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検索対象: ユダの福音書を追え
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1. ユダの福音書を追え

ナグ・ハマディ文書の発見から三十年後に、エジプトのミニャー県で新たに見つかり、ジュネ ープのホテルの一室でごく簡単に調査された写本には、まったく新しい啓示を伝える福音書が含 まれていた。コプト語で書かれたそのグノーシス派の文書を初めて読んだ者は、わき起こる不安 をおさえることができなかっただろう。のちに、文書の復元と翻訳作業に携わったロドルフ・カ ッセルは、最初に目にしたときの気持ちをこう語っている。 「にわかには信じられなかった。徹底的に破棄されたはずの文書が見つかるなど、 いったい誰 が予測できただろう。私は恐ろしくなった」 「研究者というものは、多くのことを知っているようでいて、実は、何も知らないものだ。何 か発見されると、われわれは新たな学説や解釈をうちたてる。するとまた、それまでの解釈を覆 すような文書が見つかる。文書にあわせて、こちらの考え方を変えていくしかない。研究の主役、 主導権を握っているのは文書のほうなのだ」 写本を初めて目にしたとき、カッセルはとまどいを覚えながらも、その画期的な意義を理解し た。この文書は、ナグ・ハマディ文書をはるかに上回るキリスト教の多様性を示していた。 の喜びを述べた発見の書である。人は誰しも自分自身のなかに神を見出すことができ、あやまち や恐怖という霧は消え去り、暗黒に支配された悪夢の日々は、光に満ちあふれる永遠の日々にか わることを伝えている」 200

2. ユダの福音書を追え

いずれにしても、この文書は一枚岩的なものではなく、グノーシス派をはじめとする、さまざ まな宗教的信仰や慣習をもっ宗派の思想を表している。 とくに興味深いのが、グノーシス派には男女同権の考え方が見られることだ。初期キリスト教 グノーシス派では、女性が重要な役割を担ってした。。 、 ' ヘイゲルスは、『ピリポ福音書』に記され た「イエスの言動は、新約聖書とは完全に異なるものになっている」と述べている。たとえば、 次のような一節がある。救世主の連れはマグダラのマリアであり、イエスは「彼女を〔どの〔弟 子よりも愛し、〔彼女の〕口に〔しばしば〕接吻した」。。 ヘイゲルスはさらにこ、つ指摘している。 『マリアによる福音書』 ( ベルリン・コデックス八五〇二。ナグ・ハマディではなく、 ベルリンで 見つかったグノーシス主義の写本 ) は、「復活したイエスを最初に見たのはマグダラのマリアだ ったという『マルコによる福音書』と『ヨハネによる福音書』に述べられた伝承を想起させる。 『ヨハネ』によれば、マリアは復活の日の朝にイエスに会ったが、 ほかの弟子たちは、その日の 夕方になってはじめてイエスの姿を見たのである」 グノーシス主義で、重要な意味を持っ天上の存在 ( アイオーン ) 、ソフィアは、男性神格のイ エスと対になる女性神格である。マイヤーは、ソフィアについてこう述べている。 ソフィアとは、アイオーンや神格のうち、現世界に存在する神格を指す。上位世界から転落 して引き戻されたが、そのときに彼女の光の粒子がこの世界に、そして人間の肉体のなかに閉 198

