ヨーロッパ - みる会図書館


検索対象: ユダの福音書を追え
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1. ユダの福音書を追え

「三人のヨーロッパ人の学者が、ユネスコが旅費を援助しないなら、カイロには行かないと言 い出した。そこで私は、スミソニアン協会に資金援助を頼んだ。助成金は、エジプト・アメリカ ン・リサーチ・センターに支払われた。このプロジェクトにかかる費用は、そこが払うことにな っていたからだ」 これでひとつの問題が解決した。だが、問題はまだほかにもあった。古代の文書を一枚ずつは めこむための透明のアクリルの板、プレキシグラスである。「もともとのプレキシグラスには、 パピルス文書を一ペ 1 ジしかはめこむことができず、われわれが必要としていたのは二ペ 1 ジ分 の大きさのものだった」。ロビンソンはすぐさま飛行機でチュ ーリヒへ飛び、正しいサイズのプ レキシグラスを購入した。 ロビンソンは次に、「原則的な問題に取り組んだ。ロビンソンの見るところ、ヨーロッパの 学者の多くは、文書に接することができるのはごく少数の自分たちだけの特権で、文書を出版す る権利も自分たちが独占しているとかたくなに考えていた。ロビンソンは、文書は少数の学者だ けでなく、全世界の人々に属すると考えていた。自分の利益だけを追求するこうした姿勢に対し て、ロビンソンは、ナグ・ハマディ文書はオリジナルの形態のまま、ユネスコの委員会から出版栄 デ すべきだと考えた。彼は「学者の縄張り意識と独占」に挑戦することにした。文書を検証したり、 マ 翻訳する権利を、一部の学者に独占させるのではなく、すべての学者に与えようとしたのである。 グ ナ ヨーロッパの学者の世界では、通常、文書の翻訳者として任命されたり、翻訳の権利を得た学 者が、特別の理由でもない限り、その作業を完成させて翻訳する権利を持っている。ヨーロッパ

2. ユダの福音書を追え

イロとの連絡は最小限に抑えられた。 やがてハンナのコレクションにあったさまざまな収蔵品が、ヨーロッパの市場に出回り始めた。 いくつかの事実から売買の中心はアテネだと判明した。後に、盗品はますスイスを通過したか、 何らかの方法でそこへ最初に到着したのではないかという推測も出てきた。返却するには、ます 盗品を見つけて回収し、一カ所に集めて保管する必要があった。 回収に尽力するクトウラキスが連絡をとった人の中に、ジャック・オグデン博士がいた。オグ きん デンはロンドンの著名な宝石専門家で、まだ三十代半ばだったが、金や貴重な宝石類に関しては 世界で最も優れた専門家の一人と見なされていた。オグデンが書いた『宝石の考古学』が、カリ フォルニア大学出版と大英博物館出版局から近く出版されることになっていた。当時、オグデン はロンドン中心部にあるデューク街セント・ジェームズに自分の宝石店を持ってした。 ; 、 ' 誠実で法 律を遵守し、きわめて思慮深い人物との評判があったオグデンは、後に国際宝石連盟会長を務め ている。 「一九七九年頃、エジプトの金細工の古美術品が、いくつかヨーロッパの市場に出回りました。 まずアテネへ運ばれ、それからヨーロッパ各地へ送られたのです」とオグデンは語る。オグデン によると、このエジプトの金製品の流出は、一九二〇 5 三〇年代に貴重な金の古美術品がエジプ トからこぞって持ち出され、世界各地の市場に出回ったときの状況と似ていた。当時、アレクサ事 窃 ンドリアのギリシャ人は政府当局に迫害され、その多くが貴重で価値ある所有物の大半を国外へ 持ち出したのである。

