永遠の仏 やす また悪口を離れる行を修めては、人びとの心が安らいで うろたえ騒ぐことがないようにと願った。 むだ口を離れる行を修めては、人びとに思いやりの心を っちかうようにと願った。 ほとけ むさぼ また仏は、仏に成ろうとして、貪りを離れる行を修め、そ くどく の功徳によって人びとの心に貪りがないようにと願った。 いつく 憎しみを離れる行を修めて、人びとの心に慈しみの思い があふれるようにと願った。 いんが 愚かさを離れる行を修めて、人びとの心に因果の道理を 無視する誤った考えがないようにと願った。 じひ このように、仏の慈悲はすべての人びとに向かうもので あり、その本領はすべての人びとの幸福のため以外の何も のでもない。仏はあたかも父母のように人びとをあわれみ、 人びとに迷いの海を渡らせようと願ったのである。 35
仏の姿と仏の徳 この仏は大悲をもととし、いろいろな手段によって限り なき人びとを救い、すべてのものを焼き払う火のように、 ぼんのうたきぎ 人びとの、煩悩の薪を焼き、また、ちりを吹き払う風のよう に、人びとの悩みのちりを払う。 おうじん まっと 応身の仏は、仏の救いを全うするために、人びとの性質 しゆっけ じようどう に応じてこの世に姿を現わし、誕生し、 ' 出家し、成道し、 さまざまの手段をめぐらして人びとを導き、病と死を示し て人びとを警める仏である。 ほっしん 仏の身は、もともとーっの法身であるけれども、人びと の性質が異なっているから、仏の身はいろいろに現われる。 しかし、人びとの求める心や、行為や、その能力によって、 人の見る仏の相は違っていても、仏は一つの真実を見せる 仏の身は三つに分かれるが、それはただーっのことをな しとげるためである。ーっのこととは、いうまでもなく人 ほとけ いまし すがた びとを助け救うことである。 のみである。 きようがい 55 ても、その身は仏ではない。 限りのないすぐれた身をもって、あらゆる境界に現われ
永遠の仏 ところが、人びとはこの仏の心を知らず、その無知から ぼんのう とらわれを起こして苦しみ、 * 煩悩のままにふるまって悩む。 ざいごう 罪業の重荷を負って、あえぎつつ、迷いの山から山を駆け めぐる。 ほとけ じひ 2. 仏の * 慈悲をただこの世一生だけのことと思っては ならない。それは久しい間のことである。人びとが生まれ 変わり、死に変わりして迷いを重ねてきたその初めから今 日まで続いている。 仏は常に人びとの前に、その人びとにもっとも親しみの しゆっけ り、教えを説き、死を示した。 釈迦族の太子と生まれ、 * 出家し、苦行をし、道をさと ある姿を示し、救いの手段を尽くす。 31 がない。 がなく、人びとの罪の深さに底がないから仏の慈悲にも底 人びとの迷いに限りがないから、仏のはたらきにも限り
永遠の仏 あわれみとをかける。 やみ また、例えば、太陽が東の空に昇って、闇を滅ばし、す べてのものを育てるように、仏は人びとの間に出て、悪を ちえ 滅ばし、善を育て、 ' 智慧の光を恵んで、無知の闇を除き、 さとりに至らせる。 ほとけ いつく あわれ 仏は慈しみの父であり、悲みの母である。仏は、世間の人 じひ びとに対する慈悲の心から、ひたすら人びとのために尽くす。 人びとは仏の慈悲なくしては救われない。人びとはみな仏の 子として仏の救いの手段を受けなければならない。 第 3 節仏はとわに 1. 人びとはみな、 * 仏は王子として生まれ、 * 出家してさ とりを得たのだと信じているけれども、実は仏と成ってよ りこの方、限りのない時を経ている。 限りない時の間、仏は常にこの世にあり、永遠の仏とし て、すべての人びとの性質を知り尽くし、あらゆる手段を 尽くして救ってきた。 43
仏の救い その仏の国に至る人びとは、みな寿命に限りがなく、ま た自らほかの人びとを救いたいという願いを起こし、その 願いの仕事にいそしむことになる。 むじよう これらの願いを立てることによって、執着を離れ、 ' 無常 をさとる。おのれのためになると同時に他人をも利する行 じひ 為を実践し、人びととともに ' 慈悲に生き、この世俗の生活 の足かせや執着にとらわれない。 人びとはこの世の苦難を知りつつ、同時にまた、仏の慈 悲の限りない可能性をも知っている。その人びとの心には、 執着がなく、おのれとか、他人とかの区別もなく、行くも こだわるところがなく、まさに 帰るも、進むも止まるも、 心のあるがままに自由である。しかも、仏が慈悲をたれた 人びととともにとどまることを選ぶのである。 だから、もしもひとりの人がいて、この仏の名前を聞い て、喜び勇み、ただ一度でもその名を念ずるならば、その りやく 人は大いなる利益を得るであろう。たとえこの世界に満ち みちている炎の中にでも分け入って、この教えを聞いて信 じ喜び、教えのとおりに行わなければならない。 211 ほとけ しゅうじゃく
