あなたがたに道を誤らせる人々なのです」とイエスは言う。マイヤ 1 はこれが、イエスの言葉を 流布させ勢力を広げていたキリスト教正統派を、『ユダの福音書』の作者がそれとなく批判して いる個所ではないかと指摘する。 イエスは、「恥知らずにも、私の名において実らぬ木々を植える」人々がいると警告し、「あら ゆるものの主であり、命じることのできる主が最後の日にその人々を裁くであろう」ことを弟子 たちに思い出させる。ここで言及されているのは、最後の日々、すなわち最終的な裁きの日だ。 イエスは最後に次のように言う。「私と争うのはやめなさい。あなたがたそれぞれが自分の星 を持っているのです」 ート・アーマンはこの対話について次のように述べている。 これに続く部分は欠落が多い 「イエスは、これらの真理をユダに、ユダ一人に明かしています。この世に生きる人々の内には 神性なる輝きが閉じこめられており、それを解き放っ必要があるというのも明かされた真理の一 つで、イエス自身が、解き放たれるべき神性なる輝きを象徴しているのですー 次の場面では、ユダがイエスにこう尋ねる。「先生、あの世代はいったいどのような実りをも たらすのですか ? ー 御国の時を成就した人々 イエスは答える。「人間の魂はやがて死んでしまうものです。だが、 , の霊魂は彼らから離れます。肉体は死んでも魂は生き続け、天に上げられるでしよう」 ろ 66
つかの贈り物をしたという。 けいけん ハンナは敬虔なコプト教徒で、熱心に教会に通っていた。仲介業者のあいだでは、羽振りのよ 「宝石商ーとしてもよく知られていた。当時のエジプトの仲介業者たちは、土地の人々から、 ノナをはじめとする多くの古美術商 価値のありそうなものを手あたりしだい買いあげていた。ハ、 は、村人たちにとってみれば、外界との唯一のつながりだった。なかでもハンナと取引をするこ とで、アム・サミアはマガーガで裕福な人間の仲間入りができたのである。 カイロで多くの古美術品が売られている理由は単純だ。世界最大の市場のひとつであり、あら ゆる品物が扱われているからだ。 カイロの人口密度は東京並みで、都市部にはおよそ千六百万人が住んでいる。平日は、労働者 や経営者が郊外から電車や自動車、自転車、さらには徒歩で通勤してきて、その数は一一千万人に ふくれあがる。 カイロは喧騒に包まれた都市としても有名だーー車のクラクションや行きかう音、商人たちの 客引きの声がたえることはない。あちこちに市場があって、いちばん大きな市場がハン・エル・ その起源は六〇〇年以上も前にさかのばり、中世から変わらぬ活気に満ちている。スパイスや 香水、金・銀製品、絨毯、真鍮製品、革製品、アンティークから現代のガラス製品、陶器、博物
「その他の世代の人々は何をもたらすのですか ? 」と尋ねるユダに、イエスはこう答える。「実 りを得たければ、岩の上に種をまくことはできません」。直後の部分は不完全で読み取りにくい が、グノーシス主義の文書によく登場する知恵の象徴、ソフィアを取り上げている。 一言、つべきことを言ってしま、つとイエスは立ち去る。 時が過ぎ、ユダは再びイエスにまみえる。ユダは重大な発見をしていた。「先生、 ( 他の弟子た ち ) 皆の話に耳を傾けるなら、私の話も聞いてください。とても奇妙な幻を見たのですー イエスは再び笑う。ユダは、イエスにとって、もはや十二人の弟子の一人ではなく、「十三番 目の精霊」という特別な存在だった。普通の弟子の水準を超越した崇高で霊的な存在になってい たのである。イエスは言う。「十三番目の精霊であるお前が、どうしてそんなに躍起になるので すか ? それはそれとして、さあ話してご覧なさい。私はお前の話を信じるでしよう」 ユダは自分が見た幻について詳しく説明した。「あの十二人の弟子たちが私に石を投げて ( 私 のことをひどく ) 虐げるのです。 ( 大きな家 ) を見ました 。たくさんの人々がそこへ向かっ て走っていきます : 家の中央には、 ( 大勢の人が ) います。先生、私を連れて行ってあの 人々の中に加えてくださいーとユダは懇願する。 書 音 イエスの返事は辛辣だ。「ユダよ。お前の星はお前を道に迷わせてしまった。死をまぬかれな 福 い生まれのものは、お前が見たあの家の中へ入るに値しない。あそこは聖なる人々のために用意ダ された場所なのだから」 するとユダは自分自身の運命について尋ねる。「先生。やはり私の種 ( すなわち、人の霊的な