3. ユダの福音書を追え

の店やアパ 1 トではなく、行きつけのコ 1 ヒーハウスで会っていた。ナイル・ヒルトンのコーヒ 1 ショップで待ちあわせすることもあっただろう。 当時、カイロを訪れるヨーロッパのディーラーは、たいていヒルトン・ホテルに泊まっていた。 街でいちばんのホテルで、ロビ 1 はパリの高級ホテル、フォーシ 1 ズンズ・ホテル・ジョルジ シティ・クラブのように立派だった。誰もが顔見 ュ・サンク、あるいはニューヨークのユニヾ 知りか知りあいで、古美術商たちは、商談の待ちあわせ場所にたいていここを使っていた。 ノナは、ほとんどの客に写本のことは話さなかった。 写本は安全な場所に保管してあった。ハ、 彼は、カイロではある程度成功した商人として知られていたが、この写本ほどの大きな取引とな ると、成功させるためには誰かのコネクションが必要だった。つまるところ、彼は英語もフラン ス語も、ドイツ語も、エジプト研究で一般的に用いられているヨーロッパの言語はまったく話せ なかった。唯一話せるのがアラビア語というだけでは、金持ちの外国人客に古代のパピルス写本 を売ることはできそ、つになかった。 この規模の商談では、世界トップクラスの美術館や大学、個人収集家たちの関心をひくために、 、ノナには、それだけの影響力も実績もなかった。福音書の 最高のコネクションが欠かせない。ノ、 専門家や学者、同業者、顧客、詮索好きな者たち、夢想家などの目を逃れて、最良の条件で取引 を成功させるために、手助けをしてくれる人物を見つけ出す必要があった。 有力な候補者の一人が、ロンドン、パリ、ニューヨークで強力なコネクションをもっていると 言われる人物だった。ハンナをはじめとして、多くのエジプト人古美術商が、彼とビジネスをし 75 大金を求めて

4. ユダの福音書を追え

ともカイロかアレクサンドリアに信頼できる業者とのコネクションを持っていた。 当然ながら、商品が動くたびに値段はつり上がる。エジプトの村人、そして村の宝石商たちは、 とい、つのも、彼ら 自らが最初に付けた値段が、その後つり上がっていく過程には関与できない。 は地元の方言以外の言葉を話せないため、商品をより大きな市場へと売却できる仲買人を、どう しても通す必要があったのだ。車を三時間走らせてマガーガからカイロまで出れば、値段はぐん とつり上がる。アム・サミアも、貴重な品々をかなりの価格で売ることができた。高く売れる商 時には一〇〇〇エジプトボンド、当時のお金で三〇〇ドルもの金額を手 品は多くはなかったが、 にすることができた。彼がコネクションを持っカイロやアレクサンドリアの商人は、価格をもう 一段上乗せする。ヨーロッパやアメリカの裕福な商人との繋がりがあれば、価格はさらに上昇し た。こうした商人が、次にその商品を博物館や裕福な個人収集家、大学などに売却すれば、当然 価格はまたつり上がる。 エジプトの商取引は、文明そのものと同じくらい古い歴史がある。芸術品や古い品々は、農作 物などと共に少なくとも三千年にわたり、地中海東岸で取引されてきた。十九世紀、西洋人探検 家がエジプトとその古代の富を再発見した。ロゼッタ・スト 1 ンなど、この国最大の財産のいく つかは、発掘されるかお金で買われて、ヨーロッパ、そしてさらに遠くへと船で運ばれ、サンク ト・ペテルプルグやベルリン、ロンドン、ロサンゼルスの博物館に展示された。 こうした商取引は、エジプトに大きな収益をもたらした。エジプトの古代遺物は、西洋世界の いたるところの博物館や美術館に飾られた。西洋でのこうした展示品はエジプト文明への関心を 47 砂漠の墓

