ィープン・エメルは数分の間、最初のペ 1 ジを熱心に眺めていた。興奮がみなぎる声で彼は、ジ ュネープへ来たのはこれで二度目だと言った。一度目の訪問は一九八三年のことで、コプト語で 書かれた出所不明の古代文書を調べるためだった。「これは、あの時に見たのと同じ写本だ ! 」 と彼は叫んだ。 前回訪れた時、エメルはジュネ 1 プのホテルで、二人の男に会った。一人はヨーロッパ人、も 、つ一人はアラビア語しか話さないアラブ人だった。ヨーロッパ人はアラビア語も話した。今はも うホテルの名前も、二人の男の名前も覚えていない。あるいは、彼らは素性をきちんと明かさな かったのかもしれない エメルはその時あまり時間がなく、二時間ほどでその文書を調べること になった。。 ヒンセットを使ってフォリオ ( 折り ) をひとつひとつ、ページごとに調べていった。 多くのペ 1 ジが、互いに貼りついてしまっていた。エメルは文書のひとつがヤコプの書簡で、も うひとつがペテロの書簡であることを確認した。しかし彼は、写本の最後にあった三つ目の文書 については、それが何であるかを特定することができなかった。 修復された写本の検分を進めていたエメルが、ひとつずつ解説していこうと言った。最初のペ ル 1 ジには、多くのグノーシス派の文書との類似が見られた。「これらの写本は、復活したイエス ズ と、一人かそれ以上の弟子たちとの間で交わされた会話に基づいています。この写本は、大体そ ス の形がとられていますー。しかし主題の方は、多少変化に富んでいるようだった。写本の内容を より詳細に知るには、時間をかけて多くの部分にあたる必要があった。 ダルプルは、さらにパピルスのページを撮影した写真を取り出した。この写本が『ユダの福音
に並べ、上からもう一度細長い繊維を、直角になるように並べる。次に上から圧力をかけ、乾燥さ せ、表面をこすってなめらかにする。こうした作業を経て、エジプト人たちは文書を記す " 紙】を 手に入れた。 問題の文書は古い写本で、数十枚のフォリオ、つまり二つ折にしたパピルス ( この場合はパピ ルスだが、 羊皮紙や紙が使われる可能性もあった ) でできていた。フォリオは、まとめて折って 背を綴じあわせ、 ( 巻物ではなく ) 我々が現在手にするのと同じ本の形態にまとめられていた。 この写本は、三十二折、つまり六十四ページあった。遠目に見ると、多くのページはまるで風雨 にさらされた古代世界の地図か、大事な部分が抜けているジグソーパズルのようだった。ところ どころに欠落している部分や、古いパピルスがくつついてしまっているべージがあり、数ベージ なくなっている可能性もあった。このほか、細かいパピルスの断片が山のようにあったのは言う までもない ダルプルの工房にあるパピルス写本には、古代の文字が書きつけられていた。コプト語だ。文 字は乱雑で、規則性もほとんど見いだせない。穴があいて読めないページもある。しかし、多く のページは、その内容を読み取ることができた。 写本は十数世紀もの時を経て、スイスのこの町の一室に持ち込まれていた。到 着時にはばろば ろの状態で、かなりひどい損傷があった。革の装丁はくたびれてはいたが、長い歳月を経てなお 一部は原形を保ち、多くのページを綴じてかろうじて本としての形態を保っていた。 写本に書かれていたのはある物語、聖書に語られている話だった。驚くべきメッセージを含ん スクロール コデックス 6