永遠の仏 ある。永年探し求めていた息子である。今より後、わたし のすべての財宝はみなこの子のものである。」 息子は父の告白に驚いてこう言った 「今、わたしは 父親を見いだしたばかりでなく、思いがけすこれらすべて の財宝までもわたしのものとなった。」 ほとけ ここにいう長者とは仏のことである。迷える息子とはす じひ べての人びとのことである。仏の * 慈悲は、ひとり子に向か う父の愛のようにすべての人びとに向かう。仏はすべての 人びとを子として教え導き、さとりの宝をもって彼らを富 める者とする。 いつく 3. すべての人びとを子のようにひとしく慈しむ仏の大 悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じてその 救いの手段には相違がある。ちょうど、降る雨は同じであ っても、受ける草木によって、異なった恵みを得るような ものである。 4. 親はどれほど多くの子供があっても、そのかわいさ に変わりがないが、その中に病める子があれば、親の心は とりわけその子にひかれてゆく。 仏の大悲もまた、すべての人びとに平等に向かうけれど ことに罪の重い者、愚かさゆえに悩める者に慈しみと も、
永遠の仏 だから、仏はその修行の初めに四つの大誓願を起こした。 ーっには誓ってすべての人びとを救おう。二つには誓って ぼんのう すべての煩悩を断とう。三つには誓ってすべての教えを学 ばう。四つには誓ってこの上ないさとりを得よう。この四 つの誓願をもととして仏は修行した。仏の修行のもとがこ の誓願であることは、そのまま仏の心が人びとを救う大 じひ 慈悲であることを示している。 せっしよう 3. 仏は、仏に成ろうとして殺生の罪を離れることを修 め、そしてその功徳によって人びとの長寿を願った。 仏は盗みの罪を離れることを修め、その功徳によって人 びとが求めるものを得られるようにと願った。 仏はみだらな行いを離れることを修め、その功徳によっ かわ て人びとの心に害心がなく、また身に飢えや渇きがないよ うにと願った。 仏は、仏に成ろうとして、偽りの言葉を離れる行を修め、 その功徳によって人びとが真実を語る心の静けさを知るよ うにと願った。 二枚舌を離れる行を修めては、人びとが常にイ中良くして 互いに道を語るようにと願った。 ほとけ だい 33
仏の姿と仏の徳 などが競い来って乱しても、少しも思いを乱されることな く清らかである。 ほとけちえ 3. 仏の智慧はすべての道理を知り、かたよった両極端 ちゅうどう を離れて、中道に立ち、また、すべての文字やことばを超え、 すべての人びとの考えを知り、一瞬のうちにこの世のすべ てのことを知っている。 静かな大海に、大空の星がすべてその形を映し出すよう に、仏の智慧の海には、すべての人びとの心や思いや、そ いっさい の他あらゆるものがそのままに現われる。だから仏を一切 ちしゃ 知者という。 この仏の智慧はあらゆる人びとの心をうるおし、光を与 いんが え、人びとにこの世の意味、盛衰、因果の道理を明らかに 知らせる。まことに仏の智慧によってのみ人びとはよくこ の世のことを知る。 4. 仏はただ仏として現われるだけでなく、あるときは 悪魔となり、あるときは神のすがたをとり、あるいは男の すがた、女のすがたとして現われる。 67
仏の姿と仏の徳 あわれ いつく びとに対して慈しみの心、悲みの心、とらわれのない心を 持ち、心のあらゆる汚れを去って、清らかな者だけが持っ 喜びを持つ。 ほとけ 2. この仏はすべての人びとの父母である。子が生まれ て十六か月の間、父母は子の声に合わせて赤子のように語 り、それからおもむろにことばを教えるように、仏もまた、 人びとのことばに従って教えを説き、その見るところに従 って相を現わし、人びとをして安らかな揺らぎのない境地 に住まわせる。 また仏は、一つのことばをもって教えを説くが、人びと はみなその性質に応じてそれを聞き、仏は今、わたしのた めに教えを説かれたと喜ぶ。 仏の境地は、迷える人びとの考えを超えており、 ことば では説き尽くすことはできないが、強いてその境地を示そ うとすれば、たとえによるほかはない。 すがた かめ 65 いつも清らかである。仏もこの河のように、異教の魚や亀 ガンジス河は常に亀や魚、馬や象などに汚されているが、
仏の姿と仏の徳 ぼんのう ' 煩悩の重荷に悩む者が仏に会えば、仏はそのために代わっ てその重荷をになう。 仏はこの世におけるまことの師である。愚かな迷いに苦し ちえ やみ む者が仏に会えば、仏は ' 智慧の光によってその闇を払う。 子牛がいつまでも母牛のそばを離れないように、ひとた び仏の教えを聞いた者は仏を離れない。教えを聞くことは 常に楽しいからである。 3. 月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現わ れると、人びとは月が出たという。けれども月は常に住して 出没することがない。仏もそのように、常に住して生滅しな いのであるが、ただ人びとを教えるために生滅を示す。 ほとけ しようめつ 人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、 月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏 もまたそのように、常に住して生滅しないのであるが、た だ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。 月はまたすべての上に現われる。町にも、村にも、山にも、 川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末の露にも現われる。 59 はずえ