間の霊魂のうちに宿る神秘についての洞察も見られる。 ナグ・ハマディの写本は、初期キリスト教の時代に何百、ひょっとすると何千と存在した文書 の一部だというのが研究者たちの一致した見解だ。ただし、弾圧による破棄を逃れたのはごく少 数でしかなかった。初期の時代には、独自の福音書を信奉する宗派が多数存在し、正統派のキリ スト教会はこうした貴重な文書の破棄を命じた。ナグ・ハマディ文書は、新約聖書におさめられ ることのなかった、隠された福音書をよみがえらせたのである。 ナグ・ハマディで見つかったグノーシス派のパピルス写本の多くは、四世紀以降、人々の目に 触れることはなく、その大半は現代ではまったく知られていなかった。この発見まで、グノーシ ス派に関する史料といえば、彼らを糾弾する人々、すなわち初期キリスト教時代に存在した多数 いしずえ ート・アーマ の宗派のなかで最終的な勝者となり、キリスト教会の礎をつくった人々 ( 研究者バ プロト・オルトドックス いたんはんばく ンのいう「原始正統派」 ) の記述がほとんどだった。よく知られているのが『異端反駁』を著し たリョンの司教ェイレナイオスで、彼はグノーシス主義者を異端とし、彼らの信仰体系を冒涜に 満ちたものとして糾弾した。 ナグ・ハマディ文書には、それまで存在すら知られていなかった聖典が含まれていた。初期キ リスト教時代に、数多く存在した宗派の微妙な教義の相違を物語る記録として、ナグ・ハマディ 文書は、グノーシス主義の思想や願望、理想を示している。それは過去ーーいまもなお闇のなか にある過去への扉なのだ。 エジプトのミニャー県で発見された、『ユダの福音書』が綴じられていた写本には、ナグ・ 180
ト教会により糾弾され、歴史から消されてしまっていたのだ。 だが、一冊の写本が奇跡的に生き残った。研究者のチームが四年余りの歳月をかけて修復と翻 訳を根気よく行った結果、ようやくそのメッセージが人々に伝えられるようになった。 古代に激しく糾弾された『ユダの福音書』だが、今ではそれほど危険には思えない。イエスを 崇拝する執筆者の思いが、熱意とユーモアを交えた文章で伝わってくる。現代の新約聖書の四福 音書と比べるとイエスの苦悩の度合いは小さく、楽しげに見えるだけでなく、イエスは笑ったり するのだ。笑う場面は全部で四カ所ある。作者は不明だが、楽しんで語っており、ユダとイエス に対する敬愛の情に満ちている。米国のコプト学者マービン・マイヤーは「『ユダの福音書』の 中のイエスは大いに笑い、地上に生きる人々のありとあらゆる欠点や、さまざまな個性の中にた つぶりとユーモアを見出している」と言う。 この福音書に描かれたユダは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる、新約聖書の四福音書に 記された不誠実で侮蔑される裏切り者ではない。同様に、イエスも四福音書における救世主とは たつけい 違っている。「先生ーあるいは「ラビーと呼ばれるのは同じだが、磔刑の受難に遭う殉教者では ない。むしろ、神から授かった知恵を広める、親しげで慈悲深い教師だ。 『ユダの福音書』は、イエスの神性を信じる作者が、まず自分の民族を、そして人類全体を救 済するためにやって来た一人の教師が官憲に引き渡され、死を経て永遠の命にたどり着いたとい う伝承に基づき語ったものであり、その意味において「キリスト教」の書である。 『ユダの福音書』のような文書は、公にはできない知識を収集したものであり、一般の人々向 354