5. ユダの福音書を追え

ィープン・エメルは数分の間、最初のペ 1 ジを熱心に眺めていた。興奮がみなぎる声で彼は、ジ ュネープへ来たのはこれで二度目だと言った。一度目の訪問は一九八三年のことで、コプト語で 書かれた出所不明の古代文書を調べるためだった。「これは、あの時に見たのと同じ写本だ ! 」 と彼は叫んだ。 前回訪れた時、エメルはジュネ 1 プのホテルで、二人の男に会った。一人はヨーロッパ人、も 、つ一人はアラビア語しか話さないアラブ人だった。ヨーロッパ人はアラビア語も話した。今はも うホテルの名前も、二人の男の名前も覚えていない。あるいは、彼らは素性をきちんと明かさな かったのかもしれない エメルはその時あまり時間がなく、二時間ほどでその文書を調べること になった。。 ヒンセットを使ってフォリオ ( 折り ) をひとつひとつ、ページごとに調べていった。 多くのペ 1 ジが、互いに貼りついてしまっていた。エメルは文書のひとつがヤコプの書簡で、も うひとつがペテロの書簡であることを確認した。しかし彼は、写本の最後にあった三つ目の文書 については、それが何であるかを特定することができなかった。 修復された写本の検分を進めていたエメルが、ひとつずつ解説していこうと言った。最初のペ ル 1 ジには、多くのグノーシス派の文書との類似が見られた。「これらの写本は、復活したイエス ズ と、一人かそれ以上の弟子たちとの間で交わされた会話に基づいています。この写本は、大体そ ス の形がとられていますー。しかし主題の方は、多少変化に富んでいるようだった。写本の内容を より詳細に知るには、時間をかけて多くの部分にあたる必要があった。 ダルプルは、さらにパピルスのページを撮影した写真を取り出した。この写本が『ユダの福音

6. ユダの福音書を追え

年代測定でこの写本の書かれた時代が判明すれば、二十世紀最大の歴史的発見に数えられ るだろう。ナグ・ハマディ文書、死海写本以来、過去六十年間で最大の発見であることはま ちかいない 1 ト・・アーマン ( 米国の古代キリスト教学者 ) カララ山地の墓地で発見されてすぐに、写本は地元の仲買人アム・サミアの手に渡った。そし てミニャー県から北に運ばれて、カイロで古美術商のハンナ・アサビルに売られた。彼の手に渡 ったあと、『ユダの福音書』はひどい損傷を受けることになる。 写本はおそらく、新聞紙にくるまれてカイロに運ばれた。のちに、調査のためにヨーロッパと 米国に持ちこまれたときも同じ方法がとられた。これは、エジプト人が貴重な品物を運ぶときの いつものやり方である。だがパピルスというのは、害虫や湿気で傷んだり汚れたりしやすい。ま 第二章大金を求めて コデックス 57 大金を求めて

7. ユダの福音書を追え

あ A 」が」 チューリヒの古美術商、フリーダ・ヌスパーガ 1 Ⅱチャコスが、『ユダの福音書』を含むパピ ルス写本を手に入れたのは二〇〇〇年のことだった。この写本は二十年近くもの間、買い手を求 めてエジプトから持ちだされ、ヨーロッパから米国へと転々としていた。コプト語テキストの専 門家であるスイス人のロドルフ・カッセルは、あれほど状態の悪い古文書は見たことがないと語 る。 「軽く触れただけで崩れるくらい、もろくなっていた」 危機感を抱いたフリーダは、写本の修復と翻訳をマエケナス古美術財団に依頼し、財団は最終 的に、写本をカイロにあるコプト博物館に寄贈することにした。そして考古学と最新の科学技術 あ を駆使してこの貴重な写本を修復・鑑定するプロジェクトが、ナショナルジオグラフィック協者 発 会の支援によって実現した。ナショナルジオグラフィック協会は、米国のパソコンメ 1 カー ゲートウェイ社の創設者テッド・ウェイトが設立したウェイト歴史的発見研究所にも支援を要請