3. ユダの福音書を追え

それから二十七年が経って、ジョアンナはあの文書が正確にはどこで発見されたのかを調べよ うと試みた。かなりの苦労の末に、彼女はマフムードの電話番号を手に入れた。彼がアム・サミ アと親しかったことは分かっていた。 連絡を受けたマフムードはすぐに彼女のことを思い出した。これほど長い年月を経て彼女が連 絡をくれたことに、とても喜んでいた。最初のうち彼はとても熱心で、文書の発見について情報 を集めるのに協力すると言っていた。彼はジョアンナに、自分も例の洞窟に行ったことがあり、 古代の写本があった場所も正確に覚えていると話した。そこはまさに、ジョアンナが訪れた洞窟 だった。マフムードはその洞窟について事細かに説明した。いくつものかごの中にローマ時代の ガラスのフラスコが入っていて、後にカイロやアレクサンドリアなどの大都会の市場へ売却され墓 漠 たことも覚えていた。 砂 しかし、彼はいくつか注意をうながした。エジプト当局は今もこの地下墓地の存在を知らない このジョアンナの証言は実に貴重なものだ。アム・サミアは、彼女に語りたいことはもっとあ ったはすなのに、恐ろしかったのか、秘密を明かしたくなかったのか、それ以上話さなかったか らだ。彼女の話は現在のところ、この驚くべき発見に関する唯一の証言だ。それからしばらくし てアム・サミアは他界した。『ユダの福音書』を世に知らしめる上で極めて重要な役割を果たし た遺物のスカウトは、この発見について知っていることの多くを語らぬまま、世を去ったのだ。

4. ユダの福音書を追え

この写本には、イエスを愛する使徒たちの中にあって、ユダという人間が実際にはどういう立 場にいたのかを解明する手がかりが示されている。その立場とはつまり、イエスから託された使 命のために汚名を着せられることになった弟子の立場である。 このパピルス写本に記された物語は、世界中にいる数多くのキリスト教徒にとっては神聖な古 代の物語に、衝撃的な新解釈をつきつけた。遠い昔、キリスト教の一宗派の筆記者によって、こ しまだかっ の福音書は書かれた。我々のよく知るあの物語が、ユダの立場から語られたことは、、 てなかった。 文書を書いたのが誰。 こせよ、その人物は広く知られている説に異を唱え、裏切り者ユダの善意 と、イエスの教えに対するユダ独自の解釈を信じていた。こうして何世紀もの時を経た現在、文 書は再び日の目を見た。ユダ、もしくはユダについて書き残した人物が、裏切り者の立場からイ エスの受難を物語る日がようやく訪れたのだ。 エジプトにおけるキリスト教を語るなら、やはり有名なアレクサンドリアの町から始めなけれ ばならないだろう。キリスト教コプト正教会は、新約聖書の中で最も成立年代の古い福音書を記 した聖マルコの教えを受け継ぐ教会だとされている。コプト派によると、聖マルコは皇帝ネ口が の 君臨した紀元五十年代にアレクサンドリアに現れ、その後六八年に、宗教活動を禁じられたユダ砂 ヤ人がローマ軍に対して起こした暴動の最中に殺害された。

5. ユダの福音書を追え

いない。アロゲネスは、コプト語で外国人あるいは異人種の人物を意味し、七十人訳聖書の作者 が考え出した名前である。アロゲネスは無知と恐れを克服し、天にあって多数の階層からなるグ ノ 1 シスの王国へと入っていく人物だ。 発見された文書の中で最も関心を集めたのは『ユダの福音書』である。マタイ、マルコ、ルカ、 ヨハネの四福音書がイスカリオテのユダについてわずかしか言及していないのに対し、新たに見 つかった福音書は、その表題が示す通り、ユダとイエス、両者の記述で満ちている。イスカリオ テのユダについて述べた個所は二〇もある。四福音書全体でユダについて言及している回数と同 じだ。『ユダの福音書」に描かれたユダ像は、新約聖書に描かれたものとは著しく異なる。魂に 悪魔が取り付いた裏切り者ではなく、イエスが特別扱いした弟子だ。イエスの言葉で「真の私を 包むこの肉体を犠牲に」することをイエスが要請した相手がユダなのだ。 イエスの人物像も同様に異なる。十字架上で苦しみながら死ぬ、苦悶に満ちた人物ではなく、 親しげで慈悲深くューモアのセンスを持ち合わせた教師だ。笑うことで人を嘲るようなことは決 してない。笑うのは教えている最中が多い。 『ユダの福音書』は、一つの対話で始まる。舞台はユダヤの地だが、具体的な場所は記されて エルサレムである必要はない。イエスが祭礼のために集まり、座っている弟子たちを見 出す。過越祭の三日前のことだ。 ろ 62

