なパピルス写本を入れた鞄がしつかりと握られていた。傷みの進んだ写本は無事に大西洋を渡っ たのだ。 米国で高く売るためにハンナの相談に乗ってくれたのは、カイロの知人だった。その人物はカ イロで医療関係の仕事に携わる、コプト人だった。ハ、 ノナはときどきこの人物に頼んで、手持ち のコインなどの物品をできるだけ高く売るために、歯科医療の機械を使って、曲げたり、修復し たり、磨いたりしてもらっていた。 ハンナは当初、米国にいるコプト人仲介者を通じて古文書を売ろうと考えていた。ニュ 1 ジャ 日にはコプト人が多く、およそ三万人いる。その多くは、一九六〇年代にコプト人の移住 が盛んだったときにやってきた。ジャージ 1 シティには、米国コプト人協会の本部があり、大き な教会もたくさんある。 教会関係者によると、同州だけで、十五ものコプト教会がある。車で三〇分のところにあるシ ダー・グロープには、コプト教会大主教区の本部があり、この地区の宗教行事のすべてを取り仕 切っていた。 カイロの知り合いを通じて、ハンナはジャージーシティのウエストサイド通りにある、聖マル コ・コプト正教会を紹介してもらった。 聖マルコ教会の司祭は、ガプリエル・アプデル・サイード神父だった。信徒の一人、ジョゼ フ・ラピプは神父を「非常に立派な」本物の指導者と説明する。ガプリエル神父の情熱と行動力 のおかげで、巨大な教会堂は、祈りの場としてだけでなく、近隣に住む相当な数のコプト人のコ 204
・耳ロ重で神がモーセに十戒を授けたとされるシナイ山で祈る 前のペーシ・王曰 巡礼者たち。最終的に世界に広まったキリスト教は正統派の教えで、 クノーシス派は消えていった。『ユダの福音書』は何者かの 手によって隠され、正統派とは大きく異なるユダの裏切りの解釈も、 救済の観念も葬り去られた。 オールドカイロにある“宙吊りの教会”工ル・ムアッラカ教会 ( 上 ) は、 エジプト最大のローマの城砦跡に建てられた古代のコプト教会だ。 写真の左端に見える、教会に隣接した建物がコプト博物館で、 『ユダの福音書」はここに収蔵されることになっている。
そのうちのひとつにモーセにまつわる話がある。コプトの伝承によると、オールド・カイロ地区 にあるべン・エズラ・シナゴーグは、若き日のモーセがエジプトの人々を苦しめていた疫病をし ずめるように、神に祈りをささげた場所である。べン・エズラ・シナゴーグに隣接して、ほかに いくつものコプト教会が建っている。 キリスト教の教えが広まるにつれて、エジプト人はかっての奴隷であり、自分たちのアイデン ティティを示すものとして、聖書に出てくるヘブライ人の話をすすんで受け入れるようになる。 コプト教徒はキリスト教の神を信じているが、その教義は、古代エジプトの信仰体系に旧約聖書 を組み入れたものである。よく引用されるのが「祝福されよわが民エジプト」という『イザャ しぎよ、つ 書』一九章二五節だ。このあとに「わが手の業なるアッシリアわが嗣業なるイスラエルーと続 く。エジプトに言及したこの一節は、コプトのさまざまな書物に出てくる。アレクサンドリアか らそう遠くないナイル・デルタ地域のアル・ミナにあるコプト教会の修道院の作業場では、『エ ジプトの聖家族』という美しい本をつくっているが、その裏表紙にもこの一節が記されている。 『イザャ書』では、「エジプトの地の中心に、主のためにひとつの祭壇が建てられ」ると予言し ている ( 『イザャ書』一九章一九節 ) 。さらに「主は御自身をエジプト人に示される。その日には、 エジプト人は主を知り、ししし 、ナこえと供え物をささげ、また主に誓願を立てて、誓いの供え物をさ さげるであろう」 ( 『イザャ書』一九章二一節 ) と続く。コプト教会によれば、主のための祭壇を 設ける場所として選ばれたのが、上エジプトのアシュートにあるエル・ムハラック修道院であり、 ここはコプト教徒の聖地となっている。
写本の出所がどこであれ、ハンナは何人かのエジプト人同業者の協力を得ていて、彼らに分け 、ノナとは異なる ノナの友人で仕事仲間でもあったプトロスが、ノ、 前を分配する必要があった。ハ、 ストーリ ーを語っている。たった四半世紀前の出来事だが、話はところどころ抜け落ちているし、 つじつまがあわないところもある。早朝のナイル川を覆う霧が日の出とともにかき消されるよう に、さ士ざ 6 なスト 1 リ 1 が現れては消えていく。私欲が絡んでいることも少なくない。 六十歳になるプトロスは、痩せていて用心深そうな顔つきをしていた。細い口ひげをたくわえ ていて、ときおりちらりと笑みを浮かべる。