと、全然でき ない。極端な話、都会の子が夏休みになって田舎に来ると、初めて近所の川に一緒に行 くなんてことがあると聞きます。 育てにくい子供 し タブーが多いとはいえ、脳と教育の関係については今後徹底的に調べなくてはいけな 怪 のいと思います。現在、二つのプロジェクトが進行しています。ひとつは文部科学省の 教 「教育と脳」に関するプロジェクトで、もうひとつが Z の「子供によいメディア」 七をテーマにしたもの。両方とも、子供の発育と脳、というテーマです。 第 子供の脳を調べるにあたって注意すべきは、その手法です。従来の調査では、小学校 ノ刀
す。 日本では、この都市化に伴って、近代になって急に身体問題が発生してしまっている。 恐らくは古くから都市化の歴史を持っている社会、中国やユダヤ人の文化というのは古 くから都市化をしていったために、こういう問題はすでに済んでしまったのだと思いま す。 それでも、日本においても、ある時期までは軍隊という形で強制的に、都市生活をし ている男性においても身体を規定していった。軍隊というのは、どういう組織かといえ 体ば、とにかく考えずに身体の運動を統一させる組織です。戦場で下手にものを考えてい 共 たらその間に殺されるのですから、反射的に動くことを徹底的に訓練で叩き込む。上官 身が右、というのに、いちいち「ハテ本当に右を向いてよいものか」などと考えていては 識話になりません。 五身体との付き合い方 第 誤解の無きように申し添えれば、私は決して「徴兵制を復活せよ」といったことを主 一口
ものです。 機能主義というのは、ある目的を果たすために、人間の使い方が、この人はこれ、こ の人はこれ、という風に適材適所で決まってしまうことになる。当然、「あの人もいい 人だから、希望の部署に行かせてあげたい」とか「無能だけれど家族があるからクビに 出来ない」といった物言いは通用しません。その機能主義と共同体的な悪平等とがぶつ かってしまうのが日本の社会です。 それでどうなるかといえば、結局、日本の社会は長い目で見れば、機能しなくなって 共同体にな「てしまう。機能主義に共同体の論理が勝ってしまうのです。 共 官庁、特に外務省がその典型でしよう。「外務省というのは何をするところか」とい 身う根本の議論がなされないまま、外務省に人った職員全体の利益のために皆が動く、と 識いうことになっている。外交によって国益を守るということよりも、省のために働くこ 意 とが優先されているのです。少なくともそうとしか見えない。 五ここでいかにも共同体的だと思えるのは二世、三世の世襲キャリアが非常に多いこと。 第 そのくせ仕事は大して無い、というのは、他の官庁の連中が口々に言っています。
文貝い凶、ヾカよ凶 賢い人と賢くない人の脳は違うのか。外見はまったく変わりません。もちろん、一定 以上の限度を越えれば話は別です。前述した通り、チン。ハンジーの脳は人間の脳より小 さいわけですから。人間の脳でいえば、通常の三分の一、四五〇グラム、という例もあ のりますが、これは小頭症という病気で、やはり機能には問題がある。しかし、逆に二〇 〇〇グラムも脳がある白痴がいた、という記録もあります。そういう極端な例を除けば 六大小は関係無い。 第 脳みそのシワが多いといい、という俗説もありますが、これも関係無い。なぜ脳にシ 第六章バカの脳
の反証でした。この理論が実験的に検証出来るかどうかを彼は考えた。「空間が曲がっ ている」というアインシュタインの説は正しいのかどうか。 この検証として、具体的には日蝕の時に、星の位置を観測した人がいる。すると実際 には太陽に隠れて見えないはずの星まで観測することが出来る。つまり光が曲がって伝 わって来ている。それは空間が曲がっている、ということの証明になる。だから、とポ ーはいいます。わずか一つのことに睹けられることの大きい理論ほど、よい理論であ る、と。 何 は 確実なこととは何か このような物言いは誤解を生じやすく、「それじゃあ何も当てにならないじゃないか」 壁 力と言う人が出てくる。しかし、それこそ乱暴な話で、まったく科学的ではない。 そもそも私は「確実なことなんか何一つ無い」などとは言っていない。常に私たちは 一「確実なこと」を探しつづけているわけです。だからこそ疑ったり、 検証したりしてい る。その過程を全部飛ばして「確実なことは無い」というのは一一一「葉遊びのようなもので ノ
張したいわけではない。軍隊がいいとか悪いとかいうことではなく、それが存在してい た時に、そこに所属していた者たちは、身体について考える必要が無かった、というこ とです。 考える前の段階で、訓練によって身体を強制的に動かされる。いわば、身体依存の生 活を送らざるをえなくなります。そこでは否応無く身体を意識することになります。 では、軍隊が消失した現在において、身体とどう付き合っていくのか。その問題 ( の 答えを、ある種の若者たちに提示したのがオウム真理教、麻原彰晃だったのではないか、 それこそがオウム問題の重要な点だったのではないか、と思うのです。身体の取り扱い がわからなかった若者に、麻原がヨガから自己流で作ったノウハウをもとに″教え〃を 説く。それまで悩んでいた身体について、何かの答えを得たと思うものはついていった、 ということでしよう。 はら オウムに限らず、身体を用いた修行というものはどこか危険を孕んでいます。古来よ 、仏教の荒行等の修行が人里離れて行われる、というのは、昔の人間の知恵だったの かもしれません。