6. ユダの福音書を追え

本の状態とその扱われ方に対して感じた驚愕と失望感については特にふれていない。 「写本は、内側に新聞紙を敷いた三つの段ボール箱に保管されていた」とエメルは記録してい る。ただし、状態については憂慮されるべき事態だとし、「現在の所有者の手にある限り、この 写本はさらに劣化する危険性が高い」と述べている。 パピルス写本は一目見ただけで、本物だと納得するのに十分だった。「私自身も完全に納得し、 最初に見たときから、この文書が古代の本物のパピルス写本であることを確信した。偽造はまっ たくありえないと思われた」とエメルは一言う。偽造の可能性がゼロだと確信した理由について、 エメルはこ、つ説明する。 「本物のパピルス、つまりどんなパピルスでもよいわけではなく、古代のパピルス、明らかに 数百年たった古いパピルスでなければならない。さらに、古代コプト語の筆記体の書き方を知っ ていなければ偽物は作れない。現在、それを知っているコプト語専門家の数は非常に少ない。ま た、文法的に正しく納得のいくコプト語で文章を作ることができなければならない。それができ る人間の数は、コプト語が読める人間の数よりさらに少ないー 後の調査で、パピルスは本物であることが確認されることになる。「あまり良好な状態ではな かったが、 古文書を目の当たりにし、それにふれることができたのは、非常に興奮する出来事だ った」とエメルは言う。 この古文書の出所について、ハンナは三人の学者にかなり具体的に説明した。「所有者による と、この文書に含まれる四つの写本はすべて、オキシリネナス ( 現ェシュナサ ) から南へおよそ 150

7. ユダの福音書を追え

正確な記録は残っていない。、 ノンナは、エジプトを出てスイスにあるクトウラキスの屋敷へ行く ことについて多少の不安はあったものの、エジプト人の同業者とともにジュネープへ飛んできた。 そして、申し合わせておいた通り、フロリサン通りにあるクトウラキスの屋敷でベルディオスと 会った。 クトウラキスと彼の屋敷の第一印象を、ハンナは鮮明に覚えている。そこは広大な場所で、狭 い路地に人がごったがえす力イロでは見たこともないような邸宅であった。クトウラキスのよう に暮らしているのは、王族や政府の高官だけだった。あちこちに配置された「目ー、つまり監視 カメラにも強烈な印象を受けたという。さらにクトウラキスは番大も飼っていて、つないでから でないと訪問者は門の中にすら入れなかった。 クトウラキスはベルディオスとハンナを家の中には招き入れず、外の庭で会った。ミアはいな かった。マノリス・クトウラキスもそこにはいなかった。 最初の会談のときと同様に、今回の話し合いも短時間で終わった。クトウラキスはいつも通り 冷静で、強く出すぎることはなかった。貴重な古文書をどうにか取り戻したとハンナに伝え、写 本は古代へプライ語で書かれているようだと、個人的な意見も付け加えた。 ハンナはクトウラキスほど冷静ではなかった。窃盗事件についてっていたハンナは、すぐに 声を荒らげ、マノリスを脅してやるというようなことまでロにしたため、やむなくべルディオス が割って入ったとい、つ話もある。この点に関し、マノリス自身は異議を唱えている。「脅迫され たことは一度もなかった。ハ、 / ナは落ち込んでいて、少々常軌を逸していたけれど、脅迫するよ リ 8

