ち上げるための具体的なスケジュールを作った。 二〇〇一年一月。『ユダの福音書』の存在を宣一言するニュース 1 存作業、翻訳作業開始。 二〇〇一年二月。記者会見設定。 二〇〇一年一一月 5 一二月。東京の凸版印刷の「印刷博物館ーで一般公開。カタログ作成。 二〇〇二年一月。「最初の言葉 ( 仮題 ) 」出版。 二〇〇二年後半ファクシミリ ( 写真撮影 ) 版出版。 さらにフェリーニは世界中から専門家を招聘し、専門チームを組んで写本を分析してもらうこ とも考えた。フェリーニの考えた専門家や専門機関は次の通りだった。 ・ミシガン大学、デューク大学、または大英博物館の研究者による「保存チーム」 ド大学かニューヨ 1 クのモルガン図書館の専門家による「翻訳チームー はプリンストン大学のグノ 1 シス派福音書の専門家、エレーヌ・ペイゲルス。 ・同じくべイゲルスと、 1 ド大学の専門家からなる「文脈と神学的評価、グノーシス派、 ナグ・ハマディ文書の研究チ 1 ムー ・作業全体を記録する「ビデオ・チーム」 しよ、つへい 丿丿ースを発行。写真撮影、保 281 フェリーニとの対決
を検証できる専門家を探しており、私にも参加してもらえないかという その話を聞いたときの気持ちは、わくわくした、などという一言ではとても言い表せない。学 者として、世紀の発見の第一歩に関われるチャンスなど、めったにあるものではない。今回が、 そのチャンスかもしれないのだ。もちろん、偽物である可能性も否定できない。まずは真実を見 極める必要がある。 私は協力を申し出た。協会が私に求めているのは、古代キリスト教の専門家として、こうした 文書の歴史的な価値を判断するのに力を貸すことだった。科学者の手で、炭素の放射性同位元素 による年代測定も行われる予定だという。ぜひ古代コプト語の専門家も加える必要がある、と私 は主張した ( 私自身は、古代ギリシャ語の文書が専門だ ) 。コプト語の優れた研究者なら、手書 こうして三人のチ 1 き文字の様式を見るだけで、資料の年代がおおよそ推定できるに違いない ムが作られた。まずは米国アリゾナ州トウーソンにある全米科学財団 (Zco=) のアリゾナ加速 器質量分析研究センター所長、テイム・ジャル。彼は、炭素の放射性同位元素による年代測定法 の専門家だ。それから米国生まれで、ドイツのミュンスター大学で教授を務める、コプト学者の スティープン・エメルと、古代キリスト教専門の歴史家の私である。 二〇〇四年十二月、私たちはジュネープに飛び、極秘に当の写本を目にした。それは私たちの 楽観的な期待をも、はるかに上回るものだった。本物に違いない 、と私は心の中で確信した。コ プト語でなくギリシャ語専門とはいえ、これまで多くの古代の文書を見てきた経験からの直感だ った。文書の形態と書式は、四世紀のギリシャ語の文書と酷似している。一目見ただけで、同じ 13 はじめに
が決めたことで、彼女の責任だった。フェリーニの手にある間に数ベージが紛失したのは明らか だった。何が紛失したのかをつきとめなくてはとフリ 1 ダは田 5 った。 マエケナス財団も修復と翻訳の進め方を決めなければならなかった。財団としてはコプト学や パピルス文書学の専門家から助言を得るつもりだったが、その専門家は、この写本のことを絶対 に口外しない人物でなければならない。フリ 1 ダとこの問題を話し合った専門家は、修復も翻訳 も一つの組織でやったほうが簡単だしまちがいがないだろうという。 ウィーンのオーストリア国立図書館に修復を依頼する選択肢もあった。この図書館の職員は有 能で、写本の修復に必要な学識も備えている。この図書館の修復専門家は、古文書の修復の分野 ではトップクラスとして知られていた。オーストリア国立図書館に写本の修復を依頼して、五年 以内に出版することにし、刊行と翻訳の権利は財団が確保することにしてはどうかというのだ。 もう一つは修復と翻訳をスイスで行うという案だった。候補としては、マルティン・ポドマー ーゼルのアン 財団 ( もっともこの財団はまだ博物館を建設中で資金も十分ではなかった ) か、バ ティキン博物館が考えられた。だが、どちらの財団も必要な学識を備えた専門家の数や修復技術 が十分ではなく、スタッフの補充が必要だという。そのため米国の組織や大学から、たとえばこ のプロジェクト向きの大学院生や博士号を取得した研究者に支援を依頼することが考えられた。 修復プロジェクトにふさわしい学者としては、一九八三年にこの写本を調査したスティープ ン・エメルがいた。この他にもテイト・オルランディ、アンヌ・ブドール、べントレー・レイト ン、フレデリック・ビッセ、チャールズ・ヘドリックなどの名前が挙げられた。このうちレイト ろ 0 ろ風化