における、最大の業績となるだろう。 一同の集まった部屋には、カッセルと顔見知りの人物がいた。スティープン・エメルだ。彼ら が最後に顔を合わせたのは五カ月前、七月にパリで開かれた国際コプト研究協会の会合だった。 カッセルはその席で、この写本の存在と内容について発表した。優れたコプト学者であるエメル にとって、カッセル教授は良き師であった。その縁でエメルは、ヨーロッパと米国の学会の橋渡 し役となっていた。彼は米カリフォルニア州のジェームス・ロビンソンの下でも研究を続けてき たからだ。 カッセルは専門家たちが文書を、手塩にかけてきたわが子のように調べる様子を、じっと見て いた。その宝物は数年前、突然天から降ってきて、彼にまたとない機会を与えてくれたのだ。 ダルプルが写本の数ベ 1 ジを取り出した。アーマン、エメル、ジャルなど出席者たちは、緊張 した面持ちで写本を見つめた。写本はすでに、ほとんど保存処理がほどこされた状態だった。ダ ルプルが細心の注意を払って仕上げた作業の成果だ。特筆すべきは、その多くが読める状態だっ たことだ。写本はガラスのケースに収められ、一ペ 1 ジずつ見られるようになっていた。 しかし、かなり大きな断片の欠落がいくつもあり、ごく小さな欠落は文字通り何百カ所もあった。 何枚かのページは、相当に広い範囲が失われていた。写本はいわば組み立て中のジグソーパズルの 手元にある材料から考えれば、作業は最終段階に入っていると一一一口えた。 ような状態だったが、 ダルプルは、写本を入れたケースの片側についている留め金を外した。ガラスを完全に取り去 りはしなかったが、これで専門家たちは修復された写本をよりよく見られるようになった。ステ ろ 40
のサンダルでした」 アム・サミアの家は、マガ 1 ガの多くの住民同様、ニンニクを栽培する農家だった。ニンニク はマガーガの特産品だ。ナイル川の水と焼け付くようなエジプトの太陽に育てられたニンニクは、 小粒だが強い香りを放つ。 またアム・サミアは、中部エジプトの住民の多くと同じく、エジプトのキリスト教コプト正教 会の信者だった。「彼はコプト派の信者でした」とジョアンナ。「家の居間にかかっている聖人の 絵を見れば一目療然です。居間は、なかなかきれいで、幅の狭い長いすがそこらじゅうに置いて あり、訪ねてくる人は、ほとんどが男性ですが、足をその長いすの上にのせて座るのです。ア ム・サミアはシャイ ( お茶 ) を出してくれたのですが、熱々のお茶が入った小さなカップには、 金色の小さな値札がついたままになっていました。とても濃くておいしいお茶で、たつぶりの砂 糖とナナ ( ミント ) が入っていました。そして夜には、アラク・バラー ( ナツメヤシから作った お酒 ) が出されました」 ローマ帝国中のすべてのキリスト教徒と同様、エジプトのキリスト教徒も、イエスが生きてい た時代から三世紀までは時に迫害を受けたが、紀元三一三年になって、コンスタンテイヌス帝が キリスト教を公認した。その間にも、この新しい信仰はアレクサンドリアをはじめとするナイル 川流域のすべての町に、圧倒的な勢いで普及していった。 45 砂漠の墓
高め、エジプトを訪れる人も増加した。結果として、観光業は急激にこの国の主要産業になり、 外貨を稼ぐ大きな財源へと成長した。だがエジプトの指導者の多くは、こうした取引は一方的で あり、自分たちは損をしていると考えていた。 第二次世界大戦後、完全な独立を果たしたエジプト政府は、すぐさま古代遺物取引を管理下に おくための規制に乗り出した。この努力は一九八三年に、法律の制定という形で実を結ぶ。一九 五一年制定の法律を元に作られたこの新法で、エジプト政府は古代遺物の売却と輸出に対し、厳 しい規制を課すことを定めた。古代遺物の取引業者は、六カ月の間に、 所有している遺品のうち 特定のものを登録することが義務づけられ、それらの売却や輸出も禁止された。ナショナリズム が高まり、自国の貴重な文化財を守ろうとする機運もあって、エジプト政府は古代遺物の取引を 規制する政策を打ち出し、輸出も厳しく制限した。政府の指導者たちは、遺物の売却と収益とを 統制、管理し、エジプト人も含めて誰であれ、独自に取引をして利益を得る行為を禁止しようと している。 こうした政策は遺物の売買の抑止にほとんど効果を上げなかったものの、古代遺物の取引は違 法とみなされ、この商売を続けるのは以前よりずっと難しくなった。遺物の売買が後を絶たない 背景には、国民の多くが生活に苦しんでいるこの国の地中に、高額で売却できる財宝がまだたく さん眠っているという事実があった。 また、規模は縮小しているとはいえ、こうした商品を扱う旨みのある市場は、古代の遺物や文 化財を購入し、展示する人間がいる場所であれば、どこにでも存在した。古代遺物の売買は、依