8. ユダの福音書を追え

当局が古美術品の売買を行っていたと記事で指摘している。 アスワン・ハイ・ダムの建設で水没の危機にあったヌビアの神殿の移築作業が完了すると、 エジプト政府は協力の謝礼として、多くの重要遺物を外国に引き渡した。たとえば、ダブール 神殿はスペイン政府に譲渡され、マドリード美術館の丘に移築された。小さなデンダラ神殿は 一九七四年、リチャード・ニクソン米大統領に贈られた。その後もエジプト政府は、自国の文 化遺産の譲渡や国際市場での売却を続けたが、こうした行為は一九八三年の法律一一七号です べて禁止された。この法律によれば、エジプト国内のすべての古美術品は国家の財産であり、 これ以後の不法な国外への持ち出しは窃盗とみなされる。 ハワス長官は「盗まれた」古美術品を取り戻すために専門の部署を設け、エジプト政府が国有 財産とみなす文化財の行方を追ってきた。実際、この新法ができてからはエジプトから流出した 古美術品の返還が相次いでいる。とくに米国の裁判所がエジプト側の主張の正当性を認めるよう になってからは、この流れがさらに強まった。 この法律は外国人だけでなく、国内での最初の取引にかかわったエジプト人も取り締まりの対 象になる。この新法では、すべての古美術品が国有財産と規定され、当局への届け出が義務づけ られているからだ。 富裕なエジプト人の多くは、財産の一部を古美術品の形で保有することが多く、こうした古美 114

9. ユダの福音書を追え

ヨハネはこのときユダの名を出してはいないが、これがユダに触れた最後の記述だ。この部分 は、ピラトと共にユダを罪から解放しているようにも読める。というのは、二人とも神の計画に 従っているに過ぎないのだから。 『ヨハネによる福音書』には、ユダが自殺したとも後悔したとも書かれておらず、ユダの形見 となった「血の畑」についての記述もない。 他に新約聖書でユダの死について記されているのは、『使徒一言行録』の第一章一六 5 二〇節だ。 『使徒言行録』に述べられたユダの悲惨な最期は、四福音書の記述とは著しく違う。ユダを「イ エスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダ」と呼んでいる。『使徒言行録』の著者は、ユダ の裏切りに対して、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていまし た」として、悲しみと悔しさと激しい怒りの入り混じった気持ちを吐露している。 『使徒言行録』では、神殿の祭司長は血の土地を買わ 『マタイによる福音書』の記述とは違い、 なかった。土地を買ったのはユダで、悪事で得た金がそれに使われた。 ( 「このユダは不正を働い て得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、 はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土 しにあることを知らないのか』。イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたし に対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い』」 ( 第一九章七 5 一一節 ) 9 ろイエスを裏切る

10. ユダの福音書を追え

講演でカッセルは、運命と宿命という、ギリシャに由来し、初期キリスト教世界に広く流布し たこれらの概念の意味について語った。「知識のある古代人は、デスティニー ( ギリシャ語では モイラ ) とは糸と糸を " 織った】ものだと考えていました。同じように、人間の運命もいたると ころで交差する、繊維の一本一本なのです。人間の運命はまったく予想もっかないやり方で、計 画なしに、互いに交わります。数年前のスイスでのできごとのように」 そして彼は写本の内容を読み取るヒントをいくつか挙げた。 「『ユダの福音書』に記されたユダとイエスの物語は、教会が正典と定めた新約聖書の四福音書 のユダとイエスの物語と大きく矛盾しています。忌まわしい接吻で、最愛の師を最悪の敵に売り ・ : 。読み出しても結論を急いではなりません。 渡した、強欲な盗人で、やくざ者とも言えるユダ : 『ユダの福音書』には、新約聖書の中のユダとはまったく逆の人物像が描かれているからです。 ( ここにいるのは ) イエスの隠された友人、イエスの使徒たちから悪しざまにののしられたユダ なのですー しよくざい 「逆説的ですが、こうした解釈は、明白な裏切り、贖罪の代価、劇的な結末などのまちがえよ うのない事実があるにもかかわらず可能なのです」 「グノーシス派の考えでは、ユダのしたことは本当に罪深い行為だったのでしようか , 「司教のエイレナイオスが認めているように、この福音書を書いたグノーシス派教徒は、私た デスティニー ろ 14