町の外れは小さな工場地帯になっており、ひときわ目立つ小高い土手からは、地元の水道会社 の二本の空気浄化装置が煙突のように突き出している。道を渡ったところに、ごくありふれたピ ザ屋がある。その二階は、修復専門家のフロランス・ダルプルが所有するこぢんまりとした工房 だ。ダルプルは美術品や古代遺物の修復の技術者で、羊皮紙とパピルスの修復を専門にしている。 工房も、中にある小さな研究室も、見た目は何の変哲もないこの場所で行われるのは、お金に 換算できない価値を持っ品々の調査だ。二〇〇四年十二月五日、この薄暗い研究室には、最高機 密の品が持ち込まれていた。それを知っているのは、世界でもほんの一握りの人間だけだった。 専門家たちは、十一時に到着した。彼らは世界中から、ニョンのこの殺風景な一室に集まって きた。一人また一人と到着する彼らは、コートやジャケットを着込み、背中を丸めていた。初期 キリスト教を専門とするアメリカ人の学者は、顔をほとんど覆い隠すほど大きなつばのついた帽 子をかぶっていた。彼らは全員、機密保持契約を交わしていて、向こう五年間、これから目にす る事柄について口外することを禁じられている。 ート・アーマンだ。ハ、 / サムで頭が少々はげかかっており、歯に衣着せぬ 専門家の一人は、バ 発言をする彼は、米国、いや世界でも最高の初期キリスト教研究者として名声を確立しつつある 学者だ。ノースカロライナ大学で宗教学部長を務めている。 二番目は、英国生まれの大男、 < ・・ティモシー ジャルだ。彼は放射性炭素年代測定法、 別名、炭素Ⅱ法の世界的権威として名をなした。有名な全米科学財団 (zn=) のアリゾナ加速 器質量分析研究所の所長である。 ろう 4
家は、かなりの断片がこのコプト語写本から抜き取られていることに気がついた。 調査の結果、この専門家は、断片のほか、全部で四 5 五ページの『ピリボに送ったペテロの手 紙』と、『ヤコプ黙示録 (*) 』と呼ばれる箇所がなくなっているとフリーダに告げた。『ユダの 福音書』から紛失している部分があるのかどうか、あるとすればどの部分が紛失しているのかは 特定できなかった。この専門家は調査結果を次のように報告している。 七通のマニラ封筒に、このパピルス写本に属していた断片が数十枚すっ入っている。これら の断片の多くは『ピリボに送ったペテロの手紙』か『ヤコプ黙示録 ( * ) 』に属していたもの らしい。写本の中の順序は、この二つの文書が『ユダの福音書』の前に来る。断片の大きさは、 切手大のものもあれば、一〇センチ四方のものまである。マニラ封筒に入ったこうした小さな 断片のほかに、同じ写本に属する、ほば一ページ分の大きさ ( サイズはこのレポート紙と同じ 位 ) の断片が五枚ある。この五枚の断片はギリシャ語の新聞にくるまれていて、うち一枚に は " ヤコプ。という飾り文字が記されていた。 封筒や新聞紙に包まれたこれら数十の断片以外に、写本からはがされたものは一つも残って しオし 、。これらの断片は『ユダの福音書』と同じ写本筆記者によって書かれたもので、パピル スの色と質も『ユダの福音書」と同じだった。 この専門家の結論は難題をもたらした。米国の古美術商フェリーニへの写本の売却はフリーダ ろ 02
写真を見たケーネンは、この発見は本物だと確信した。ケーネンは以前、カイロでハンナと会 ったことがあり、彼のことを信用できる古美術商だと認めていた。ケーネンは、この写本には聖 書に関連した内容が古代コプト語で書かれていて、ナグ・ハマディ文書と関連があるとみた。も しそうなら、きわめて重大な発見である。しかし、それを確認するには、専門家のチームを召集 しんびようせい し、このパピルス写本の信憑性や年代、内容を分析する必要があった。 一九八三年五月十五日の朝、ケーネンのチームはジュネープに集まった。それぞれの分野で最 も著名な学者を中心とした研究者の集まりだった。いずれも、新たな大発見と期待される写本を 調べる準備を整えて集まった人たちで、もし新発見であればぜひ買いたいと思っていた。 四人のうちの三人は、米ミシガン大学アナーバー校からやってきた。この大学の図書館は、米 国で最も見事なものといわれるパピルス文書コレクションを所蔵している。そのリーダーが、パ ピルス古文書学の専門家ケーネンだった。ケーネンはドイツで生まれてケルン大学で博士号を取 得し、一九七五年にミシガン大学で教授になり、大学の見事なパピルス文書コレクションをさら に充実させたいという野心に燃えていた。 ケーネンと一緒にやってきた同僚のデビッド・ノエル・フリードマン教授は、米国の聖書研究 の第一人者といわれていた。フリードマンは旧約聖書を専門とし、『アンカー聖書辞典』の編集 主幹を務めて高い評価を得ていた。 144