で " 川の流域。を意味するネリオスという言葉に由来しており、川岸に暮らす人々は、ナイル川 はあらゆる富の源だと信じている。彼らの信仰には、もっともな理由がある。長さ数千キロに及 0 ヒに ) ー「立ロ ぶこの川がなければ、エジプトの国土はサハラ砂漠に飲み込まれてしまったことだろう 広がるナイル・デルタ地帯はとても肥沃で、ローマ帝国の穀倉地帯の役割を果たしていた。 かっては毎年氾濫していたナイルの川岸に立っジョアンナには、エジプトの暮らしの様子が一 望の下に見渡せた。農村や、今も昔ながらの方法で耕される土地が見えた。互いに連結しながら 流れるいくつもの運河は、川の水を数キロ内陸まで運ぶ灌漑用の水路だ。四月下旬の収穫期には、 馬に引かれた荷車が行き交う。荷車に積まれているのは、小麦と、家畜の餌に使われる、 1 ムと呼ばれるクロ 1 1 の一種だ。 何キロも延々と続く小麦畑は、エジプトの太陽に照らされながら優しくそよぎ、ところどころ にカカシが立っており、その多くはガラビヤと呼ばれるエジプト式のゆったりとした衣服を着せ られて、腹を空かせた鳥たちを驚かそうと待ちかまえている。 海岸から南へ走り、ナイル・デルタの眺めがいっか都会の雑踏に変わると、そこはもうカイロ の町だ。エジプトの首都であり、アフリカ最大の都市でもあるカイロは、ここ数年で人口が千六 百万人に膨れあがった。カイロの町はナイルの両岸に、四五三平方キロ以上にわたって広がって いる。いくつもの郊外住宅地が、カイロから外へ向かってのびている。 繁華街の南に位置するオールド・カイロ地区は、コプト派キリスト教徒コミュニティの中心地 で、丸屋根の上に特徴的な十字架が立っコプト派の教会が数多く見られる。オールド・カイロ地
時代のものだと思った。後世に偽造されたもの ? そんなことはありえない チームの者はそれぞれ、多くの疑問を抱えていた。私が一番知りたかったのは、写本の内容だ った。最後のページをめくると、タイトルが載っていた ( 古代の文書では、文書の最後にタイト コプト語で『ユダの福音書』。さらに結びの部 ルが一小されている ) 。 "PeuaggeIion Nioudas" 分に「彼はその人を人々に引き渡した」とコプト語で書かれているのが読みとれる。しかし、他 の部分には何が書かれているのだろう ? これはあの裏切りをユダの立場から書いたもので、ユ ダがなぜあのような行動をとったのか、その理由が説明されているのだろうか ? それとも神の 王国や世界の成り立ちについての神秘的な考察が述べられているだけで、ユダはせいぜいわき役 を果たしているだけなのか ? この写本の重要性は、これらの疑問に対する答えにかかっている。 それに、まず明らかにすべき問題もたくさんあった。そもそもこの写本は、誰が、いつ、どこ で見つけたのか ? 発見されて以降の長い間、どこにあったのか ? どうして誰もこの写本につ いて耳にすることがなかったのか ? これまで誰がこれを目にしたのか ? 現在、この写本を所 有しているのはマエケナス財団だというが、どういう経緯で手に入れたのだろう ? 学者をはじ め、世界中の一般の人々に写本の存在を公開することに、彼らは同意してくれるのか ? 誰が翻 訳をするのだろうか ? 本書には、こうした疑問に関する答えが記されている。読者を夢中にさせるこのドキュメント
前で堂々としていることのできた唯一の人物である。 『ユダの福音書』の主張に納得できず、神への冒涜とみなす読者もいるだろうが、この福音書 の作者がユダに歴史上の新しい位置づけを与えていることは否定できない イエスの生きた時代に続く百年の間に書かれたことを考慮すると、この福音書は初期段階のキ リスト教信仰やその多彩な活動についてこれまでにない見方を提供する衝撃的な書だ。新約聖書 の四福音書とは異なる伝承に基づいた福音書であり、執筆者はイエスの神性をグノ 1 シス主義の 観点から信じている。新約聖書の四福音書とは異なる出来事が語られるが、キリスト教の基盤を 揺るがすものではない。むしろ、イエスの人格に新たな一面を付け加えることでキリスト教をさ らに強化するといえるかもしれない。 作者が暮らしていた場所は、どことでも考えられる。近東地域のどこか、エルサレム、カイサ リア、アレクサンドリアといった都市で執筆されたのかもしれない。伝承された物語の一部を作 者が伝え聞いたのだろう。この伝承を信じていた人々は、卓越した規範を示し、人それぞれの内 に宿る神へと人々を導いたイエスこそが本物の救世主であると確信していた。この福音書の作者 が、イエスに身を捧げる最も忠実な者として、ユダの側から見た物語を書こうとしたのは明らか だ。ユダに関する " 良い報せ ( 福音 )s を意味する『ユダの福音書』という題名にその姿勢が誇 らしげに一小されている。 め 6