彼によると、最初にアム・サミアから写本を買った のはハンナ自身ではなく、ハンナと同業の古美術商の一人だった。彼はアム・サミアと同じ地方 の出身で、マガ 1 ガの近くのサンダフアという町に住んでいた。マガ 1 ガから一〇キロと離れて いない教会 ( 聖サムエル教会。コプト教会の修道院、聖地としても有名 ) で、偶然、アム・サミ アに会っている。 アム・サミアは、マガ 1 ガにある自宅にその古美術商を招き、壁にかけられたコプト教会の て 聖画像を見せた。コプト教会の聖人か、エジプトの聖家族のどちらかだったという。 め プトロスによれば、それは「一九八一年の第一〇の月」のことだった。この日付は、今回の調 大 査で出てきたそのほかの日付と同じく、話によって変わってくる。だがこれ以外の点で、プトロ スの話は真実味を帯びている。
この写本には、イエスを愛する使徒たちの中にあって、ユダという人間が実際にはどういう立 場にいたのかを解明する手がかりが示されている。その立場とはつまり、イエスから託された使 命のために汚名を着せられることになった弟子の立場である。 このパピルス写本に記された物語は、世界中にいる数多くのキリスト教徒にとっては神聖な古 代の物語に、衝撃的な新解釈をつきつけた。遠い昔、キリスト教の一宗派の筆記者によって、こ しまだかっ の福音書は書かれた。我々のよく知るあの物語が、ユダの立場から語られたことは、、 てなかった。 文書を書いたのが誰。 こせよ、その人物は広く知られている説に異を唱え、裏切り者ユダの善意 と、イエスの教えに対するユダ独自の解釈を信じていた。こうして何世紀もの時を経た現在、文 書は再び日の目を見た。ユダ、もしくはユダについて書き残した人物が、裏切り者の立場からイ エスの受難を物語る日がようやく訪れたのだ。 エジプトにおけるキリスト教を語るなら、やはり有名なアレクサンドリアの町から始めなけれ ばならないだろう。キリスト教コプト正教会は、新約聖書の中で最も成立年代の古い福音書を記 した聖マルコの教えを受け継ぐ教会だとされている。コプト派によると、聖マルコは皇帝ネ口が の 君臨した紀元五十年代にアレクサンドリアに現れ、その後六八年に、宗教活動を禁じられたユダ砂 ヤ人がローマ軍に対して起こした暴動の最中に殺害された。
う求めているが、「 ( 写本を ) エジプトのしかるべき公共施設に寄贈することに同意している」と 述べていた。 カッセルはイスに腰かけたまま講演を行った。病身にもかかわらず、この老教授は同じ学会の 仲間たちに、自分の学究生活の最後を飾る業績について語りたかったのだ。今も頭脳明晰なカッ セルは、ユーモアのセンスに富んだ、不屈の意志の持ち主で、なんとしてもこの仕事をやり抜こ うという気概に燃えていた。 出席者は、かっての協会の会長カッセルに敬意を払い、教授の別れのメッセ 1 ジとなるだろう 講演に静かに聞き入った。だが話の内容は、世間を驚かせるような発見に関するものだった。聴 衆のうち、何が講演で飛び出すかが予想できる者は一人もいなかった。カッセルはその短い講演 に「科学で明らかになった新しいコプト語の聖書外典」というタイトルをつけ、そのあとに『ュ ダの福音書』という言葉を添えた。 カッセルのスピーチは静かなものだったが、声は強い感情で震えていた。カッセルはフランス 語で「このような " 復活劇。はめったに起きるものではありません」と語った。 「有名な古代の文書がいったんは失われ、最後にその悲しむべき運命からまぬかれる、などと いうできことは毎日起きるものではありません」 「これは奇跡です。いや、これは決して誇張ではありません。今日こそがかの有名な『ユダの 福音書』が復活した日なのです。これが初期のキリスト教会を憤慨させた文書そのものなのです。 その写本が何度となく、無慈悲にも破壊された文書です ろ 10
コプト教徒は旧約聖書だけでなく、新約聖書のエジプトに関する記述も教義に取り入れた。と くに好んで引用されるのが、『マタイによる福音書』に出てくる聖家族のエジプト逃避の一節だ。 救世主の誕生を知ったヘロデ王は、イエスを亡き者にするためにべツレヘム一帯の幼児殺害を命 じた。ョセフとマリアは、幼いイエスを連れてエジプトに逃れる。「主の天使が夢でヨセフに現 れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこ にとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」 ( 『マタイによる福 音書』二章一三節 ) 聖書には、聖家族のとったルートは記されていない。