上、最も重要な宗教運動となる伝統的なキリスト教とは相容れない部分を持つ。それはキリスト に ( い、その教えに忠実であるとはどういうことかをめぐる、従来とは異なる見解である。 本書は、この写本がいつ、どこで、どのように発見され、どのような経緯で古美術商の手に渡 り、最終的に有能な専門家のもとにたどり着いたかを紹介している。こうした専門家たちが、ば らばらの断片と化していた写本を何年もかけて修復し、現代語に翻訳して、私たちが読めるよう な状態まで戻してくれたのだ。私も読者の方々とともに、この写本を翻訳するのに大変な努力を 注いだスイスのコプト学者ロドルフ・カッセルや、この写本が一般の人たちにも知ってもらえる よう、多大な時間と費用を提供してくれたナショナルジオグラフィック協会はもちろんのこと、 ート・クロ この福音書の発見と歴史の物語を、誰にも分かりやすく紹介してくれた著者のハ スニーに心から感謝したい。
基本的に古美術商は三つの分野に分けられる。古代芸術を専門とするグループ、コインを専門 とするグループ、そして古文書の持っ魅力と魔力に引き付けられている比較的小さいグループで ある。古文書の場合は、他の分野と比べてあまり金にならないと見なされている。 クトウラキスは古代芸術の愛好家だった。古いコインの研究にも鋭い感覚を持っており、時お りコインにも手を出したが、 古美術品ほど利益にはならないため、さほどの情熱は持っていなか った。だが、 古文書は好きではなかった。パピルスの文字についてよく知らないだけでなく、 元々信用していなかった。古文書の価値は、目ではっきりと見える物理的特徴や芸術性にあるも のではなく、羊皮紙やパピルスに書かれた言葉の中に存在するものだったからだ。 古文書で特に問題になるのは、そのもろさである。触れただけでばろばろに崩れることもある。 彫像などを専門とする他の古美術商と同様に、クトウラキスも、パピルスや羊皮紙がマッチ一本 で燃えてしまうという点をひどく嫌っていたに違いなしノ 、。ヾピルスだと水に濡れただけでも破損 してしまう。クトウラキスは、風雨などの悪条件に耐えられる堅固なものを好んだ。 ハンナとの次の話し合いは、一九八二年の夏に行われたが、当時の関係者に聞いても、日付の 名付け親にもなった。 ベルディオスを仲介人として、この後ハンナとクトウラキスは最後の話し合いをし、パピルス 写本はようやくハンナの手に戻ることになるのである。 1 ろ 7 窃盗事件
八キロのところにあるべニ・マザールという村の近くで発見された」とエメルは書いている。た だし、「そのような情報をどの程度信用してよいかは難しいところである」という見解も付記し ている。 三人の学者は仕事に取りかかった。箱の一つをベッドの上に置き、二番目の箱を机の上に置き、 三番目の箱は室内にあった化粧ダンスの上に置いた。「私はとても興奮していた」と後にエメル は語った。「ただ、最初の調査では、思っていたほど十分に調べる時間がなかった」 学者チームは文書の多様性に驚いた。そこには、コプト語とギリシャ語の写本が入っていた。 コプト語の文書はエメルが担当し、ギリシャ語のものはケーネンが担当することにした。 「この文書に含まれる四つの写本の数え方と呼び方について、仲介人の通訳を交えて所有者と 話し合って同意した」とエメルは書いている。彼の報告書は、専門家チ 1 ムが実際に見たものと、 写本がどのように配列されていたかについて正確に記録している。ギリシャ語で書かれたものは、 聖書に関連した文書と、重さと長さの科学である度量衡学に関する専門書であった。コプト語で 書かれたものは、『パウロの手紙』と『コプトの黙示録の古写本』と名付けられた。 限られた時間の中で、学者チームは可能な限り的確な分析を試みた。ケーネンは度量衡の専門 書の数ベージを急いで翻訳した。この『度量衡学論文』は一〇ページほどの分量で、後に、数学査 を使って問題を解く方法を教えるための文書で、例題も入っていることが判明した。おそらくは ギリシャ時代のエジプトで書かれた数学論文で、宗教とはまったく関係のない幾何学問題に関す るものであった。だが、 そのような文書が入っていたということはーー四つの写本が一緒に発見
2001 年にようやく修復専門家の手元にとどいたとき、「ユダの福音書』を含む写本は ぽろぼろに崩れ、細かい破片と化していた。 5 年間におよぶ苦心の修復作業の末、 文書は研究者が意味を解読できる状態まで復元された。