の各地を旅していった。パウロの不断の努力が実って、キリスト教は、ユダヤ教という母体から 離れ、独自の宗教としての地位を確立していく。キリスト教はユダヤ人にかぎらず、イエスを救 世主として受けいれる人すべてに開かれた宗教だった。もっともイエス自身は山上の垂訓で、自 分は律法を廃止するのではなく、実現するためにやってきたと語っているが。 そして、キリスト教が多くの人々に開かれた宗教になる素地を整えたのが、パウロということ になる。イエスの使徒たちは、新しい集団を形成しつつあったーーそれが、新約聖書に出てくる 「神のイスラエル。である。それは救世主としてのイエスを信じ、信じる者に永遠の生命を与え るこの救世主の能力を認める集団だった。 紀元六〇年 ( ローマ帝国でユダヤ人の大規模な反乱が起こる六年前 ) に、パウロは捕らえられ、 カイサリアに連れてこられる。ローマ市民であるパウロは、ローマで裁判を受けることを要求す る。それをとりかえしのつかない失敗と見るか、神の導きととるかは、人によるだろう。ローマ での裁判の結果、パウロは有罪となって処刑される。 このころはまだ、福音書なるものは存在していなかったというのが、今日の研究者の見方であ る。パウロ自身がしたためた書簡は、この時代のキリスト教を伝える最も古い資料だ。福音書や弾 端 聖書外典などは、形になりはじめたばかりだったと思われる。 異 の ア それから何年もしないうちに、ユダヤの地で大反乱が発生し、聖地をめぐる戦いの結果、エル ガ サレムは破壊される。この反乱が始まったのは紀元六六年のことだった。ユダヤ人はローマの支 配に恨みを募らせていた。とくに耐えがたかったのが、自分たちの信仰をないがしろにされ、エ
ナグ・ハマディ文書の発見から三十年後に、エジプトのミニャー県で新たに見つかり、ジュネ ープのホテルの一室でごく簡単に調査された写本には、まったく新しい啓示を伝える福音書が含 まれていた。コプト語で書かれたそのグノーシス派の文書を初めて読んだ者は、わき起こる不安 をおさえることができなかっただろう。のちに、文書の復元と翻訳作業に携わったロドルフ・カ ッセルは、最初に目にしたときの気持ちをこう語っている。 「にわかには信じられなかった。徹底的に破棄されたはずの文書が見つかるなど、 いったい誰 が予測できただろう。私は恐ろしくなった」 「研究者というものは、多くのことを知っているようでいて、実は、何も知らないものだ。何 か発見されると、われわれは新たな学説や解釈をうちたてる。するとまた、それまでの解釈を覆 すような文書が見つかる。文書にあわせて、こちらの考え方を変えていくしかない。研究の主役、 主導権を握っているのは文書のほうなのだ」 写本を初めて目にしたとき、カッセルはとまどいを覚えながらも、その画期的な意義を理解し た。この文書は、ナグ・ハマディ文書をはるかに上回るキリスト教の多様性を示していた。 の喜びを述べた発見の書である。人は誰しも自分自身のなかに神を見出すことができ、あやまち や恐怖という霧は消え去り、暗黒に支配された悪夢の日々は、光に満ちあふれる永遠の日々にか わることを伝えている」 200
一九四五年にナグ・ハマディで写本が発見されると、初期キリスト教研究に新たな波が起こっ ート・ア 1 マンの『失われたキリスト教宗派』やマービン・マイヤ 1 の『グノーシス派の 発見』、エレーヌ・ペイゲルスの『禁じられた福音書』 ( 二〇〇三年 ) など、優れた研究書が次々 に出版された。興味深いことに、ベストセラーとなったダン・プラウンのミステリー小説『ダ・ ヴィンチ・コード』 ( 二〇〇三年 ) の筋立てにも、その余波が見られるのである。 それまで知られていなかったグノーシス主義の原典も含め、ナグ・ハマディ文書の発見は、学 者たちに新たな文献を豊富に与えた。