だがコプト教会では、聖家族がどのよう なルートでエジプトへ旅をして、どこに滞在したかが詳細に語り継がれている。伝承によると、 聖家族は陸路でエジプトに向かった。シナイ半島の北部にあるエル・アリシュを通り、アレクサ ンドリアからナイル川流域を南下してアシュートにたどり着いた。聖家族のエジプト逃避を描い たコプトの書物のなかでも、ひときわ美しい書物にヨセフの姿が描かれている。「ヨセフは頑強 な年配の大工で、マリアの婚約者だった。彼はロバの手綱をひいて、闇に包まれた砂漠の道なき 道を、永遠とも思えるほど果てしなく続く荒野を、地平線をめざして歩を進めた」 コプト教会の文献によれば、アシュ 1 トにあるエル・ムハラック修道院は、聖家族が半年間滞 在した場所である。きわめて重要な聖地であり、エジプトのコプト教徒は、この修道院を「第一一 のべツレヘムーと呼んでいる。『マタイによる福音書』二章二〇節に出てくる、主の天使がヨセ フの夢に現れて「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を 7 ろ大金を求めて
ジョアンナは、アム・サミアから聞いた話を思い起こしながら、何世紀にも及ぶナイル渓谷の 歴史に思いを馳せていた。ナイル渓谷は、昔ながらの生活が世代から世代へと受け継がれてきた 七世紀にエジプトに侵攻したアラブ人は、できる限り多くの住民を彼らの新しい宗教、イスラ ム教に改宗させた。アラブ人はエジプトの地元民を " キプト】と呼んだ。キプトはギリシャ語の アイギュプトス ( 古代エジプトの都メンフィスの現地名、ヘト・カ・プタハを指す ) に由来する。 コプトという名称はこの " キプトが訛ってできた言葉であり、つまりはエジプトを意味する。 古代エジプト人は、自分たちの言語にギリシャ語のアルファベットを取り入れたが、ある種の 音を表す文字が不足していたため、そこに七つの文字を加え、最終的に三二文字のアルファベッ トとして完成させた。やがて、自分たちの新たな宗教やエジプトの古い文化の物語を伝える際、 彼らは自国語と自らが暮らす土地の方言とを、頻繁に用いるようになった。こうした地元の言語 とギリシャ文字とが組み合わさってできた言語が、やがて " コプト語と呼ばれるようになった。 コプト人は、自らを純粋なエジプト人だと公言しているが、この主張は大多数のエジプト人イ スラム教徒も認めるところとなっている。今でもエジプトのイスラム教徒は、自分たちのことを エジプト人と呼ぶ一方、 " アラブ人】とも呼んでいる。コプト人の宗教は、六四一年のアラブ人 による占領の後でさえ、その勢いが衰えることはなかった。現在、エジプト人のおよそ八人に一 人がコプト派キリスト教徒だ。
最初にこのバヒ。ルス写本を目にしたコプト語学者たちは、 そのタイトルを読んで驚きを隠せなかったーー『ユダの福音書」。 古代キリスト教会に糾弾されたこの福音書には、ユダについて 正統派とはまったく異なる解釈が書かれていた。
ンだけは写本を見たことがあり、内容の鑑定にも関わっていた。 フリーダはときには独自に、ときにはロバ ーティと協力して翻訳作業にふさわしい学者を探し た。そして地元のスイスに世界有数のコプト学の権威がいることを発見した。それがロドルフ・ カッセルだ。フランス語を話すスイス人で、ジュネープ大学のコプト学名誉教授、一九七〇年代 にナグ・ハマディ文書に携った数少ない学者の一人だった。当時、カッセル教授は、発掘の責任 者だった米国人のジェームズ・ロビンソンと対立していた。ロビンソンと長年の確執があるだけ に、カッセルにとって『ユダの福音書』の翻訳は大きな勝利になる。 カッセルは、ヌ】シャテル湖畔の小さな町イベルドン・レ・ ハンで育った。プロテスタント神 学を学んだ後、スイス自由教会の牧師として聖職者の道を歩み始めた。スイス自由教会は、宗教 改革後に設立されたプロテスタントの分派で、カルヴァン主義と古典的なスイス保守主義の混じ った教義を掲げていた。やがてカッセルは聖職から初期キリスト教の言語や文化の研究者へと進 路を変えた。彼の信仰は、磔刑にかけられ、そして復活したキリストの幻を見た体験に支えられ ていた。 最初に研究テーマとして選んだのは、イエスの時代に地中海の東岸一帯で広く話されていたア ラム語だった。当時、イエスは中東のユダヤ人社会の日常語であるアラム語で説教したり弟子た ちと話していたと考えられている。 当時、アラム語の研究をめざす先輩はすでに十人以上もいた。つまるところこれがカッセルに とっては幸運だった。カッセルはアラム語の代わりにコプト語を選ぶようすすめられ、彼自身も ろ 04