図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。イエス は、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエス に手をかけて捕らえた」 イエスは今や十字架へかけられようとしていた。それが運命によって定められた道だ。ユダが いなければ、受難の運命に出会うことはなかっただろう。 ユダの役割はここで終わったかのように思えるが、『マタイによる福音書』には彼の悲惨な運 さいな 命が記されている。翌朝には、ユダは自責の念に苛まれ、前日に犯した背信行為を後悔していた。 「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司 長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と 言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダ は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」 ( 第二七章三 5 五節 ) 祭司長たちは協議の末、その金を引きとらないことにした。「祭司長たちは銀貨を拾い上げて、 『これは血の代金だから、神殿の収入にするわナこよ、、 し。ーし力ない』」と言った。その金を自分たちの ために使わず、町の中心から離れたところにある土地を買い、名も無き人々の墓地に定めた アケルダマ、血の畑だ。「相談のうえ、その金で『陶器職人の畑』を買い、外国人の墓地にする ことにした。このため、この畑は今日まで『血の畑』と言われている」 ( 第二七章六 5 八節 ) これでユダの役割は終わった。彼は自殺した。その理由は我が身を恥じて、ということになっ ている。 87 イエスを裏切る
な人々は、仲買人となって遺物をエジプトの首都カイロの業者に売却する。 宝物を見つけた農民たちはアム・サミアを洞窟へ案内し、貴重な遺物を見せた。宝物を調べる 作業は、内密に行わなければならない。警察が怖いのはもちろんだが、地元のほかの農民が宝物 を盗み出してしまうこともある。 二つの石の箱は墓の入り口近くに置かれていた。調べている途中で、石の箱が割れ、一部分が 粉々に砕けた。中から出てきたのは、人骨だった。人骨と一緒に、麦わらやパピルスに包まれた、 たくさんのローマ時代のガラスのフラスコが収められていた。 そして最後に、彼らはその写本を見つけた。写本が発見されたのは、大きな幸運のおかげだっ た。アム・サミアは農民たちと同じ労働者で、その写本が人類にとってどれほど貴重なものであ るかという点には、大して興味がなかった。そこに何が書かれているか、何語で書かれているか などに、特に注意を払うこともなかった。彼の一番の関心事は、家族の生活を支えるために、こ の宝物をいくらで売ることができるかということだった。悲しいことだが、これがエジプトで発 見される古代遺物を取り巻く現実だ。農民たちが遺物の学問的な価値に興味をもっとすれば、そ れは学者が遺物を高く評価し、高値で売れる場合に限られる。博物館に展示されるような古代遺 物には、最も高い値が付けられるのだ。 後にこの写本を調べた古美術商たちはこの文書が古代から伝わる伝統的なユダヤ人の言語、ヘ の プライ語で書かれていると考えた。だが、この文書の場合はそうではなく、大半がコプト語で書砂 かれていた。コプト語は、かってナイル川流域に暮らしていた人々が使っていた古代言語で、彼