そのなかには、『トマス福音書』『真理の福音』『ヨハネの アボクリュフォン』『ピリポ福音書』『ヤコプ黙示録 ( * ) 』、さらには『ピリボに送ったペテロの 手紙』などが含まれていた。それらの文書を復元し、整理して、解読し、意味を理解する。この 作業は数十年に及んだ。文書の多くは傷みがひどく、断片的にしか翻訳できない。復元や翻訳の 過程では、大勢の学者の努力とその知識で失われた部分を何とか埋めていく作業が不可欠だった。 多くのグノーシス文書がきわめて難解なのには、ほかにも理由がある。「福音書。という言葉栄 はあるものの、物語として語られていないのだ。 マ その多くは、旧約・新約聖書に出てくるような物語は含まれておらず、イエスが裏切られて、 グ ナ 十字架にはりつけられて復活するという、イエスの最後の日々を記しているわけでもない。その 大半が対話から成り立っていて、ときには、復活したイエスと弟子たちのあいだで交わされた会
間の霊魂のうちに宿る神秘についての洞察も見られる。 ナグ・ハマディの写本は、初期キリスト教の時代に何百、ひょっとすると何千と存在した文書 の一部だというのが研究者たちの一致した見解だ。ただし、弾圧による破棄を逃れたのはごく少 数でしかなかった。初期の時代には、独自の福音書を信奉する宗派が多数存在し、正統派のキリ スト教会はこうした貴重な文書の破棄を命じた。ナグ・ハマディ文書は、新約聖書におさめられ ることのなかった、隠された福音書をよみがえらせたのである。 ナグ・ハマディで見つかったグノーシス派のパピルス写本の多くは、四世紀以降、人々の目に 触れることはなく、その大半は現代ではまったく知られていなかった。この発見まで、グノーシ ス派に関する史料といえば、彼らを糾弾する人々、すなわち初期キリスト教時代に存在した多数 いしずえ ート・アーマ の宗派のなかで最終的な勝者となり、キリスト教会の礎をつくった人々 ( 研究者バ プロト・オルトドックス いたんはんばく ンのいう「原始正統派」 ) の記述がほとんどだった。よく知られているのが『異端反駁』を著し たリョンの司教ェイレナイオスで、彼はグノーシス主義者を異端とし、彼らの信仰体系を冒涜に 満ちたものとして糾弾した。 ナグ・ハマディ文書には、それまで存在すら知られていなかった聖典が含まれていた。初期キ リスト教時代に、数多く存在した宗派の微妙な教義の相違を物語る記録として、ナグ・ハマディ 文書は、グノーシス主義の思想や願望、理想を示している。それは過去ーーいまもなお闇のなか にある過去への扉なのだ。 エジプトのミニャー県で発見された、『ユダの福音書』が綴じられていた写本には、ナグ・ 180
つかの贈り物をしたという。 けいけん ハンナは敬虔なコプト教徒で、熱心に教会に通っていた。仲介業者のあいだでは、羽振りのよ 「宝石商ーとしてもよく知られていた。当時のエジプトの仲介業者たちは、土地の人々から、 ノナをはじめとする多くの古美術商 価値のありそうなものを手あたりしだい買いあげていた。ハ、 は、村人たちにとってみれば、外界との唯一のつながりだった。なかでもハンナと取引をするこ とで、アム・サミアはマガーガで裕福な人間の仲間入りができたのである。 カイロで多くの古美術品が売られている理由は単純だ。世界最大の市場のひとつであり、あら ゆる品物が扱われているからだ。 カイロの人口密度は東京並みで、都市部にはおよそ千六百万人が住んでいる。平日は、労働者 や経営者が郊外から電車や自動車、自転車、さらには徒歩で通勤してきて、その数は一一千万人に ふくれあがる。 カイロは喧騒に包まれた都市としても有名だーー車のクラクションや行きかう音、商人たちの 客引きの声がたえることはない。あちこちに市場があって、いちばん大きな市場がハン・エル・ その起源は六〇〇年以上も前にさかのばり、中世から変わらぬ活気に満ちている。スパイスや 香水、金・銀製品、絨毯、真鍮製品、革製品、アンティークから現代のガラス製品、陶器、博物