8. ユダの福音書を追え

通商や貿易というものはーーよくはずむゴムでできているなら話は別だがーー政府や議員 が次々と設ける障壁を飛び越すことはできない。 ヘンリー・ デービッド・ソロー ( 米国の詩人、ナチュラリスト ) スイスには、超大物の古美術商が大勢いる。頂を雪に覆われた山々から、澄み切った水がアル プスを流れ下るこの山国は、古美術愛好家のパラダイスと言ってもいい 。長年にわたり永世中立 ち を守ってきたおかげで、スイスはたびたびヨーロッパを揺るがした戦争に巻き込まれることなく、 商 術 その国境に「見えない金融の壁ーを築くことに成功した。 美 この壁の内部には世界中から逃避してきた資金が流れ込み、壁の中はその資金が生み出す豊か の 物 大 な暮らしを守る聖域になっている。スイス人は充実した社会保障制度と、西欧諸国のなかでもと りわけ高い賃金、世界レベルの医療制度を手に入れ、通常の仕事と引き換えに五 5 六週間の長期 第四章大物の古美術商たち

9. ユダの福音書を追え

ロビンソンが次に取り組んだのは、ナグ・ハマディ文書が実際にどこで、どのように発見され たのかを調べることだった。そうすることで、著名なフランスの学者ジャン・ドレスの出した調 査結果に疑念を呈したのである。 の学者たちは、ロビンソンの行動力を知らなかったか、彼の決意を見くびっていたのだろう。 事態が決定的な局面を迎えたのは一九七二年の初めだった。ロビンソンはオリジナルの文書や パピルスの断片 ( コプト語で書かれた文書 ) の写真を入手し、ファクシミリ ( 写真撮影 ) 版とし て出版し、同時に、ナグ・ハマディ文書の初めての英訳版も刊行したのである。 一九七二年の終わり、ロビンソンとその同僚たちは、出版社とサンフランシスコで出版記念会 を催した。 「ヨーロッパの学者たちはさぞかしショックだったに違いない。私は見かけほどおとなしい男 ではなかったのだから」。ロビンソンはそう言うと、意味深長に付け加えた。「文書を世界に先駆 けて出版できれば、名声を確立できる。誰よりも先んじて出版できないなら、そもそも出版しょ うなどと思わないことだ」 こうしてコプト学者や、その謎めいた分野の研究はにわかに世間の注目を集めることになった。 コプト学は、突如としてキリスト教の過去への扉を開く鍵となった。コプト研究の能力や知識は、 それまでとはうってかわって重要なものとみなされるようになったのである。 186

10. ユダの福音書を追え

は動揺して、わずかに怒りの表情を見せ、侮辱を受けたようにも見えたという。ロビンソンはカ ッセルに挑むように、二十年も前にエメルが同じ写本を目にしていることや、この写本の写真ま であることを知っているか、と質問した。 ロビンソンは彼一流のいやがらせをしていたのだ。ロビンソンの友人は後にこのときの様子を 「見ていられなかった」と語っている。「ロビンソンは大人気なかった。学者のとるべき態度では なかったね」 カッセルはこの質問にとまどった。この高名なスイス人学者は、新たに見つかったこの古い写 本を入手しようと、学者同士が争っていることを知らなかったのだ。 しかし『ユダの福音書』をヨーロッパの研究者たちに奪われたことに対するロビンソンのうら みはこれだけでは納まらなかった。 二〇〇五年十一月二十日、米国フィラデルフィアで開かれた聖書文献学会の年次総会のシンポ ジウムで、ロビンソンは再び怒りをぶちまけたのだ。シンポジウムのテーマは、「ナグ・ハマデ はいかに初期キリスト教の世界を変えたか」というものだった。パネリストとして名を連ねて ・アトリッジ学部長、ジョン・ターナー、マー いたのはロビンソン、エール大学神学校のハ ビン・マイヤーの四人だった。ロビンソンとマイヤーは新しく改訂されたナグ・ハマディ文書を 共同で刊行したところだった。 ロピンソンま、 ( いかなる文書であろうと、特定の学者が " 個人的に ~ あるいは独占的に所有し てはならない、という持論を改めて展開した。